栄西

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栄西禅師

明菴 栄西みんなんえいさい・ようさい、諡は千光国師、葉上(ようじょう)房とも称した。永治元年4月20日1141年5月27日) - 建保3年6月5日1215年7月2日))は、日本仏教宗派臨済宗の開祖、建仁寺の開山。生年には異説がある。

  • 天台密教葉上流の開祖でもある。
  • 喫茶の習慣を日本に伝えたことでも有名である。

目次

[編集] 経歴

以後、延暦寺、吉備安養寺伯耆大山寺などで天台宗の教学と密教を学ぶ。行法に優れ、自分の坊号を冠した葉上流を興す。
  • 仁安3年(1168年) 形骸化した日本天台宗に嫌気し、南宋に留学。天台山万年寺などを訪れ、『天台章疎』60巻を将来する。
当時、南宋では禅宗が繁栄し、それに大いに感化され、仏法復興のためにの重要性を感じたとされる。
  • 文治3年(1187年) 再び入宋。仏法辿流のためインド渡航を願い出るが許可されず、天台山万年寺の虚庵懐敞に師事。
  • 建久2年(1191年) 虚庵懐敞より臨済宗の嗣法の印可を受ける。同年、帰国。
福慧光寺、千光寺などを建立し、筑前肥後を中心に布教に努める。
  • 建久5年(1194年) 彼や大日房能忍の禅宗が盛んになり、天台宗からの排斥を受け、禅宗停止が宣下される。
  • 建久6年(1195年博多聖福寺を建立し、日本最初の禅道場とする。
同寺は後に後鳥羽天皇より「扶桑最初禅窟」の扁額を賜る。
栄西は自身が真言宗の印信を受けるなど、既存勢力との調和、牽制を図った。
  • 建久9年(1198年) 『興禅護国論』執筆。
禅が既存宗派を否定するものではなく、仏法復興に重要であることを説く。
京都での布教に限界を感じて鎌倉に下向し、幕府の庇護を得ようとした。
建仁寺は禅・天台・真言の三宗兼学の寺であった。
以後、幕府や朝廷の権力に取り入り、それを利用して禅宗の振興に努めた。
 政治権力にひたすら追従する栄西には当時から多くの批判があった。特に栄西が幕府を動かし、大師号猟号運動を行ったことは大きな非難を浴びた。
 栄西の策動は生前授号の前例が無いことを理由に退けられるが、天台座主慈円は『愚管抄』で栄西を「増上慢の権化」と罵っている。
  • 建保3年(1215年) 75歳で病没。終焉の地は鎌倉、京都の2説がある。

[編集] 他者からの栄西観

  • 日本曹洞宗の開祖である道元は、入宋前に建仁寺で修行しており、師の明全を通じて栄西とは孫弟子の関係になるが、栄西を非常に尊敬し、夜の説法を集めた『正法眼蔵随聞記』では、「なくなられた僧正様は…」と、彼に関するエピソードを数回も披露している。なお、栄西と道元は直接会っていたかという問題は、最近の研究では会っていないとされる。

[編集] 主な著作

『喫茶養生記』は上下2巻からなり、上巻では茶の種類や抹茶の製法、身体を壮健にする喫茶の効用が説かれ、下巻では飲水(現在の糖尿病)、中風、不食、瘡、脚気の五病に対するの効用と用法が説かれている。このことから、茶桑経ちゃそうきょう)という別称もある。
 書かれた年代ははっきりせず、一般には建保2年(1214年)に源実朝に献上したという「茶徳を誉むる所の書」を完本の成立とするが、定説はない。
  • 『栄西-興禅護国論・喫茶養生記-』(古田紹欽著、講談社1994年

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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