歌舞伎

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歌舞伎役者 から転送)
江戸時代の歌舞伎小屋、『日本の礼儀と習慣のスケッチ』より、1867年出版

歌舞伎かぶき)は、日本独特の演劇で、伝統芸能の一つである。重要無形文化財世界無形遺産

目次

[編集] 語源

語源カブく(「傾く」が原義)の連用形からとされる。異様な振る舞いや装いをカブキといい、それをする人物をカブキ者と言った。歌舞伎の醍醐味はケレン味のある演出だといわれるのは、こういった背景にも由来する。

つまり歌舞伎というのは当て字であるが、い、い、(技芸、芸人)を意味する、この芸能を表現するのに適切な文字である。ただし当初はその発生史からではなくの字が使われ、江戸時代には混用していたようであるが、明治時代以降、現在のように統一した表記になった。

広辞苑の歌舞伎の解説に、日本後記 八「停伊勢斎宮新嘗会但以歌舞伎供九月望」も出ている。「伊勢斎宮新嘗会が止まったのでただ歌舞伎をもって九月の望に供える」。ここの「望」を漢和辞典で見ると、「十五夜」「山川の神を祭ること」などの意味がある。‘日本後記の歌舞伎’は‘傾きを語源に持つ歌舞伎’と少し異なるが関連もあると思う。出雲阿国の歌舞伎踊りが本来神前でのものだとすると前者に近い。「傾き」には「もじった表現」の意味がありそうだ。「当局から禁止命令が出にくい表現を使っているが観客の民衆には言いたい意味が伝わる」ような芝居をする。ムシロ旗や一揆もやむなしの場合もあるが、ウイットやユーモアをまじえた耳に快い七五調の台詞・・その芸術的言論でちくりと抵抗する意義は大きかったと思う。「傾き」という字を使うとその意図が見えてしまう。それを覆い隠すために古い「歌舞伎」の字を使った・・などという説も生じる語源「傾き」。

[編集] 歴史

1603年に北野天満宮興行を行い、京都で評判となった出雲阿国(いずものおくに)が歌舞伎の発祥とされる。阿国は出雲大社巫女であったとも河原者でもあったというが、定かなことは明らかでない。阿国はその時代の流行歌に合わせて、踊りを披露し、また、男装して当時のカブキ者のふるまいを取り入れて、当時最先端の演芸を生み出した。このころは舞台などでおこなわれており、歌舞伎座花道は(下手側が本花道、上手側が仮花道であることなども含め)ここから来ていると考えられる。

阿国が評判になると多くの模倣者が現れ、遊女が演じる遊女歌舞伎(女歌舞伎)や、前髪を剃り落としていない少年俳優たちが演じる若衆歌舞伎がおこなわれていたが、風紀を乱すとの理由から前者は1629年に禁止され、後者も売色の目的を兼ねる歌舞伎集団が横行したことなどから1652年に禁止され、現代に連なる野郎歌舞伎となった。そのため、歌舞伎においては男性役も女性役も、すべて男優が演じる。それは江戸時代の文化の爛熟のなかで洗練されて完成し、独特の美の世界を形成するに至っている。

歌舞伎は成立の過程から歌舞伎踊り歌舞伎劇に分けられるともいう。前者は若衆歌舞伎までを言い、流行の歌に合わせた踊り(若衆歌舞伎はアクロバットなども見せていたとされる)を指す。また、その後に創作された踊り主体の演目も含める場合もある(歌舞伎舞踊の項目も参照)。一方、後者は江戸時代の町民に向けて製作されるうちに、現代に見られるような、舞踊的要素を備えた演劇となった。若衆歌舞伎が禁止される際に、幕府より「物真似狂言づくし」を義務付けられたことも演劇的発展の一因になった。つまり、幕府は舞踊主体の公演は売色などをともない、風紀上望ましくないと考えていた。演劇の内容は史実や物語、事件などを題材にして演じる芝居であり、歌舞伎狂言とも呼ばれる。これは現代における映画テレビドラマに相当するだけでなく、さらにはワイドショー的な好奇心を満たす視覚聴覚を動員したエンターテイメントとして形成されていった。それはいわゆる歌舞伎座、専用形式の劇場への移行と無関係ではない。引き幕によって時間を区切るという演出は物語に時の流れを自然に導入し、複雑な劇の展開を可能にした。また、客席を貫いて歌舞伎役者が登場・退場する花道によって他の演劇には見られないような2次元性(奥行き)を、またセリと宙乗りにより3次元性(高さ)を獲得し、高度な演劇へと進化した。

江戸時代の中期までは、上方で創作された歌舞伎狂言の比重は大きい。それは、上方が中心であった人形浄瑠璃から移植された演目の数からもわかる。その後、文化・文政期に鶴屋南北が江戸において多くの作品を創作している。また、江戸時代末期から明治時代初期にかけて、河竹黙阿弥が多数の作品を創作している。江戸時代後半から、上方と比較して、江戸の文化的発信地としての地位が向上したことがうかがえる。

このような歌舞伎狂言は、江戸時代には単に芝居と呼ばれた。

[編集] 歌舞伎狂言の演劇的要素

現在伝承されている江戸時代に創作された歌舞伎狂言の演目は、大きく分けて人形浄瑠璃(文楽)の演目を移植したものと、歌舞伎狂言として創作されたものがある。人形浄瑠璃の演目を移植したものは丸本物と呼ばれる(義太夫狂言と呼ぶ場合も多いが、これは義太夫を用いる歌舞伎の称であり、意味するところは多少異なる)。この場合、舞台上手にぶん回し(回り舞台)を設置して義太夫の太夫と三味線による演奏<ref name=T>歌舞伎専門の義太夫節を竹本という。</ref>が行われる。ただし、人形浄瑠璃ではすべての状況説明とせりふを太夫が語るのに対して、歌舞伎では状況説明を太夫が語り、役者がせりふを語るというような工夫がなされている。本来的に歌舞伎狂言として創作されたものは、基本的に下座での音楽が演劇を演出する。

演劇的な内容としては、歴史的事実を演劇化した時代物、その当時の世界を描写した(現在なら民放のテレビドラマに相当する)世話物などに分けられる。また、世界と呼ばれる約束事があり、演目の背景となっている物語の基本的な大枠が決まっていた。例えば「太平記の世界」、「平家物語の世界」、「義経記の世界」、「曾我物の世界」、「隅田川物の世界」などがあり、登場人物やその関係などは初めて見物する観客にとってもよく知っているなかで、観客は戯作者がどのようにストーリーを展開させるかを楽しむようになった。

江戸時代には歌舞伎狂言の公演は公許制度の下にあり、多くの時代において日の出から日没までにすべてを公演するという幕府によって定められた規則の下で公演された(理由は、日没後に大衆が集まることで不穏な政治行動に発展することを幕府が恐れたためとされる)。したがって、当時創作された演目は、休憩時間や舞台転換などの幕間を考慮しても、比較的長大なものが多い。観客にとっても歌舞伎狂言を観劇することは一日がかりの行楽であった。そのなかで時代物を好む観客や世話物を好む観客など、さまざまな観客を楽しませることが、歌舞伎狂言の公演に求められた。そのためにひとつの演目で、時代物と世話物が幕間をはさんで混在するような、複雑なストーリー展開をみせるものも少なくない。なお、今日では演目のすべてを上演することは多くない。人気のある場面を抜粋して上演することをみどり狂言と呼ぶ(「よりどりみどり」から来たとされる)。全編を通して上演することを通し狂言と呼ぶ。

[編集] 歌舞伎音楽

歌舞伎音楽は、上手で行われる義太夫節<ref name=T>歌舞伎専門の義太夫節を竹本という。</ref>、下手で行われる下座音楽、舞台上で行われる出囃子に分けられる。

[編集] 外題

歌舞伎の演目のタイトルを外題と呼ぶ(「芸題」からきたとする説が有力)。奇数が好まれ、たとえば「娘道成寺」には奇数とするため、「京鹿子」を付して「京鹿子娘道成寺」とする。ただし外題のほかに通称名があることが多く、外題は正式名のように扱われる。「都鳥廓白波(みやこどりながれのしらなみ)」が「忍ぶの惣太」と呼ばれたり、「八幡祭小望月賑(はちまんまつりよみやのにぎわい)」を「縮屋新助」と呼ぶなど。外題は奇数文字にするために、当て字などを用いるので、読み方が難解になっているものも多い。

  • 1文字
  • 3文字
勧進帳 - 連獅子
  • 5文字
義経千本桜 - 曽根崎心中
  • 7文字
助六由縁江戸桜 - 京鹿子娘道成寺 - 仮名手本忠臣蔵 - 菅原伝授手習鑑 - 妹背山婦女庭訓 - 卅三間堂棟由来 - 東海道四谷怪談

[編集] 歌舞伎から派生した言葉

  • 十八番(おはこ)
  • 差金(さしがね)
蝶や鳥などを舞台上で表現する場合に、小道具で創り、後見(舞台上で補佐する役。黒衣のときもある)が長い棒にさして動かす。この小道具一式を差金と呼ぶ。ただし人形浄瑠璃でも人形を動かす部分に差金と呼ばれる部分がある。
  • 黒子(くろこ)
  • 黒幕(くろまく)
歌舞伎で用いられる黒幕は、通常夜を表すための幕である。そのものに「悪」の意味はないが、「政界の黒幕」のように、「黒」から「悪」への連想から、いわゆる陰に隠れた人、のような用いられ方になったと考えられる。
  • 二枚目・三枚目(にまいめ・さんまいめ)
一座を構成する配役の番付の上で、座頭にあたる思慮分別をわきまえた貫禄のある役を演じる役者を「一枚目」、女性にもてる美男子の役どころを「二枚目」、面白おかしい役を演じる役者を「三枚目」とていことが起源。現代でも日常的に用いられる言葉として残っている。
  • 幕切れ・大詰め・大団円(まくぎれ・おおづめ・だいだんえん)
それぞれの場(幕)の終わりに引き幕が閉まることを幕切れ、通し狂言で再終幕にさしかかる頃の盛り上がりを大詰め、すべてが丸く収まりめでたしめでたしとなることを大団円といった。今日でも「さしもの事件もあっけない幕切れとなった」、「ペナントレースも大詰めを迎えた今週」など、日常的に用いられる。大団円も一世代前頃まではよく使われた言葉だが、近年では死語になりつつある。

[編集] 明治時代以降の歌舞伎

明治時代以降も相変わらず歌舞伎の人気は高かったが、知識人などからは文明国にふさわしい内容でないと批判も受けるようになった。歌舞伎界内外から革新を訴える動きも起こり、興行形態も時代とともに変わっていった。批判の内容は、筋書きが荒唐無稽で、前近代的であるとか、宙乗りや早替わりなどの、見た目には奇抜な演出(ケレンと呼ばれる)が、演劇として本来あるべき演出ではない、などであった。

このような批判を受けて、明治時代から、演劇改良運動と呼ばれる歌舞伎様式の改良運動が進められた。これは明治政府の文明国の上流、中流階級が観劇するにふさわしい演劇の成立を目指す目論見ともかさなり、政治家を巻き込んだ運動となった。この運動のひとつの成果として、現在につながる歌舞伎座の開場がある。また、新派と呼ばれる、日本の新しい演劇形式が成立したことも成果といえる。

このような運動の中で創作された歌舞伎演目は、最初、河竹黙阿弥らの旧来の作者や福地桜痴ら文化人によって、歴史的事実をありのままに演じる活歴物や、西洋風の新しい風俗を描いた散切物などが作られたが成功しなかった。その後、演劇改良運動の影響下において、新歌舞伎と呼ばれる多くの作品が昭和戦前期にかけて生まれた。代表作には坪内逍遥の『桐一葉』『沓手鳥孤城落月』、小山内薫の『息子』、岡本綺堂の『修善寺物語』『鳥辺山心中』、岡鬼太郎の『今様薩摩歌』、真山青果の『元禄忠臣蔵』、池田大伍の『西郷と豚姫』などがあるが、全体としては歌舞伎愛好家の支持を得られず、今日では上演される作品はあまり多くない。

また、明治の名優九代目市川団十郎と五代目尾上菊五郎が古典の型を整備。大正期には二代目市川左團次が埋もれていた古典の復活を行い、上方では初代中村鴈治郎が和事の芸を大成するなど従来の作品の見なおしも行われた。昭和期には六代目尾上菊五郎初代中村吉右衛門十五代目市村羽左衛門二代目實川延若三代目中村梅玉など多くの名優が活躍し今日の歌舞伎に大きな影響を与えた。だが、太平洋戦争の激化にともない劇場の閉鎖や上演演目の制限など規制が行われ歌舞伎の興行も困難になり、空襲で劇場が焼失するなど物的人的被害も多かった。

終戦後、今度は封建的で民主主義に合わないとの理由でGHQによる規制が始まる。だが、マッカーサーの副官で親日家フォビアン・パワーズの尽力により歌舞伎は保護され、昭和22年(1947年)11月、東京劇場で東西俳優総出演による『仮名手本忠臣蔵』の通し興行が行われ、危機を脱した。

1950年代、人々の生活に余裕が生まれ娯楽も多様化しはじめた。プロ野球やレジャー産業の人気上昇、映画やテレビ放送の発達が見られるようになり、歌舞伎が従来のように娯楽の中心ではなくなってきた。そして歌舞伎俳優の映画界入り、関西歌舞伎の不振、小芝居が姿を消すなど歌舞伎の社会にも変動の時期が始まった。

そのような社会の変動の中、昭和38(1962)年の十一代目市川團十郎襲名から、歌舞伎は人気を回復する。俳優も團十郎のほか、六代目中村歌右衛門二代目尾上松緑二代目中村鴈治郎十七代目中村勘三郎七代目尾上梅幸八代目松本幸四郎十三代目片岡仁左衛門、十七代目市村羽左衛門などの人材が活躍。国内の興行もさかんとなり欧米諸国での海外公演も行われる。

戦後の全盛期をむかえた1960~1970年代には次々と新しい動きがおこる。特に明治期以降、軽視されがちであった歌舞伎本来の様式が重要であることという認識が広がった。昭和40年(1965年)に歌舞伎が重要無形文化財に総合指定され(対象は伝統歌舞伎保存会)、国立劇場が開場し、復活狂言の通し上演などの興行が成功する。その後大阪には松竹座、福岡には博多座も開場し歌舞伎の興行はさらに充実さを増す。さらに、三代目市川猿之助は復活狂言を精力的に上演し、その中では一時的には蔑まれたケレンの要素を存分に復活させた(猿之助は、さらなる演劇形式としての歌舞伎を模索しスーパー歌舞伎と呼ばれる、より大胆な演出を強調した歌舞伎にも挑戦した)。近年では、十八代目中村勘三郎によるコクーン歌舞伎、平成中村座の公演、四代目坂田藤十郎などによる関西歌舞伎の復興のプロジェクトなどが、歌舞伎本来の姿と新しい時代にふさわしい歌舞伎の姿を同時に模索する活動といえるだろう。歌舞伎の演出にも野田秀樹蜷川幸雄串田和美三谷幸喜、わかぎえふら現代劇の演出家が迎えられるなど、現代劇のテイストを加えられた歌舞伎公演も行われている。

歌舞伎の劇場の概念図、詳しくは劇場#歌舞伎を参照

現代の歌舞伎公演は、劇場設備などをとっても、江戸時代のそれと全く同じではない。その中で長い伝統を持つ歌舞伎の演劇様式を核に据えながら、現代的な演劇として上演していく試みが続いている。このような公演活動を通じて、歌舞伎は現代に生きる伝統芸能としての評価を得るに至っている。

[編集] 伝統歌舞伎保存会

社団法人伝統歌舞伎保存会は歌舞伎関係者のうち技能に優れたものを会員として構成されている団体。重要無形文化財の総合指定を受けている。2006年1月12日現在の現役会員数は169名。

[編集] 地芝居

専門の演者による公演の他、地域住民が祭礼の奉納行事などとして江戸時代以来の伝統に則った芝居が日本各地で上演されている。これらを地芝居と呼び、歌舞伎と人形浄瑠璃のどちらかかが演じられる事が多い。歌舞伎では農村で行われる芝居(農村歌舞伎)や都市における曳山の上で芝居(曳山祭り)等がある。地芝居における演目の多くは専業の演者による公演と重なり、その影響が強く見られる。しかし中にはその地域独自の演目を備えるなど、個性的な発展をみせている公演も存在する。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

[編集] 上演情報

[編集] 歌舞伎上演元による解説

[編集] 関連団体

[編集] マスコミ・メディア

[編集] 研究機関

[編集] 個人サイト

[編集] 関連書

[編集] 脚注

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