殉死
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殉死(じゅんし)とは、王や皇帝、首長、祭司王などの喪に際して、それを追って死ぬこと。殉葬。殉死者が自殺する場合と、体制側が強制的に殉死者を選別する場合がある。
殉死を禁じる時代もあったが、それは殉死によって優秀な人材を喪失するのを避ける目的や、道徳に反することを恐れて禁ずる目的があったと考えられる。
古代エジプト、メソポタミア、古代中国などにおいては殉葬が行われた。中国では春秋時代、秦の穆公が死去した際に家臣177名が殉死し国家が揺らぐことになり、兵馬俑が作られるきっかけになった。
日本では、古代には邪馬台国の女王卑弥呼が死去した際には奴婢が殉葬されたと中国の歴史書『魏志倭人伝』などに記されている。『日本書紀』においては殉死を禁止して埴輪を作らせたとあり、大化の改新ののち、646年の薄葬令でも禁止された。中世以降の武家社会においても妻子や家臣、従者などが主君の死を追うことが美徳とされた。江戸時代の1663年には、4代将軍徳川家綱、5代綱吉の治世期に幕政が武断政治から文治政治へと移行すると、寛文3年5月の武家諸法度の公布とともに殉死の禁が口頭伝達され、天和3年(1683年)には末期養子禁止の緩和とともに殉死の禁は武家諸法度に組み込まれた。明治には、1912年の明治天皇崩御の際に殉死した陸軍軍人の乃木希典の殉死が社会的影響を与える。
[編集] 武士の殉死
主君が討ち死にしたり、敗戦により腹を切った場合、家来達が後を追って、討ち死にしたり切腹することや、または、その場にいなかった場合、追い腹をすることは自然の情及び武士の倫理として、早くから行われていた。しかし、主君が病死等自然死の場合に、追い腹を切る習慣は、戦国時代までは無かった。
江戸時代に入ると戦死する機会が少なくなったことにより、自然死の場合でも近習等ごく身近な家臣が追い腹をするようになった。ところが、カブキ者が流行り、追い腹を忠臣の証と考える風習ができ、それにより殉死者の遺族に加増などの褒美が与えられるようになると、一層まねをするものが増え、遂には、近習、重臣で殉死を願わないものは不忠者、臆病者とまで言われるようになった。この弊害に、名君といわれる大名は早くから気づいており、殉死を抑えようとしたが、あまり効果は無く、江戸幕府が儒教要素の入った武士道(士道)により本格的な禁令を定めて、やっと収まることになった。
また、世代交代としての役割があったとされている。家を後継したばかりの若い主君では、先代の重臣たちに実務面で太刀打ちができず、主君を中心とした統一的な行動が難しくなる。そこで主家のために、先代に重く用いられたものは潔く死に、円滑な世代交代を実現する。戦国時代には世代交代がうまく行かず、結局亡国の憂き目にあった大名家も多くいる。
[編集] 関連項目
[編集] 殉死を扱った作品
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