正徳帝
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| 姓名 | 朱厚照 |
| 年号 | 正徳 |
| 廟号 | 武宗 |
| 字 | - |
| 諡号 | 承天達道英粛睿哲昭徳顕功弘文思孝毅皇帝 |
| 生没年 | 1491年-1521年 |
| 在位 | 1505年-1521年 |
目次 |
[編集] 生涯
弘治帝の長子として生まれる。正徳帝は即位直後からラマ教に凝り、豹房と言う建物を立て、この中で歌舞音曲を楽しんだり、ラマ教のお経を読んで女色にふけったりとまったく政治を見なかった。
その間、政治を見ていたのは正徳帝の幼い頃からの遊び仲間で宦官である劉瑾である。劉瑾は決まりきったような賄賂政治を行い、莫大な資産を溜め込み、危機感を持って劉瑾を排除しようとする閣僚は全て投獄された。劉瑾が権勢を握っていた5年の間に溜め込んだ財産は実に国家の歳入の数倍に当たると言う巨額なものであった。
権勢を欲しい侭にする権臣も皇帝が変わると没落し、処刑されるのが明の常だったが、これを恐れた劉瑾は権勢を何時までも自分のものにしようと簒奪を試みる。宦官で皇帝になろうとしたのは史上劉瑾ただ一人である。この計画は仲間の宦官の密告により失敗に終わり劉瑾は処刑されたが、この事を聞かされた正徳帝は酔っ払いながら「皇帝の座が欲しいならくれてやる」と言った。
その後も正徳帝の遊び好きは変わらず、今度は新しい遊びを軍事に見つけ、軍人を仲間に紫禁城の中で軍事訓練ごっこをしていたが、それに飽き足らず南北へ大軍を引き連れて遊びまわった。これは親征といった物ではなく、途中の町から美女をさらってきて陣中で淫楽にふけっていた。
大軍を動かせば費用が大量にかかり、それは重税となって帰ってくる。そうすれば当然この時期に安化王の乱・劉六劉七の乱・寧王の乱と呼ばれる乱が多発した。この内の寧王の乱の時に正徳帝はこれを南に遊びに行く口実にしてしまおうと考えて、現地の王陽明から既に反乱鎮圧の報が届いているにも関らず、これを握りつぶし、南京へ向かった。
1520年、正徳帝は舟遊びをしていたが、この時船が転覆した。正徳帝は救助されたがこれが原因で病気になり、翌年死去した。
正徳帝は弘治帝が立て直した明を再び傾け、滅亡への道に明の足を踏み入れさせてしまった。正徳帝は死ぬ間際の最後に自らの過ちを反省したが、まったく遅かったと言える。
[編集] 宗室
[編集] 后妃
- 孝静毅皇后夏
[編集] 子
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