武田信玄
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| 時代 | 戦国時代 | |||
| 生誕 | 大永元年11月3日(1521年12月1日) | |||
| 死没 | 元亀4年4月12日(1573年5月13日) | |||
| 別名 | 甲斐の虎 | |||
| 改名 | 勝千代(幼名)、太郎(通称) 武田晴信→徳栄軒信玄 | |||
| 戒名 | 法性院機山信玄 | |||
| 墓所 | 信玄墓、大泉寺、恵林寺、諏訪湖 長岳寺、竜雲寺、高野山、福田寺 妙心寺ほか | |||
| 官位 | 従四位下、大膳大夫。信濃守。贈従三位 | |||
| 幕府 | 室町幕府甲斐守護職・信濃守護職 | |||
| 氏族 | 武田氏(清和源氏・河内源氏系甲斐源氏) | |||
| 父母 | 父:武田信虎、母:大井の方 | |||
| 兄弟 | 信玄、信繁、信基、信廉、 一条信龍、松尾信是、河窪信実、 南松院(穴山信友室)、 禰々(諏訪頼重室)ほか | |||
| 妻 | 正室:上杉朝興の娘 継室:三条公頼の娘・三条の方 側室:諏訪頼重の娘・諏訪御料人 禰津元直の娘・禰津御寮人 油川源左衛門の娘・油川夫人ほか | |||
| 子 | 義信、海野信親(竜芳)、信之 勝頼、黄梅院(北条氏政室) 見性院(穴山信君室)、仁科盛信、 葛山信貞、松姫(織田信忠と婚約) 信清、菊姫(上杉景勝室) 真竜院(木曽義昌室) | |||
武田晴信/武田信玄(たけだ はるのぶ/たけだ しんげん、大永元年11月3日〔1521年12月1日〕 - 元亀4年4月12日〔1573年5月13日〕)は、戦国時代の武将・大名で、甲斐国の守護。河内源氏の傍系・甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家の当主。「信玄」とは法名で、諱は晴信、通称は太郎(たろう)。官位は従四位下、大膳大夫。贈従三位。
甲斐の守護を代々務めた甲斐源氏武田家の嫡男として生まれ、隣国の信濃に侵攻、上杉謙信と川中島の戦いを行ないつつ勢力を広げて信濃をほぼ平定。甲斐、信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領するが、上洛の途上、三河で病を発し信濃で病没した。越後の上杉謙信と5度にわたって川中島の戦いで干戈を交えたことでも有名。
風林火山の軍旗を用い、甲斐の虎と呼ばれ、率いた武田軍は戦国最強と評される。大正期には従三位を贈られ、今もなお広く人気を集めている戦国武将の一人。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 甲斐国守護
大永元年(1521年)11月3日に武田信虎の嫡男として甲斐国・積翠寺城で生まれた。幼名は勝千代(かつちよ)である。
父は甲斐源氏の名門・武田氏の第18代当主で、甲斐を統一して戦国大名としての地位を確立した勇将である。信玄が生まれた大永元年(1521年)に甲斐は駿河の今川氏親の命を受けた福島正成率いる1万5000人の軍勢に攻められていたが、武田軍は勝千代の誕生を知って士気を奮い立たせ、今川軍を撃退したと言われている。また、「甲陽軍監」や「武田三代記」などによれば、信玄誕生のとき、産屋の上に一条の雲がたなびき、白旗の風に翻るように見えたが、それが消えたとき、一双の白鷹が3日間も産屋にとまったとされる。このため、諏訪明神の神使が若君(信玄)を守護してくれるのだと末頼もしく思ったとされている。別の話では、信虎が陣中で休息しているとき、曽我五郎が自分の子になる夢を見て、そのときに信玄が生まれたとされている。
しかし大永5年(1525年)に弟の武田信繁が生まれると、父の寵愛は信繁に移り、勝千代は徐々に疎まれるようになったとされる。甲陽軍監には、天文7年(1538年)正月の元旦祝いのとき、信虎は晴信には盃をささず、信繁にだけ盃をさしたという逸話がある。
はじめの正室は天文2年(1533年)、父の政略により迎えられた上杉朝興の娘である。晴信と彼女の仲は良かったらしく、天文3年(1534年)に彼女は妊娠したが、残念なことに難産で彼女も子も死去してしまった。このため、継室に左大臣・三条公頼の娘である三条夫人を迎えている。
天文5年(1536年)に今川氏輝が死去し、今川義元が家督を継ぐと武田氏は今川氏と和睦し、義元の斡旋を受けて、勝千代は三条公頼の娘を室に迎える。同年に元服し、室町幕府第12代将軍・足利義晴から偏諱を受け、名を「晴信」と改め、従五位下・大膳大夫・信濃守に叙位・任官される。初陣は信濃国の海の口城主・平賀源心攻めであるとされる。
天文10年(1541年)、宿老であり有力国人領主である板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌等に擁立され、父・信虎を駿河国へ追放し、武田家第19代家督を相続する。信虎の追放の理由は後世の史書には悪行のためと記されているが、真偽のほどは不明。信虎は各方面での戦争を続け、国人勢力の統率に強力な中央集権化政策を採る一方で、大凶作中にも戦争と苛烈な政策をとり続け、奉行衆の造反を招いている。晴信の家督相続、そして父・信虎の追放を甲斐国の領民たちは歓迎していたとも記されている。
[編集] 信濃国を平定
父・信虎を追放した直後、信濃国諏訪上原城主・諏訪頼重、同じく信濃林城主であり信濃国守護職の小笠原長時が甲斐国に侵攻してくるが、晴信はこれを撃退した。そして天文11年(1542年)6月、晴信は逆に諏訪領内に侵攻する。折しも諏訪氏内部では諏訪頼重・高遠頼継による諏訪宗家を巡る争いが起こっていたため、晴信はこれに介入し、高遠頼継と手を結んで諏訪頼重を滅ぼし、諏訪を平定した。続いて同年10月、諏訪領の分割問題から高遠頼継と対立し、高遠軍を小淵沢で破った。
天文12年(1543年)、信濃国長窪城主・大井貞隆を攻めて自害に追い込んだ。天文14年(1545年)4月、上伊奈の高遠城に侵攻し、高遠頼継を、続いて6月には福与城主・藤沢頼親も滅ぼした。
天文16年(1547年)、志賀城の笠原清繁を攻める。このとき、笠原軍には上野の上杉憲政の援軍も加わったため苦戦したが、8月6日の小田井原の戦いで武田軍は上杉・笠原連合軍に大勝する。ところがこのとき、晴信は敵兵の降伏を許さず、3,000人の敵兵全てを虐殺し、さらに女子供を人質・奴隷にするなど過酷な処分を下した。この事件が信濃国の国人衆に晴信への不信感を植え付け、信濃平定を大きく遅らせる遠因となったといわれている。同年、分国法である甲州法度之次第(信玄家法)を定める。
天文17年(1548年)2月、晴信は信濃国北部に勢力を誇る村上義清と上田原で激突する(上田原の戦い)。しかし兵力で優勢にありながら武田軍は村上軍に敗れて宿老の板垣信方・甘利虎泰らをはじめ多くの将兵を失った。晴信自身も傷を負い甲府の湯村温泉で30日間の湯治をした。この機に乗じて同年4月、小笠原長時が諏訪に侵攻して来るが、晴信は7月の塩尻峠の戦い(勝弦峠の戦い)で小笠原軍に大勝した。
天文19年(1550年)7月、晴信は小笠原領に侵攻する。これに対して小笠原長時にはすでに抵抗する力は無く、林城を放棄して村上義清のもとへ逃走した。こうして、中信は武田の支配下に落ちた。
勢いに乗った晴信は同年9月、村上義清の支城である砥石城を攻める。しかし、この戦いで武田軍は後世に砥石崩れと伝えられる大敗を喫し、横田高松や小山田信有らをはじめとする1,000人以上の将兵を失った。
しかし天文20年(1551年)4月、真田幸隆(幸綱)の策略で砥石城が落城すると、武田軍は次第に優勢となり、天文22年(1553年)4月、村上義清は葛尾城を放棄して越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとへ逃れた。こうして東信も武田家の支配下に入り、晴信は北信を除き信濃をほぼ平定した。
[編集] 川中島の戦い
天文22年(1553年)4月、村上義清の要請を受けた長尾景虎が5000の軍勢を率いて信濃川中島に進出してくる(第1次川中島の戦い)。しかし晴信も景虎も軍を積極的に動かすことなく、5月には両軍ともに撤退した。
同年8月、景虎の支援を受けて大井信広が謀反を起こすが、晴信はこれを直ちに鎮圧した。
天文23年(1554年)の春、長尾景虎に対抗するため、晴信は長男の義信の正室に今川義元の娘を迎え、また娘を北条氏康の嫡男・北条氏政に嫁がせて、後北条氏とも同盟を結んだ。今川氏と北条氏は武田家を仲介として、氏康の娘が義元の長男・今川氏真に嫁ぐことで同盟を結び、甲相駿三国同盟が成立した。
弘治元年(1555年)4月、武田軍と長尾軍が川中島で対峙する(第2次川中島の戦い)。しかし戦果は無く、駿河の今川義元の仲介により、両者は10月に和睦して撤退した。晴信は長尾軍が越後に撤退すると、かねてから景虎に通じて反抗していた木曽義康・木曽義昌父子を攻め、これを屈服させた。弘治2年(1556年)には信濃北部に進出する。
弘治3年(1557年)、長尾景虎が川中島に進出してきたことにより、再び武田軍と長尾軍の対峙が始まる(第3次川中島の戦い)。しかし両軍共に戦果は無く、さらに景虎の留守中に加賀・越中で一向一揆が起こったため、長尾軍は撤退した。
永禄2年(1559年)5月、晴信は出家して「信玄」(徳栄軒信玄)と号した。
永禄4年(1561年)9月10日、武田信玄軍2万と上杉政虎軍1万3,000との間で、4度目の川中島の戦いが行われる(第4次川中島の戦い)。この戦いは今までの川中島の戦いで最大規模の戦いとなり、両軍合わせて6,000人余の死者が出たと言われている。この戦いで武田軍は信玄の弟・武田信繁、諸角虎定、山本勘助、三枝守直ら有力武将の多くを失ったという。
永禄7年(1564年)にも上杉軍と川中島で対峙したが、衝突することなく終わっている(第5次川中島の戦い)。
[編集] 今川・北条との戦い
川中島の戦いの後、信玄は侵攻の矛先を上野に向けたが、上杉旧臣である長野業正が善戦した為、捗々しい結果は得られなかった。しかし、業正が永禄4年(1561年)に死去すると、武田軍は後を継いだ長野業盛を激しく攻め、永禄9年(1566年)9月には箕輪城を落とし、上野西部を制圧することに成功した。
永禄3年(1560年)5月、武田氏の盟友であった今川義元が、織田信長によって桶狭間の戦いで討たれたことにより、今川家が衰退の兆しを見せ始める。このため、信玄は今川氏との同盟を破棄して駿河に侵攻しようと計画するが、義元の女婿である嫡男・武田義信とその傳役・飯富虎昌が激しく反対する。信玄は永禄8年(1565年)に飯富虎昌を切腹させ、永禄10年(1567年)10月には義信を廃嫡し、自殺に追い込んだ(病死説もあり)。
その上で、永禄11年(1568年)12月、三河の徳川家康と共同で駿河侵攻を開始する。今川軍も抵抗したが、松野山で荻清誉を、薩垂山で今川氏真軍を破り駿府城へ入った。しかし、今川氏と縁戚関係にあった北条氏康が、今川氏の援軍に駆けつける。さらに駿河征服を企む家康も氏康と同盟を結んで信玄と敵対したため、北条・徳川連合軍と戦う不利を悟り、永禄12年(1569年)横山城に穴山信君を抑えに残し、4月に武田軍本体はひとまず甲斐に撤退した。
同年9月、信玄は2万の大軍を率いて、北条を叩くべく上野・武蔵国・相模国に侵攻する。10月1日には小田原城を包囲するが、その4日後の10月5日には早くも包囲を解いた。北条は北条氏照・北条氏邦等を武田軍の甲斐への退却路に布陣させ、小田原からは北条氏政らが出陣し挟撃する構えを取ったが、10月8日、三増峠において武田信玄軍と北条氏照・北条氏邦軍が激突、武田軍が大勝した(三増峠の戦い)。
こうして北条氏康を抑えた上で、元亀元年(1570年)7月、再び駿河に侵攻し、完全に平定した。
[編集] 甲相同盟
永禄11年(1568年)9月、足利義昭を奉じて織田信長が上洛を果たした。ところが信長と義昭はやがて対立し、義昭は信長を滅ぼすべく、信玄に信長討伐の御内書を発送する。信玄も信長の勢力拡大を危惧したため、元亀2年(1571年)2月、信長の盟友である徳川家康を討つべく、遠江国・三河国に侵攻する。信玄は同年5月までに小山城、足助城、田峯城、野田城、二連木城を落としたうえで、甲斐に帰還した。
元亀2年(1571年)10月3日、北条氏康が小田原で死去。後を継いだ嫡男の氏政は、「再び武田と和睦せよ」との亡父の遺言に従い、謙信との同盟を破棄して弟の北条氏忠、北条氏規を人質として甲斐に差し出し、12月27日には信玄と甲相同盟を結ぶに至った。この時点で武田家の領土は、甲斐一国のほか、信濃、駿河、上野西部、遠江・三河・飛騨・越中の一部にまで及び、石高はおよそ120万石に達した。
[編集] 西上
永禄8年(1565年)、信玄と信長は東美濃の国人領主遠山氏の女を信長が養女とし武田勝頼に嫁がせることで同盟を結んだ。その養女は武田信勝(信玄の嫡孫)を出産した直後に死去したが、続いて信長の嫡男・織田信忠と信玄の娘・松姫の婚約が成立しており、徳川氏とは軍事的衝突を行いながらも織田氏と武田氏は引き続き同盟関係にあった。
元亀3年(1572年)10月3日、将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じて信長との同盟を事実上破棄して、上洛するために甲府を進発した(ただし、信玄は信長に友好的な書状を送り続けるなど、なおも同盟を続行させるかのような行動を見せている)。約3万の全軍のうち、3千を秋山信友に預けて信長の領土・東美濃に、山県昌景に5千を預けて家康の領土・三河に、そして自らは馬場信春と共に2万の大軍を率いて青崩峠より遠江に攻め入った(これには後北条家の援軍2000も加わり、総勢は2万2000ともされる)。
信玄率いる本隊は10月13日、只来城、天方城、一宮城、飯田城、各和城、向笠城などの徳川諸城を1日で落とした。山県昌景軍は柿本城、井平城(井平小屋城)を落として信玄本隊と合流し、秋山信友軍は11月までに東美濃の要衝である岩村城を落とした。
これに対して、信長は浅井長政、朝倉義景、石山本願寺の一向宗徒などと対峙していたため、家康に3千人の援軍を送る程度に止まった。家康は10月14日、武田軍と遠江一言坂において戦ったが、兵力の差と信玄の巧みな戦術に敗れた(一言坂の戦い)。12月19日には、遠江の要衝である二俣城を陥落させた。
これに対して、家康ははじめ浜松に篭城の構えを見せたが、武田軍の動きを見て兵1万1,000を率いて出陣、遠江三方ヶ原において、12月22日に信玄と一大決戦を挑む。しかし兵力の差、並びに信玄の戦術の前に大敗を喫し、徳川軍は多くの将兵を失い敗走した(三方ヶ原の戦い)。このとき、家康は馬で逃走する際に、恐怖のあまり馬上で脱糞したと伝えられている。
しかしここで盟友浅井長政の援軍として北近江に参陣していた朝倉義景の撤退を知る。信玄は怒り義景に文書を送りつけた(伊能文書)。しかし義景はその後も動こうとしなかった。
そのため、信玄は軍勢の動きを止め刑部において越年したが、元亀4年(1573年)1月には三河に侵攻し、2月10日には野田城を落とした(野田城の戦い)。
[編集] 最期
しかし野田城を落とした直後から、信玄の持病が悪化し、武田軍の進撃は突如として停止する。このため、信玄は長篠城において療養していたが、病状は一向に良くならず、4月初旬には遂に甲斐に撤退することを決意する。
4月12日、軍を甲斐に引き返す途上の信濃国駒場(長野県下伊那郡阿智村)で病死した。享年53。戒名:法性院機山信玄。菩提寺:山梨県甲州市の恵林寺。
[編集] 遺言
信玄の遺言については、信頼の置ける同時代史料が存在せず、後世の史書や物語などで断片的に伝えられているだけなので、本当に信玄の遺言なのかの裏付けはとれていない。
- 勝頼に対して「自分が死した後は上杉謙信を頼れ。また三年間を喪を秘せ」と言い残したと言われている。
- 重臣の山県昌景に対して、「源四郎、明日は瀬田に(我が武田の)旗を立てよ」と言い残したという。
[編集] 辞世の句
「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」
[編集] 政策
[編集] 新田開発
武田氏の本拠地である甲斐は平野部である甲府盆地を有するが、釜無川、笛吹川の二大河川の氾濫のため利用可能な耕地が少なく年貢収入に期待ができなかった為、治水事業による氾濫原の新田開発を精力的に実施した。代表的な事例として、御勅使川と釜無川の合流地点である竜王(旧中巨摩郡竜王町、現甲斐市)では信玄堤と呼ばれる堤防を築き上げ、河川の流れを変え開墾した。 この治水技術は、現在、アフガニスタンなどの発展途上国で応用されている。
[編集] 金貨の製造
日本で初めて金貨である甲州金(碁石金)を鋳造した。甲斐には豊富な埋蔵量を誇る金山が存在し、南蛮渡来の掘削技術や精錬手法を積極的に取り入れ、莫大な量の金を産出し、治水事業や軍事費に充当した。また中央権門や有力寺社への贈答、織田信長や上杉謙信に敵対する勢力への支援など、外交面でも大いに威力を発揮した。但し、碁石金は通常の流通には余り用いられず、また金山の採掘に関しては武田氏は直接支配を行わず、金堀衆と呼ばれる技術者集団の諸権益を補償することによって金を得ていた。
[編集] 寺社政策
寺社政策では寺領の安堵や寄進、不入権など諸権益の保証、中央からの住職招請、法号授与の斡旋など保護政策を行う一方で、規式の保持や戦勝祈願の修法や戦没者供養、神社には神益奉仕などを義務づける統制を行っている。信玄は自身も仏教信仰を持っていたが、領国拡大に伴い地域領民にも影響力を持つ寺社の保護は領国掌握の一環として特定宗派にとらわれずに行っている。特に臨済宗の恵林寺に対する手厚い保護や、武田八幡宮の社殿造営、甲府への信濃善光寺の移転勧請などが知られる。
[編集] 人物
右の甲府駅前の銅像の元になった、有名な彼の肖像画「高野山成慶院蔵」については、近年別人説が出されている。
- 39歳で出家し剃髪したにも関わらず、後鬢が残されている。
- 服や刀の家紋が武田花菱紋でなく、二引両紋(足利・畠山)である。
- 持病の労咳や癌で死んだとされる割には、身体がふっくらしている。
- 後方に飛んでいる鳥は、能登の鳥である。
- 絵師は能登出身の長谷川等伯であることは間違いないが、この時期能登から出た形跡が無いこと。
以上から近年畠山義続ではないかという学説が出ている。最近の教科書には「伝・武田信玄」となっていたり「高野山持明院蔵」の肖像画が使われていたりする。しかしながらどちらも推測の説を出ないものであり、今後の研究が待たれる所である。
[編集] 名言
- 「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり(どれだけ城を堅固にしても、人の心が離れてしまったら世を治めることはできない。情けは人をつなぎとめ、結果として国を栄えさせるが、仇を増やせば国は滅びる)」
- この言の通り、信玄はその生涯の内一度も甲斐国内に新たな城を普請せず、堀一重の躑躅ヶ崎館に住んだ。但し、後背には詰めの城である積翠寺城があり典型的な戦国武将の居館ともいえる。また、この言葉は後世の創作であるとも言われるが、能く信玄の理念を顕しているとも言われる。
- 「およそ軍勝五分をもって上となし、七分をもって中となし、十分をもって下と為す。その故は五分は励を生じ七分は怠を生じ十分は驕を生じるが故。たとへ戦に十分の勝ちを得るとも、驕を生じれば次には必ず敗るるものなり。すべて戦に限らず世の中の事この心掛け肝要なり」
- 勝者に驕りが生じることを戒めた言葉。信玄死後、連戦連勝を重ねた勝頼が長篠で一敗地にまみれたことを重ねると、実に説得力のある戒めであるが、そもそも甲陽軍鑑の脚色とする説もある。
[編集] 風林火山
「其疾如風 其徐如林 侵掠如火 不動如山(その疾きこと風の如く、その徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し(この後「知り難きこと陰の如く、動くこと雷震の如し」と続く))」
孫子に記された言葉であり、しばしば風林火山と略される。信玄はこれを軍旗とし戦った。また、その軍旗は恵林寺の住職快川紹喜の書と伝わる。
[編集] その他
- 信玄が衆道の相手春日源介(後の春日虎綱)に、浮気の弁明をする手紙が現存する。当時は男色は一般的であると言うより、女色よりも高尚であり男のたしなみと認識されていた。
- 仏教の信仰は篤かったとされている。しかし、信玄自身は在家出家しながらも俗世との関わりを絶たずにいる等、仏教に背く行為がみられた。
このことに関して信憑性は今ひとつである『甲陽軍鑑』(元々信玄本人が著したのではないのと、成立が江戸初期という事で、当時の幕府の手が加わっている個所が多々見られる)の記述では、当時信玄が熱心に勉強していた『碧巌録』の10巻ある内の7巻までを信玄が参禅し終わった時、岐秀という僧に「あなたはこれ以上する必要はありません。武士である以上、悟りをひらいて俗世を捨てるという考え方はいかがなものか」と言われ、信玄本人は10巻までの参禅を希望したが、説得され7巻までにとどまったとされている。
当時の武士、特に国持ち大名と呼ばれる武士達と僧というのはとても繋がりが深く、多くの武士が出家しているが、国の情勢や家督問題、俗物的な思惑など様々な理由により悟りをひらくまでにはいたっていない。当時の有力寺社には僧兵、神人と呼ばれる武装した下級の僧侶、神職を抱え、女人に手を出し強盗紛いの行為に及ぶなど堕落し、俗世に関わり武装闘争をも辞さなかった。信玄は出家しこれ等宗教勢力の一員もしくは協力者ともいえる関係になることで、これ等の宗教勢力や一揆を扇動し、他の大名への牽制や戦力の分散をさせるといった狙いもあったとされる。『甲陽軍鑑』の中で信玄出家の理由の一つに、出家することで大僧正の地位を手に入れるといった目的もあったとの記述も見られる。また、本願寺の顕如の夫人如春尼と信玄の正室三条の方は実の姉妹である。このような事や家臣にも同様に出家したものが複数いることから、信玄個人だけでなく武田家は宗教勢力との関わりが深かったと言える。 - 織田信長が信玄を警戒していたのは知られているが、信玄も自分よりも上の領地・兵力を持つ信長を警戒しており、前述の朝倉義景の撤退でその進行を止めたことは、他の勢力と自分のみで争うのは不安であった証左ともいえる。
- 躑躅ヶ崎館に、水洗トイレを設置している。躑躅ヶ崎館の裏から流れる水を利用した仕組みで信玄がひもを引いて鈴を鳴らすと伝言ゲームのように配置された数人の家臣に知らされていき上流の者が水を流す仕組みである。信玄はここを山と言う名称で呼んでいた。家臣が「何故、厠を山と言うのでしょう?」と尋ねた所、信玄は「山には常に、草木(臭き)が絶えぬから」と機知に富んだ回答をしている。トイレと言ってもかなり広く、室内には机や硯も設置されいた。信玄はここで用を足しながら書状を書いたり作戦を考えていた。
- 甲陽軍鑑によると、信長から小袖が贈られた時に、信玄はそれが入れられていた漆箱の方に目をつけそれを割るなどして調べると、それは漆を何度も重ね塗りしたものでありその丁寧さから「これは織田家の誠意の表れであり、武田家に対する気持ちが本物だ」と言った事から、信長の真意はともかく細かい所にも気をつける性格だったようである。
[編集] 近代以降
- 戦前には内務省が武田神社の別格官弊社への昇格条件に信玄の勤王事跡の挙証を条件としていたこともあり、郷土史家により信玄を勤王家と位置づける研究も見られた。戦後には、英雄史観や皇国史観を廃した実証的研究が中世史や武田氏研究でも行われるようになり、昭和62年には武田氏研究会が発足し、磯貝正義、上野晴朗、笹本正治、柴辻俊六、平山優、秋山敬らの研究者が出現し、実証的研究や武田氏関係史料の刊行を行っている。
- 戦後には産業構造の変化から観光が山梨県の主用産業になると、観光事業振興のもと信玄は県や甲府市によって歴史的観光資源となる郷土の象徴的人物としてより位置付けられた。信玄の命日にあたる4月12日の土日には時代行列「甲州軍団出陣」を目玉とした都市祭礼である信玄公祭りが開催されており、また山梨の日常食であったほうとうが「信玄の陣中食」として観光食としてアピールされるなど、観光物産に関わるさまざまな信玄由来説が形成された。
[編集] 逸話
- 信玄は、かなり前から病を患っていたものと思われる。信玄ははじめ上洛を開始する日時を10月1日としていたが、それを10月3日まで先延ばししたのは、信玄の病が一時的に悪化したためと言われている。
- 信玄は情報収集を重要視し、「三ツ者」と呼ばれる隠密組織を用いて、情報収集や諜報活動を行なわせたと言われている(甲陽軍鑑では三ツ者のほか、素破とも表現されている)。また、身寄りの無い少女達を集めて忍びの術を仕込ませ、表向きは「歩き巫女」として全国に配備し諜報活動を行わせたという。信玄が戦争に常に勝利し続けたのは、常にこういった情報収集が素早かったためと言われている。このため、信玄は甲斐に居ながら日本各地の情報を知っていたことから、まるで日本中を廻っていたかのような印象を持たれ「足長坊主」と異称された。
- 上洛のとき、「甲陽軍鑑」において、次のようなことを信玄自らが述べたという記述がある。
- 「遠州・三河・美濃・尾張へ発向して、存命の間に天下を取つて都に旗をたて、仏法・王法・神道・諸侍の作法を定め、政をただしく執行はんとの、信玄の望み是なり」
- 信玄は水軍創設に尽力し、元亀2年(1571年)に間宮武兵衛(船10艘)、間宮造酒丞(船5艘)、小浜景隆(安宅船1艘、小舟15艘)、向井正勝(船5艘)、伊丹康直(船5艘)、間宮忠兵衛(船12艘、同心50騎)などを登用して、武田水軍を創設している。
[編集] 研究
[編集] 死因
死因に関しては、侍医御宿監物書状(戦国遺文2638号)にみられる持病の労咳(肺結核)、肺炎、『甲陽軍鑑』による胃がん若しくは食道癌による病死説が有力である。徳川勢の鉄砲弾による傷が原因との説があり、武田軍が三河国野田城を攻囲中、信玄が城中から聞こえる笛の音に惹かれてやってきたところを狙撃され負傷したのだというが俗説である。これは「松平記」など徳川方の史料だけにしか見解が無いため、恐らくは信玄を討ち取ったという手柄を徳川一族のものにしたいという創作ではないかとされている。また、近代には地方病として蔓延した日本住血吸虫病による体力の低下という説もある。また、織田信長にヒ素で毒殺されたとする説もある。
[編集] 父の追放について
近年、信玄は老臣の操り人形で、父追放は甲斐の有力国人衆のクーデターだという説がある。その理由に、信玄が16歳にて初陣に出たと言う輝かしい日に、駒井高白斎は日記に、今川家の家督争いを書いている。なお学会の見解としては20歳にて初陣に出たという意見で一致しているが、これは戦国大名としては遅すぎるので、このような説が出たと思われる。
[編集] 武田菱
武田菱は、甲州武田家の家紋である。菱形を4つ合わせた形状であり、知名度が高い。旧甲斐国の山梨県では、甲府駅から一般家屋に至るまであらゆる場所に武田菱が見られる。また山梨県警機動隊の車両などの装備品にも用いられている。
なお、皇居で行なわれる新年一般参賀や天皇誕生日の一般参賀において使用される宮殿・長和殿のベランダ(天皇や皇族らが立つ位置)周辺に武田菱が存在するが、甲州武田家とは無関係である[要出典]。
[編集] 系譜
清和源氏の中の河内源氏系の新羅三郎義光を祖とし、代々甲斐の守護を務め甲斐源氏と呼ばれる武田氏の第19代当主に当たる。武田家は源平時代には武田信義が、源頼朝や源義仲と共に、平清盛討伐の命令を受けるなど、昔より武力に秀でていた。
信玄の妻は左大臣である三条公頼の娘の三条の方(または三条夫人)のほか、諏訪頼重の娘など、多数の妻がいたという説もあるが、史料的に確認できるのは、三条の方、諏訪御料人、禰津御寮人、油川夫人の四人である。現在では、信玄の妻はこの四人だったというのが、通説になっているようである。 現在の武田家臣の子孫には『三枝家』が有名である。
[編集] 神将
武田信玄に仕えた武将達の中でも特に評価の高い24名の武将を指して武田二十四将(武田二十四神将)と言う。原典は江戸時代に作られた浮世絵や浄瑠璃で、正式に武田家中で二十四将と言う区分や呼称は存在しない。選ばれた武将達も時代は離れており、全員が同時期に信玄に仕えていた事は無い。庶民の評価で決まったものらしく、資料によっては顔ぶれが違うものもあるが、一般的な二十四将は以下の武将があげられる。
[編集] 関連項目
- 楯無(武田家の家宝)
- 諏訪湖
- 武田神社
- 設楽貞通
- 田村怡与造
- 明治期の陸軍軍人。優れた戦略家であると評され、山梨出身であることから「今信玄」と呼ばれた。
- 金丸信
- 戦後政治家。武田氏の一族である金丸氏の子孫。中央政界や県政において影響力を持ち、全盛期には信玄にたとえられた。
- 史料
- 小説
- 映画
- テレビドラマ
- 天と地と(1969年、NHK大河ドラマ、武田信玄:高橋幸治)
- 武田信玄(1988年、NHK大河ドラマ、武田信玄:中井貴一)
- 武田信玄(TBS、武田信玄:役所広司)
- 風林火山(1992年、日本テレビ。「年末大型時代劇スペシャル」第8弾。武田信玄:舘ひろし)
- 風林火山(2006年、テレビ朝日。武田信玄:松岡昌宏)
- 風林火山(2007年、NHK大河ドラマ、武田信玄:市川亀治郎)
- 漫画
- ボードゲーム
- 謙信VS信玄 川中島の戦い、アークライト
- 武田盛衰記、ツクダホビー
- 武田騎馬軍団、エポック社
- 竜虎激突 信玄謙信 ゲームジャーナル第8号 、シミュレーションジャーナル
- 『信玄最後の戦い』コマンド・マガジン第36号、国際通信社
- 信州制圧 ~武田信玄の信州制圧~ コマンド・マガジン第56号、国際通信社
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