森喜朗

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衆議院議員 森 喜朗
(もり よしろう)
生年月日 1937年7月14日
出生地 石川県能美郡根上町(現:能美市)
出身校 早稲田大学(二部、夜間部)
学位・資格 商学士
前職・院外役職(現在) 新聞社社員
衆議院議員秘書
所属委員会
・内閣役職(現在)
衆・懲罰委員会委員
世襲の有無
※祖父、父親が町長
選出選挙区
(立候補選挙区)
石川県第2区
当選回数 13回
所属党派(現在) 自由民主党(町村派)
党役職(現在)
会館部屋番号 衆・第2議員会館309号室
ウェブサイト Yoshiro Mori WebSite

森 喜朗もり よしろう1937年7月14日 ‐ )は、日本政治家衆議院議員。元内閣総理大臣第85代第86代)。勝共推進議員日朝友好議員連盟所属。日韓議員連盟会長。

早稲田大学出身の商学士。栄典はキューバ文化功労章、中華民国特種大綬景星勲章受章。

目次

[編集] 概要

石川県能美郡根上町(現在の能美市)に、根上町長を務めた森茂喜の長男として生まれる。石川県立金沢二水高等学校時代はラグビー部のキャプテンとして活躍。北陸三県大会で準優勝(当時はこの大会で優勝すると全国大会に進出できた)などの実績を残した。その縁もあり、父の知人であった当時のラグビー部監督への縁故をフル活用し、スポーツ推薦を受けて早稲田大学入学。ラグビー部に入部するもわずか4ヶ月にして胃カタルにより退部した。

金沢二水高校時代の森喜朗(前列左から二人目)。

その後早稲田大学雄弁会に入り、政治家を志すようになる。大学卒業後は水野成夫の口利きで産業経済新聞社に事実上無試験で入社。入社試験はとうに終わっていたにもかかわらず、“自分には約束があるんだから”と強引に内定を取り付けたという(入社後は、初めは日本工業新聞に勤務し、のち移籍)。

その後、今松治郎秘書を務めた後、1969年衆議院選挙に初出馬で初当選。選挙運動中に、近隣の家の火災に遭遇し、決死の覚悟で家にとびこみ、仏壇を抱えて出て来たという。この行動(暴挙ともいわれる)のため、地元での人気が上がり、当初泡沫候補扱いだった新人が当選にいたったという。ちなみに、この選挙では同じ選挙区(旧石川1区)で竹下派七奉行の一人・奥田敬和も初当選しており、のちに二人のライバル関係は「森奥戦争」と呼ばれるようになる。

当選後は今松の属していた福田派に入会。福田内閣では内閣官房副長官に就任し福田を補佐、1983年第2次中曽根内閣では文部大臣として初入閣し、以後自民党文教族の実力者として実力を付ける。しかし1988年リクルート事件で2度目の入閣間近という時に一時謹慎を余儀なくされる。

福田派を継いだ安倍派では三塚博塩川正十郎加藤六月と並んで安倍派四天王の一人に称され、次代のリーダーへの地歩を固める。安倍死去後の三六戦争(三塚と加藤の後継者争い)ではいち早く三塚を支持。それからは党政調会長、通商産業大臣、党幹事長建設大臣、党総務会長と重要役職を次々と歴任。1998年には三塚に派閥の継承を求め、森派を結成した。

[編集] 首相時代

2000年沖縄県名護市の万国津梁館にて第26回主要国首脳会議に臨む森喜朗

[編集] 首相就任のいきさつ

2000年平成12年)4月5日、3日前に脳梗塞で倒れ緊急入院した小渕恵三首相の後を継ぐ形で内閣総理大臣に就任した。このときの連立与党は自民党公明党保守党であり、メディア等では「自公保」と略称した。

森の首相就任は、当時の自民党の有力議員五人組(森喜朗本人、青木幹雄村上正邦野中広務亀井静香)が密室で談合して決めたのではないかと疑惑を持たれている。「森さんでいいじゃないか」の発言があったと報道された。五人組の1人である村上正邦は後に週刊新潮に発表した手記できちんと党内の手続きを踏んで自民党両院議員総会にかけて総裁を選出したので密室で決めていないと反論している。

[編集] 資質問題

  • 2000年5月15日、「日本は天皇を中心とした神の国」と発言(いわゆる「神の国発言」)し、大きく波紋を呼ぶ。6月の「無党派層は寝ていてくれればいい」発言や、10月にイギリスブレア首相との会談における「北朝鮮による日本人拉致被害者を第三国で行方不明者として発見する案の暴露」など数々の発言で、首相としての資質に欠けるとの批判が各層で盛り上がった。一方マスコミが常に否定的に取り上げたとする見方もある。例えばNHKなどは首相就任中の衆議院選挙前日に「週間手話ニュース」でアナウンサーを使い、「日本は神の国ではありません民の国です、皆さん投票に行きましょう」と報道した。ニュース番組内でこのような選挙の為のアジテーションを行う事は、放送法だけでなく公職選挙法上問題だとする声も有る。
  • 就任早々、あいさつまわりに訪れた橋本龍太郎元首相の事務所で、「首相動静」について「ああいうのはウソを言ってもいいんだろ」と発言。マスコミの抗議に意固地となる森を、国民との対話を軽視する資質であると、早くもマスコミは警戒感を抱いていた。
  • 歴代内閣総理大臣の中で、森ほどマスコミが発言に対する批判を集中した例はなく、ついには総理の資質に欠けるとまでされた。内閣総理大臣官邸での公式記者会見時、森に対し総理番記者から「今問われているのは総理の資質だと思うのですが?」という異例の質問がされたこともあった。

[編集] 官房長官の交代

2000年10月27日、内閣官房長官中川秀直が愛人問題や右翼幹部との交際、警察情報漏洩などのスキャンダルで辞任。後任には当時森派の派閥会長だった小泉純一郎から推された福田康夫が就任した。閣僚経験皆無での起用には疑問の声もあったが、森が頻繁にマスコミの批判を浴び、その度に福田が火消しに回る、という構図ができあがるにつれ、その執務能力の高さが明らかになった。福田は、後の小泉純一郎内閣も含めると内閣官房長官在任日数歴代最長となった。

[編集] 加藤の乱

2000年11月21日、衆議院本会議において森内閣不信任決議案が野党から提出された。当時宏池会会長で自民党の次期総裁候補の一人と目されていた加藤紘一は、森不信任は国民の多数が支持すると考え、YKKの盟友、山崎拓(山崎派)とともに、それぞれ自派を率い党の方針に反して本会議を欠席した(いわゆる加藤の乱)。しかし宏池会で加藤に従った者は一部にとどまり、政権交代には至らなかった。加藤はその後秘書給与の問題発覚で議員辞職したが、2003年11月の衆議院総選挙で復活した。

[編集] えひめ丸事件

2001年2月10日ハワイ沖で日本の高校生の練習船「えひめ丸」が、アメリカ海軍の原子力潜水艦と衝突して沈没、日本人9名が死亡するという「えひめ丸事件」(えひめ丸沈没事故)が発生した。事件の一報が入ったとき森はゴルフ場におり、連絡はSPの携帯電話を通じて入った。それにより日本人が多数海に投げ込まれたことや、相手がアメリカ軍であることも分かっていたが、森は第三報まで1時間半プレーを続け、これが危機管理意識上問題とされた。当時国会でも採り上げられ、森がプレーを続けたと認めた議事録が残っている(第151回国会 予算委員会 第8号(平成13年2月19日)など)。

  • 午前10時50分に第一報を受けたあと午後0時20分の第三報まで、3ホールを回ったとのことである。連絡は携帯電話を通して伝えられた。マスコミにこのことを問いただされた森が「プライベートだ」と答えたことで批判は拡大した。
  • 当日プレーしていたゴルフ場(戸塚カントリー倶楽部)の会員権は知人から無償で借り受けて自分名義としており、このことも批判を増幅させた。
  • 森の主張によると、えひめ丸事件の一報が入った時、その場を離れないように言われたのでゴルフ場でプレーを続けながら待機していたとのことである。この事件の報道で違う日に撮影された森の楽しげなゴルフプレイ姿が繰り返し放送されたため悪印象が増幅した。
  • 一方、事故を起こしたアメリカ側は日米関係を最重視するブッシュ大統領が「事故の責任は全てアメリカにある」と謝罪し、異例の素早い対応を見せたためアメリカ側と事後処理との違いが鮮明となった。

[編集] 支持率

上記のいきさつにより任期を通して支持率は低かった。任期の終わりごろには、遂に支持率が5.7%となり、マスコミなどではこうした低い支持率などを揶揄して森政権の事を「蜃気楼内閣」(森喜朗の音読み、シンキロウにかけた洒落)と呼ぶ事もあった。政権末期には一部新聞が一面トップで「退陣の公算」と報じたことが退陣の流れを導いたとも言われる(新聞辞令)。2001年4月26日、就任からちょうど1年で次の小泉純一郎に自民党総裁と内閣総理大臣の地位を譲った。

[編集] 首相在任中の活動

  • アフリカ諸国や南アジア諸国に対し積極的な外交交渉を行い、国際連合内での発言力向上に貢献した。
  • IT革命を謳いインターネット博覧会(インパク)の開催などの振興策を推進した。
  • 2001年4月、李登輝の訪日ビザ発給要請に対し、中国の反発を恐れる河野洋平外相が「発給を認めるなら辞任する」と抵抗し、福田康夫官房長官も強く反対した。しかし“李は当時既に私人であり心臓病の治療という目的があったのでビザ発給を断る理由はない”と判断され訪日実現となった。日台関係の方を重視した政治判断と見られている。
  • クリントン政権時の2000年10月、オルブライト国務長官(当時)訪朝前に、米政府が北朝鮮のテロ支援国指定解除を真剣に検討、解除に極めて近い状況だった際に、拉致問題等を理由に指定解除の阻止を図っていたことが分かっている。

[編集] 問題とされた発言集

マスコミにより多くの発言が問題(失言)として報道され、首相時代には失言(「こりゃ失言失言」)が流行語となるほどであった。

  • 1988年4月3日自由民主党全国組織委員長時代、京都市でのパーティーで「大阪人は金儲けばかりに走り、公共心も選挙への関心もなくした。言葉は悪いが、たんつぼだ」と発言。
  • 1995年5月10日、自民党幹事長時代、「村山首相は『過渡的内閣には限界がある』と洩らしている」と発言し、内閣総理大臣公邸での内閣総理大臣村山富市との会話を漏洩した。この発言に飛びついた読売新聞社が「首相、退陣意向洩らす」と報道し、他社もこれに続く大騒ぎとなる。これにより、自社さ連立政権全体から森は猛反発を受ける。それにともない、閣内では村山の慰留に努める雰囲気が醸成され、村山内閣はその後も継続した。
  • 2000年1月13日、福井県敦賀市で行われた講演において「選挙運動で行くと農家の皆さんが家の中に入っちゃうんです。なんかエイズが来たように思われて…」と発言。2001年国連エイズ総会への派遣を批判される原因となる。
  • 2000年5月2日、イタリアを訪れた際に当時ローマで活躍していたサッカー中田英寿らを招いて会食。「日本代表は、アウェーで韓国に勝ったことがないんだよ」と発言したが、すぐに中田から「え? ありますよ!」と強く訂正される。中田は森と2人での写真撮影を拒否したという。
  • 2000年5月14日、NHK「日曜討論」において、当時存命中であった坂田道太元衆議院議長について「亡くなられた坂田さん」と発言し、物故者扱いにして物議をかもした。
  • 2000年5月15日、神道政治連盟国会議員懇談会結成三十周年記念祝賀会でスピーチし、「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知をしていただく」と発言(神の国発言)。NHKなどが大々的に報道して大きな波紋を呼んだ。
  • 2000年6月20日、衆議院選挙の選挙演説で「無党派層は寝ていてくれればいい」と発言。「まだ(投票態度を)決めていない人が40%ぐらいいる。最後の2日間にどういう投票行動をするか。そのまま、その人たちが関心がないと言って寝ていてくれればいいが、そうもいかないでしょうね。」ということを意図した発言とのことである。
  • 2000年7月、「九州・沖縄サミット」の開催は内閣総理大臣小渕恵三の悲願だったが、小渕政権を継承した森がホスト国の首相として主催した。ところが、出席前、および、その席上、「九州・沖縄サミット」のことを「沖縄万博」と連呼していた。
  • 2000年10月20日、イギリスブレア首相との会談で、当時北朝鮮が否定し続けていた日本人拉致問題について、拉致された日本人を行方不明者として第三国で発見するという解決策を北朝鮮との協議で提案していたことを漏らした。
1997年に日本政府が北朝鮮を訪問した際の訪朝団団長だった森は、北朝鮮との交渉の場でこの解決策を提案した。この解決策を考えたのは外務省で、協議の場で発言したのは中山正暉副団長だった。メンツを重んじる北朝鮮に配慮したものだった。しかし北朝鮮からは行方不明者はいないという回答だった。
このときの協議の様子を、森はブレア首相に話した。ブレアに漏らしたことが明らかになり、「一国の総理が外交上の機密を漏らすのは余りに口が軽い」などと批判が起こった。たしかに、外部にこの考えを明らかにしてしまった後では、第三国で「偶然に」発見という解決は不可能になってしまう。北朝鮮の逃げ道を塞いでしまう失言に、どんな形でもいいから家族を返してほしいと願う拉致被害者家族は強い不安を抱いた。
森や中川官房長官ははじめ、この提案は中山正暉副団長の私案だと言ったが、中山から抗議を受けて後に撤回した。北朝鮮の協議の場で誰が発言したかは問題ではないのだが、中山の名を挙げて批判をかわそうとした姿勢は、さらに批判を招いた。
  • 2000年10月26日、ラグビーオーストラリア代表チーム、ワラビーズの歓迎レセプションで、「日本代表は未来永劫ワールドカップを抱くことはできない」と発言。2日後同チームの試合を秩父宮ラグビー場で観戦したが、観客からは一斉にブーイングが起こった。
  • IT革命(アイティーかくめい)のことをイット革命と述べたり、開発途上国会議で「電気がなくともiモードは使える」といった迷言を残す(トランシーバーではない携帯電話電話交換機が必須である)。
  • 2003年、「子どもを一人も産まなかった女性が自由を謳歌して、老後は税金で面倒を見ろというのは本当はおかしい」という問題発言を残した。彼の持論によれば、子供を産み育てた女性に対して感謝をこめて国が面倒を見るのが、本来の福祉のあり方だという。
  • 2005年武部勤が森に対し「森派に入会させてほしい」と依頼していたことを、森本人がテレビにて明らかにした。しかし、武部は「依頼した事実はない」と反論している。

[編集] 首相退陣後の動向

  • 大学時代に買春により検挙歴があると報道されたことに対して、森は「事実無根」であるとし、『噂の真相』を民事提訴した。しかし、『噂の真相』側が、警視庁に犯罪歴を照会し逮捕歴の有無の確認するよう提案したところ、森側が「犯罪歴は個人情報なので照会すべきでない」と主張した。そのため、逮捕歴の事実の有無が確認されなかった(訴訟そのものでは勝訴している)。
  • 小泉純一郎の出身派閥である森派会長という立場から、小泉前首相の後見人を自称していた。その姿勢には小泉前首相の存在を借りて自らの存在感を増そうとしているという批判もあがっている。とはいえ、小泉政権を党内で支える要であったことも事実である。
  • かりそめにも首相を経験したのだから派閥会長の座を後進に譲るべきだ、との意見には耳を貸さないとの批判がある。一方で2005年の郵政民営化法案を巡る政局では、解散回避を賭けて会長辞任を口にしたが、実際に解散が決まると辞任発言を撤回した。なお、意中の後継会長候補には福田が有力とされたが、2006年10月18日、会長職を町村信孝へ譲った(“町村派”と変わる)。退任会見で「小泉政権が終わり、私が派閥会長である役割も終わった」と語った。10月26日の町村派の総会で、同派名誉会長に就任した。
  • 2003年「子どもをたくさんつくった女性に国がご苦労様でしたと言って面倒を見るのが本来の福祉です。ところが、子どもを一人もつくらない女性が、税金で面倒見なさいというのは、本当におかしいですよ」と発言。女性団体などから抗議を受ける。
  • 2004年10月から、自民党新憲法起草委員会の委員長を務めている。
  • 2005年10月14日、森は自民党のパーティにおいて発言し、麻生太郎谷垣禎一福田康夫安倍晋三のポスト小泉候補4名全員が、11月に行われる内閣改造後の小泉政権で閣僚または党の要職に就任することになるだろうとの見通しを示した。これまで森の示した政策・政局に対する見通しはことごとくはずれてきたこともあって、この4名全員が閣僚または党要職に就くことはないだろうと、永田町で噂された。10月31日、第3次小泉内閣及び党三役が発表されたが、福田康夫の就任は無かった。
  • 2006年1月19日、森は自ら会長を務める森派の総会で発言し、ポスト小泉総裁候補について安倍晋三支持を公言している同派の参議院議員山本一太を批判し、特定の人物を支持する発言を慎むよう注意した。今後も安倍支持の発言をやめなければ森派から退会させると言い切ったが、山本は安倍支持の言動を今後も何ら改めるつもりは無いと発言。結局何も変わらず何も起こらないままに安倍総裁(総理)が誕生した。
  • 2006年10月31日の『産經新聞』で、「知事は必ず自治労日教組と妥協するんです。それで次の選挙で応援させる。(中略)だから日教組、自治労を壊滅できるかどうかということが次の参院選の争点だろうね」と発言した。(森元首相に聞く 参院選争点は「日教組壊滅できるか」)この発言は、組合自体の否定なので、不当労働行為に該当する可能性がある。

[編集] 郵政解散

2005年8月、小泉首相が成立を目指す郵政民営化法案の採決を巡って、自民党は分裂の危機を迎えていた。衆議院では辛うじて可決されたものの、参議院では自民党内の反対派が党の方針に逆らって反対に回れば、法案が否決される恐れがあった。会期中の成立を絶対とする小泉首相は、参議院で否決された場合は衆議院を解散して国民に信を問うと述べた。小泉首相は、解散して選挙になれば造反議員を推薦しないとしていたため、自民党内では強引な手法に対して賛否が真っ二つに分かれ騒然とした状況になっていた。

郵政法案をめぐる自民党の危機的な状況に、小泉の後見人を自認する森も活発に動いた。まず森は、8月2日、「参議院で否決された場合に衆議院を解散するなら派閥会長を辞める」と発言した。小泉首相の後見人を自称してきた自身の政治生命を賭した捨て身の諫言として、分裂阻止への影響を期待された。しかし8月5日、参議院議員の中曽根弘文が反対を表明すると、参議院の形勢は一挙に否決に傾いた。

つづいて8月6日、森は内閣総理大臣公邸へ小泉首相を訪れて会談し、参議院で否決されても衆議院を解散しないよう説得を試みた。しかし全く相手にされず説得は失敗に終わった。この会談のあと、森は報道陣の前に缶ビールとミモレットを手にして会見し、「夕食時だから寿司でも取るのかと思ったら、出されたのが缶ビールとスモークサーモン、干からびたチーズ一切れ(実際には高級品)だけだった」とぼやき、小泉首相のことを「変人以上」(狂人)と切って捨てるなど怒りを隠さなかった。これにより、加藤紘一自民党幹事長ら一部から郵政解散は「干からびたチーズ解散」とも呼ばれた。小泉は後日「今度ミモレットの出るおいしいフレンチレストランにご招待したい」というコメントを出した。

8月8日の採決で、自民党からは21人の造反議員が出て、法案は否決された。この結果を受けて小泉首相は衆議院の解散を決定した。同日夜、衆議院解散が決まった直後、森は派閥会長辞任発言をあっさりと撤回してしまった。

9月11日に衆議院総選挙の投開票が行われた。争点を郵政一本に絞り、郵政法案に反対した議員の選挙区に数々の“刺客”を送り込んで話題を呼ぶなどした小泉自民党が、歴史的な大勝利をおさめた(小泉劇場B層)。

森は選挙後もしばらく清和政策研究会の会長を続けていた。森の政治生命を賭した発言は、いつの間にかうやむやになっていた。後に森は、派閥会長辞任発言は、「法案が否決されれば解散もある」との意味をこめた造反組への最後警告の芝居だった、と説明したという。元自民党議員の政治評論家浜田幸一は、「派閥会長にもっともふさわしくない人間がまたも会長に就いてしまった」と酷評した。

[編集] その他

  • 父親ゆずりと言われる政治的なカンの鋭さは、少年時代から地元において数々のエピソードを残している。当時の学区制度を無視して半ば強引に金沢市の高校へ入学しラグビーを始めたのも、早大へ入学したのも全てその後の人脈づくりのためであったということが伝説化されている。
  • 内閣官房副長官時代、時の総理である福田赳夫と並んで歩いた際SP(セキュリティポリス)と間違えられたことがある。
  • 日本コスタリカ友好議員連盟の重鎮である。衆議院小選挙区比例代表並立制が導入された際、同一中選挙区に同一政党の候補者が複数いる場合、候補者を小選挙区比例代表から交互に立候補させる方式を考案し、コスタリカ方式と命名する(ただし、コスタリカにはこのような選挙制度は存在しない)。
  • 文部大臣になったことがよほどうれしかったらしく、退任後も「文部大臣ならもう一度やってもよい」と周囲に語っていた。
  • 日本体育協会会長、日本プロスポーツ協会会長、日本トップリーグ連携機構会長やニューヨーク・ヤンキース松井秀喜選手の後援会名誉会長を務めている。松井の実家と隣の集落出身で、両者とも浜小学校出身である。また95年参院選ではガンバ大阪前監督釜本邦茂を比例区で、新日本プロレス馳浩を石川選挙区で擁立し当選に導く。96年総選挙ではプロボクシングの元WBC世界ライト級王者ガッツ石松を東京9区で擁立。
  • 首相在任中の第42回衆議院議員総選挙では小選挙区(石川2区)と比例区(北信越ブロック)と重複立候補小選挙区比例代表並立制導入後、現職首相が重複立候補したのは今のところ森だけ。森の比例の順位は現職首相でありながら比例で優遇されることなく、他の重複立候補者と同列だった。
  • 自民党の党三役全てに就任しているのは森と安倍晋太郎だけであり、さらに党総裁も勤めた唯一の人物である。
  • 2006年8月27日、清和会所属の現職文部科学副大臣である馳のプロレス引退試合を観戦したが、VOODOO-MURDERS"brother"YASSHIが「おい、そこの森! お腹の中、何か詰まってるな? お金か? このかす野郎!」と森に罵声を浴びせた上、森の治世を批判し唾を掛けるという暴挙に出た。さらに、場外乱闘に乗じてTARUが森を挑発したため、森もパイプ椅子を持って身構えるという前代未聞の事態が発生した。さらにこのとき、観客から「森コール」が起こったものの、森のSPがTARUに抗議しつつ森を止めたため、史上初となる首相経験者のプロレス参戦は実現しなかった。試合後、記者団に対し、森は「椅子? パフォーマンスだよ」と苦笑いで語ったが、YASSHIに話が及ぶと「客に対して失礼だ」と激怒した。
  • 自身のサイトがリニューアル1ヶ月で100万アクセスを越えた際に地元の北國新聞で取り上げられた。事務所は「写真など定期的に更新をしているから」と述べていたが、実は2ちゃんねらーによる祭りの結果だったことが判明している。

[編集] 家族 親族

  • 祖父 - 森喜平(政治家・根上町長)
  • 父 - 茂喜(政治家・根上町長)
  • 長男 - 祐喜(政治家・石川県会議員)
  • 姪の夫 - 岡田直樹(参議院議員)

[編集] 系譜

  • 森氏 森家は江戸時代、代々村の肝んど(庄屋)を務めた。喜平、茂喜は根上の村長、町長を長く務めた。
喜平━━茂喜━━喜朗━━祐喜


[編集] 栄典

  • キューバ文化功労章(キューバ共和国
    • キューバで開催された国際音楽祭「クバデイスコ2005」に対し、日本からの広範な参加・協力が得られるように尽力した功績により。
  • 特種大綬景星勲章(台湾
    • 日本における台湾人観光客への査証免除実現への協力及び台日関係の促進への貢献により。


[編集] 略歴


[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

<tr><td style="font-size: 80%" valign="top" width="16%"> 伊藤博文</br>黑田清隆</br>山縣有朋</br>松方正義</br>大隈重信</br>桂太郎</br>西園寺公望</br>山本權兵衞</br>寺内正毅</br>原敬 </td><td style="font-size: 80%" valign="top" width="17%"> 高橋是清</br>加藤友三郎</br>清浦奎吾</br>加藤高明</br>若槻禮次郎</br>田中義一</br>濱口雄幸</br>犬養毅</br>齋藤實</br>岡田啓介 </td><td style="font-size: 80%" valign="top" width="17%"> 廣田弘毅</br>林銑十郎</br>近衛文麿</br>平沼騏一郎</br>阿部信行</br>米内光政</br>東條英機</br>小磯國昭</br>鈴木貫太郎</br>東久邇宮稔彦王 </td><td style="font-size: 80%" valign="top" width="17%"> 幣原喜重郎</br>吉田茂</br>片山哲</br>芦田均</br>鳩山一郎</br>石橋湛山</br>岸信介</br>池田勇人</br>佐藤榮作</br>田中角榮 </td><td style="font-size: 80%" valign="top" width="17%"> 三木武夫</br>福田赳夫</br>大平正芳</br>鈴木善幸</br>中曾根康弘</br>竹下登</br>宇野宗佑</br>海部俊樹</br>宮澤喜一</br>細川護熙 </td><td style="font-size: 80%" valign="top" width="16%"> 羽田孜</br>村山富市</br>橋本龍太郎</br>小渕恵三</br>森喜朗</br>小泉純一郎</br>安倍晋三 </td></tr> </table>
           内閣総理大臣           
第代</br>[[]] 第代</br> 第代</br>[[]]
先代:</dt>
小渕恵三</dd>
自由民主党総裁</dt>
第19代: 2000 ‐ 2001</dd>
次代:</dt>
小泉純一郎</dd>
先代:</dt>
瀬戸山三男</dd>
文部大臣</dt>
第126代: 1983 ‐ 1984</dd>
次代:</dt>
松永光</dd>
先代:</dt>
加藤六月</dd>
自由民主党政務調査会長</dt>
第37代: 1991 ‐ 1992</dd>
次代:</dt>
三塚博</dd>
先代:</dt>
渡部恒三</dd>
通商産業大臣</dt>
第 代: 1992 ‐ 1993</dd>
次代:</dt>
熊谷弘</dd>
先代:</dt>
野坂浩賢</dd>
建設大臣</dt>
第 代: 1995 ‐ 1996</dd>
次代:</dt>
中尾栄一</dd>
先代:</dt>
塩川正十郎</dd>
自由民主党総務会長</dt>
第37代: 1996 ‐ 1998</dd>
次代:</dt>
深谷隆司</dd>
先代:</dt>
梶山静六
加藤紘一</dd>
自由民主党幹事長</dt>
1993 ‐ 1995
1998 ‐ 2000</dd>
次代:</dt>
三塚博
野中広務</dd>
           歴代の内閣総理大臣           

伊藤博文</br>黑田清隆</br>山縣有朋</br>松方正義</br>大隈重信</br>桂太郎</br>西園寺公望</br>山本權兵衞</br>寺内正毅</br>原敬

高橋是清</br>加藤友三郎</br>清浦奎吾</br>加藤高明</br>若槻禮次郎</br>田中義一</br>濱口雄幸</br>犬養毅</br>齋藤實</br>岡田啓介

廣田弘毅</br>林銑十郎</br>近衞文麿</br>平沼騏一郎</br>阿部信行</br>米内光政</br>東條英機</br>小磯國昭</br>鈴木貫太郎</br>東久邇宮稔彦王

幣原喜重郎</br>吉田茂</br>片山哲</br>芦田均</br>鳩山一郎</br>石橋湛山</br>岸信介</br>池田勇人</br>佐藤榮作</br>田中角榮

三木武夫</br>福田赳夫</br>大平正芳</br>鈴木善幸</br>中曾根康弘</br>竹下登</br>宇野宗佑</br>海部俊樹</br>宮澤喜一</br>細川護熙

羽田孜</br>村山富市</br>橋本龍太郎</br>小渕恵三</br>森喜朗</br>小泉純一郎</br>安倍晋三

ことばこって?

「ことばこ」は、歴史の人物から最先端テクノロジーまで、なんでも調べられるオンライン百科事典です。ウィキペディア財団が運営を行なっているwikipedia.orgから引用をしています。

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