村井貞勝

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村井 貞勝(むらい さだかつ、享禄元年(1528年) - 天正10年6月2日1582年6月21日))は、織田氏(織田信長)の家臣。吉兵衛。民部少輔。長門守。春長軒。子に貞成、清次。

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[編集] 出自

太閤記に拠れば、出身は近江国。行政手腕に長けていたため、織田信長から厚い信任を受けて、早期より重用される。1556年織田信行(信勝)が兄の信長に叛旗を翻した時には既に信長に仕えており、島田秀満(秀順)と共に(信勝派の)信長生母の依頼を受けて、信勝や柴田勝家らとの和平交渉を行った。信長が義昭と共に上洛した際も同行し、明院良政、佐久間信盛木下秀吉丹羽長秀らの諸将と共に京に残留し、諸政務に当たった。山科言継は貞勝を「織田の雑掌」と呼んでいた。 先に述べてしまうが、村井の生涯に戦場での活動はほとんどない。兵を率いることすら稀であった。村井貞勝は信長配下の、行政のスペシャリストなどと呼ぶのが相応しいであろう。

[編集] 名コンビ

特に島田とのコンビは、美濃三人衆降誘の際の人質受け取り、信長を頼ろうとした足利義昭を迎え入れる使者、義昭を伴って上洛後の将軍御所の造営、信長の宿所(義昭の推薦で建築開始。未完成か。)建設、その他社寺との折衝、農民からの訴えへの対応まで、信長政権の創業時においての事務方で、まさに八面六臂の大活躍をする。貞勝は朝山日乗と組んで、皇居の修築も担当した。この御所の修築の際の交渉、協議を経て、彼と貴族らや朝廷内部に人脈が形成され、そのことが彼の後の仕事および地位へのステップになった。

[編集] 京都所司代

足利将軍を追放した信長が京都を完全支配下に置いた後、天正元年7月、村井は信長から京都所司代(天下所司代)に任命された。松井友閑や武井夕庵、明智光秀塙直政らの信長の行政官僚側近らと共に、京都の治安維持や朝廷•貴族・各寺社との連絡・交渉、京洛周辺の行政、法令制定、訴訟、貴族間の争いの調停、市内インフラ整備、信長の二条邸宅の建築(大和多聞山城を破却して移築使用。のち誠仁親王に献上。)、本能寺の修復、御所の修復、それぞれの材木の手配(直接大和の山林へ出向くこともあったらしい)、時には小田原北条氏や奥州伊達氏からの使者の接待、信長の京都馬揃えの準備など、およそ″信長支配体制下における、京都に関する行政の全て″を任された。

中でも際立つ逸話が、天正三年の御所の築地塀の修復である。 京洛の町人にこれを命じた貞勝は、人数をいくつかの班に分けて作業を競わせた。築地塀の上では町人たちの歌や踊りが披露され、見物客が殺到し、周辺は大変な賑わいを見せた。あまりの賑わいに天皇や貴族らも見物に訪れたと言われている。その賑わいの中で競い合わせて進めた修復工事は、瞬く間に完成したと、信長公記に記されている。

この超人的な仕事ぶりにさすがの鉄人的老人も、時には体調を崩すこともあったらしく、貴族が尋ねて来た折に「疲労休息で面会できない」事が時々あったと記録されている。

天正3年7月、信長に官位昇進の勅諚が出されるが、信長はこれを固辞、代わりに家臣団への叙任を願い出て勅許された。貞勝は長門守に叙任される。 1581年、出家して村井春長軒と号し、家督を子の貞成に譲っている。なお仕事は続けていたらしい。ルイス・フロイスは彼を「都の総督」と呼び、「尊敬できる異教徒の老人であり、甚だ権勢あり」と評している。

[編集] 最期

1582年、信長が明智光秀の謀反により殺された本能寺の変の際、貞勝は本能寺向かいに位置した自邸にいたが、事に気付いた時点で本能寺は既に完全包囲されていると判断し、信長の嫡男・織田信忠の宿所の妙覚寺に駆け込んだ。信忠に二条城への移動を提言し、同じく駆けつけた他の織田家臣らとともに、二条城に立て籠もって明智軍に抗戦したが、信忠とともに討死にした。また、子の貞成・清次も同所で討死している。

京都の大雲院には、"頭を丸めた老人"という体の、貞勝の画像が残っている。 娘は佐々成政前田玄以福島高晴に嫁いでいる。

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