昭和天皇
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昭和天皇(しょうわてんのう、1901年(明治34年)4月29日~1989年(昭和64年)1月7日)は、日本の第124代天皇。名は裕仁(ひろひと)。印は若竹(わかたけ)。歴代天皇で、神話上を除き、在位期間および享年が最長である。
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[編集] 称号
本来別の元号が予定されていたが、正式発表前に外部に漏れ、新聞に発表されてしまったたため昭和に変更されたと伝わる(光文事件)。
[編集] 皇子女
香淳皇后との間には7人の子供に恵まれた。(以下誕生順)
- 照宮成子内親王(てるのみや しげこ、1925年(大正14年)12月6日~1961年(昭和36年)7月23日) - 東久邇宮盛厚王妃
- 久宮祐子内親王(ひさのみや さちこ、1927年(昭和2年)9月10日~1928年(昭和3年)3月8日)
- 孝宮和子内親王(たかのみや かずこ、1929年(昭和4年)9月30日~1989年(平成元年)5月26日) - 旧:公爵鷹司平通夫人
- 順宮厚子内親王(よりのみや あつこ、1931年(昭和6年)3月7日~) - 旧:侯爵池田隆政夫人
- 継宮明仁親王(つぐのみや あきひと、1933年(昭和8年)12月23日~) - 第125代天皇・今上天皇
- 義宮正仁親王(よしのみや まさひと、1935年(昭和10年)11月28日~) - 常陸宮
- 清宮貴子内親王(すがのみや たかこ、1939年(昭和14年)3月2日~) - 島津久永夫人
[編集] 生涯
- 1901年(明治34年)4月29日、大正天皇と貞明皇后の第一皇子として青山の東宮御所で生まれる。称号は迪宮(みちのみや)。生後70日で枢密顧問官の伯爵川村純義に預けられ、沼津御用邸で養育される。
- 1908年(明治40年)学習院初等科に入学。学習院院長・乃木希典(陸軍大将)の厳格な教育を受ける。
- 1912年(大正元年)陸海軍少尉 近衛歩兵第一連隊・第一艦隊附となる。
- 1914年(大正3年)3月、学習院初等科を卒業。4月、陸海軍中尉任官。
- 1916年(大正5年)陸海軍大尉昇任。立太子礼をおこなって皇太子となる。
- 1918年(大正7年)久邇宮良子女王が后に内定する。
- 1919年(大正8年)成年式。
- 1919年(大正8年)陸海軍少佐に昇任。
- 1921年(大正10年)3月3日から同年9月3日までイギリスをはじめヨーロッパ諸国を歴訪する。ロンドンにおいて、ロバート・ベーデン・パウエル卿と謁見し、英国ボーイスカウトの最高功労章であるシルバー・ウルフ章を贈呈される。
- 1921年11月25日、20歳で摂政に就任する(摂政宮と称される)。
- 1923年(大正12年)10月、陸海軍中佐昇任。12月27日、虎ノ門付近で無政府主義者の難波大助に狙撃されるが、命中せずに命を取り留める。(虎ノ門事件)
- 1924年(大正13年)に久邇宮良子女王(のちの香淳皇后)と結婚。
- 1925年(大正14年)10月、陸海軍大佐に昇任。
- 1926年(大正15年)12月25日、大正天皇の崩御(死去)により践祚し、昭和に改元。葉山の御用邸内において剣璽渡御の儀を行なう。
- 1926年(昭和元年)第124代天皇、陸海軍大元帥となる。
- 1928年(昭和3年)11月、京都御所にて即位の大礼を行う。12月、御大典記念観兵式。
- 1929年(昭和4年)神島(和歌山県田辺市)への行幸の際、南方熊楠から、粘菌などに関する進講を受ける。
- 1933年(昭和8年)12月23日、皇太子継宮明仁親王降誕(皇族の誕生を示す用語)。
- 1940年(昭和15年)皇居前広場において皇紀2600年奉祝式典に出席。
- 1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争開戦。
- 1945年(昭和20年)8月15日、戦争終結を告げるラジオ放送(玉音放送)により、歴代天皇で初めて国民に天皇の声を聞かせる。
- 1946年(昭和21年)1月1日、新日本建設に関する詔書を煥発する。
- 1952年(昭和27年)4月28日、サンフランシスコ講和条約発効。講和報告のため伊勢神宮と畝傍山陵・桃山御陵、靖国神社をそれぞれ参拝。
- 1959年(昭和34年)、皇太子明仁親王と正田美智子の成婚に出席(朝見の儀において)。
- 1962年(昭和37年)南紀白浜にて30年前に訪れた神島を眺めつつ、熊楠をしのぶ歌を詠んだ。「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」
- 1971年(昭和46年)9月27日より香淳皇后とともにイギリス、オランダなどを歴訪する。オランダでは生卵を投げつけられるという事件があった。
- 1975年(昭和50年)9月30日から同年10月14日まで皇后とともにアメリカを訪問する。
- 1981年(昭和56年)新年一般参賀で初めて参賀の群集に向かい「お言葉」を述べる。
- 1987年(昭和62年)9月22日、歴代天皇で初めての開腹手術。
- 1988年(昭和63年)8月15日、全国戦没者追悼式に出席、これが公の場への最後の出席となる。
- 1989年(昭和64年)1月7日・午前6時33分、十二指腸乳頭周囲腫瘍により崩御(死去)、87歳。
- 1989年(平成元年)2月24日、新宿御苑において大喪の礼が行われ、武蔵野陵に埋葬される(日本国憲法と現行の皇室典範に基づき葬られた最初の天皇)。
[編集] 主な出来事
[編集] 田中義一首相を叱責
満州某重大事件の責任者処分に関して、田中義一内閣総理大臣は責任者を厳正に処罰すると昭和天皇に約束したが、軍や閣内の反対もあって処罰しなかった時、天皇は「それでは前の話と違うではないか」と田中の食言を激しく叱責した。その結果、田中内閣は総辞職、恐懼した田中は程なく死去したとされる。この事件は、天皇に、立憲君主制の下で、その後の政治的関与を臆病にさせたエポックメーキングな出来事であった。なお『昭和天皇独白録』には、「辞表を出してはどうか」と天皇が田中に辞職を迫ったという記述があるが、当時の一次史料(『牧野伸顕日記』など)を照らしあわせるとそこまで踏み込んだ発言はなかった可能性が高い。
[編集] 天皇機関説事件
1935年、天皇機関説が排撃された天皇機関説事件について、昭和天皇は侍従武官長・本庄繁に「美濃部説の通りではないか。自分は天皇機関説で良い」と言った。 昭和天皇が帝王学を受けた頃には憲法学の通説であり、昭和天皇自身、「美濃部は忠臣である」と述べていたにもかかわらず、直接・間接にはなんら行動を起こすことはなかった。機関説に関しての述懐を、昭和天皇のリベラルな性格の証左としながら、同時に、美濃部擁護で動かなかったことを君主の非政治性へのこだわりとする記述は、しばしば見られるが、現実にはそれほど単純でない。
機関説は、国家法人説と呼ばれるドイツの学説に由来するが、この学説は国家の本質を「法人」とする点において主権及び主権者の存在をあいまいにする意図をもった学説であり、当時すでに、後発資本主義国であり、外見的立憲主義の典型とされていたドイツにおいてさえ「時代遅れ」とされていた。しかし、戦前期の日本においては、天皇を国家の一機関として観念するという点において、社会科学的思考と結びつく側面をもつと同時に、吉野作造の「民本主義」と並んで護憲運動や大正デモクラシーの理論的バックボーンを演じていたことは、日本資本主義がドイツよりもさらに後発であることと立憲主義がさらに外見的であったことを反映していた。しかし、昭和天皇がそこまでの理解を持っていたかは疑問である。昭和天皇の理解していた機関説は、「一機関」としての性質を強調する一木-美濃部ラインのものではなく、有機体の「頭部」であることを強調する、清水澄の学説に近かったとする説もある。
[編集] 二・二六事件
1936年に起きた陸軍皇道派青年将校らによる二・二六事件の際、本庄大将の「彼らも国を憂えて起こした行動で必ずしも咎めるものではないかと存じます」との進言に、昭和天皇は怒りも露に「朕が頼みとする股肱の老臣を殺害する、かくの如き凶暴の将校の精神に何ら許すべきものがあると言うのか。老臣たちを悉く倒すは朕が首を真綿で締めるに等しき行為ではないか」、さらに「お前達がやらぬなら朕自ら近衛師団を率いてこれを鎮圧に当たらん」と発言したとされる。この事は「君臨すれども統治せず」の立憲君主の立場を採っていた天皇が、政府機能の麻痺に直面し初めて自らの意思を述べたとも言える。これによって決起軍は反乱軍と認定され、事件は速やかに解決に向かったのである。この時の発言を、太平洋戦争終結のいわゆる“ご聖断”と合わせて、「立憲君主としての立場(一線)を超えた行為だった」とか「あの時はまだ若かったから」と後に語ったと言われている。なお、1975年にエリザベス女王が来日した際、影の首謀者と言われることもある真崎甚三郎の息子を昭和天皇は自らの通訳に選んでいる。
[編集] 真珠湾攻撃・開戦詔勅
1941年9月6日の御前会議で、対米戦は避けられないものとして決定された。御前会議では発言しないことが通例となっていた昭和天皇はこの席で敢えて発言をし、明治天皇御製の
- 「四方の海 みな同朋(はらから)と 思う世に など波風の 立ちさわぐらん」
- (四方の海はみな兄弟と思うこの世になぜ波風が立ち、騒ぎが起こるのであろう。)
という短歌を詠み上げた。
昭和天皇自身は開戦には反対であったと言われている。しかし、戦争が始まった後の1941年12月25日には日本軍の勝利を確信して、「平和克復後は南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむ」と語ったと小倉庫次の日記に記されている。
[編集] 戦争指導
1945年1月、フィリピン陥落の後、最高戦争指導会議筋から昭和天皇へ「講和へ向けての意見具申」があった。その時に昭和天皇は「もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか難しい話だと思う」と発言したと『木戸幸一日記』には記されている。平和主義者としての面が喧伝される昭和天皇であるが、単なる反戦論者ではなかったといえる。弟の高松宮とも、こうした面で意見が合わないことがあったとも伝わっている。
[編集] 人間宣言
1946年1月1日、人間宣言を煥発。この詔書はGHQの指導下にあったマスコミにより天皇の神格否定として喧伝され、国民に大きな衝撃を与えた。これと前後してダグラス・マッカーサーと一緒に並んだ全身が写された写真が公開(情報局により「不敬」を理由に発禁処分)されている(天皇はマッカーサーに比べて身長が低かったことも衝撃を与えている)。[編集] 外遊
皇太子時代の1921年3月3日から同年9月3日までの間、イギリスやフランス、ベルギー、イタリア、バチカンなどを公式訪問した。これは史上初の皇太子の外遊であり、国内には反対意見も根強かったが、山県有朋や西園寺公望などの元老らの尽力により実現した。出発は新聞で大々的に報じられた。お召し艦には巡洋艦香取が用いられた。イギリスでは日英同盟のパートナーとして大歓迎を受け、ジョージ5世国王やロイド・ジョージ首相らと会見した。イタリアではヴィットーリオ・エマヌエーレ3世国王らと会見した他、各国で公式晩餐会に出席したり、第一次世界大戦当時の激戦地などを訪れた。後に昭和天皇はこの外遊が非常に印象的であったと述べている。
1971年には再度イギリスやオランダ、スイスなどヨーロッパ諸国7カ国を訪問したが、ビルマ・インドネシア戦線で旧日本軍の捕虜となった退役軍人が多いイギリスとオランダでは、生卵を投げつけられるなど彼らの抗議活動に遭遇することになった。
また、1975年にはフォード大統領の招待によってアメリカ合衆国を公式訪問した。天皇の訪米は史上初の出来事である。これに先立つこと10余年前、皇太子明仁親王夫妻が訪米しており、この訪米は皇太子夫妻のつけた道筋をたどってのものといえる。天皇は2週間にわたってアメリカに滞在し、ワシントンD.C.やロサンゼルスを訪問した。訪米中は植物園などでのエピソードが多かった。ホワイトハウス晩餐会でのスピーチでは、戦後アメリカが日本の再建に協力したことへの感謝の辞などが読み上げられた。ロサンゼルス滞在時にディズニーランドを訪問し、ミッキーマウスの腕時計を購入したことが話題になった。昭和天皇の外遊はこれが最後のものであった。2007年現在13回の海外訪問を行っている今上天皇と比すると回数はごくわずかであるが、二度の外遊はいずれも第二次世界大戦の痛手からの回復、国際社会への復帰を印象付けるに十分以上の成果を挙げたといえる。
[編集] 行幸
戦後は1946年2月から約9年かけて日本全国を巡幸し、各地で国民の熱烈な歓迎を受けた。三池炭鉱の地下1000メートルもの地底深くや満州からの引揚者が入植した浅間山麓開拓地などにも赴いている。開拓地までの道路は当時整備されておらず、約2キロの道のりを徒歩で村まで赴いた。その他、行幸先でのエピソードも非常に多い。
全国46都道府県を巡幸するも、沖縄巡幸だけは沖縄が米軍の占領下にあったため果たすことができず、死の床にあっても「もうだめか」と沖縄巡幸を行えないことを悔やんでいた。「思はざる病となりぬ沖縄をたづね果たさむつとめありしを」との御製が伝わり、深い悔恨の念が思われる。
また、1964年の東京オリンピック、1970年の大阪万国博覧会、1972年の札幌オリンピック、バブル経済前夜の1985年のつくば博の開会式にも出席している。これらイベントの成功にどれほど寄与したか正確に計ることはできないが、特に敗戦から立ち直りかけた時期のイベントである東京オリンピックの成功には大きな影響を与えたと見られている。病臥した1987年秋にも、沖縄海邦国体への出席が予定されており、皇太子明仁親王を名代として派遣しお言葉を伝えている。
このほか、皇太子時代から大変な好角家であり、戦前戦後合わせて51回も国技館に天覧相撲に赴いている。特に戦後は1955年以降、病臥する1987年までに40回、ほとんど毎年赴いている。1959年には天覧試合として、プロ野球の巨人-阪神戦いわゆる「伝統の一戦」を観戦している。天覧試合に際しては当時の大映の永田雅一社長がこれを大変な栄誉としてとらえる言を残しており、相撲、野球の振興に与えた影響は計り知れないと言える。
[編集] 「崩御」前後
昭和63年の暮れ入って病臥すると、各地に病気平癒を願う記帳所が設けられたが、どこの記帳所でも多数の国民が記帳を行った。病臥の報道から一週間で記帳を行った国民は235万にものぼり、最終的な記帳者の総数は900万人に達した。 1988年9月19日に吐血してから翌年1月7日に崩御するまでの期間は、テレビなどでバラエティの派手な演出等が不謹慎であるという理由で自粛になった。なおこの「自粛」は、同年の流行語となった。このほか、病状に変化があった際は直ちに報道特番が流され、人気番組でも放送が中止・中断されることがあった。
- 1988年の中日ドラゴンズのリーグ優勝ビールかけ及びパレードの自粛
- 1988年の明治神宮野球大会中止
- 井上陽水出演のCM(日産自動車:セフィーロ)で「みなさんお元気ですか?」の音声カット
- 五木ひろしの結婚披露宴の中止(更には一般市民でも自粛・延期する人が続出した)
- 全日本プロレス出場プロレスラー流血自粛(新日本プロレスは流血続行)
- 1988年の「日本歌謡大賞」が中止
- 笑っていいとも!のオープニングテーマの自粛・差し替え
- ロート製薬のオープニングキャッチ自粛
このほか、多数のCMが所謂自粛バージョンになっている。 昭和天皇が病気で倒れた後は暫くの間、公式行事や儀式、歌舞音曲を伴う行事が自粛された。
- 大相撲初場所の1日延期
- 崩御後3日間に渡って、TVはCMなしでニュース及び追悼特番のみの放送(参考リンク、ただしNHK教育テレビではほぼ通常放送であった。)
- 1989年の全国高校ラグビー決勝中止(大阪府・大阪工業大学高等学校と茨城県・茗溪学園高等学校の両校優勝)
- 1989年の全国高校サッカー選手権大会が2日間順延
- 1989年の爆風スランプ武道館ライブ順延
- 1989年1月8日のラジオ体操の中止
- 1989年1月8日の公演を宝塚歌劇団が中止
- 学校や塾では始業式を遅らせたり授業を中止するところも多数あった。
- このほか、地下鉄通路の広告の照明までが落とされたり、パチンコ屋ですら店内で音楽を流さなかったなどの出来事も起こっている。
1月7日朝6時35分に危篤報道があり(実際は6時33分に崩御)、NHKをはじめとする各放送局は一斉に特別報道体制に入った。この時NHKでは青地に黄色の丸ゴシック体で「臨時ニュース」というテロップと共にチャイムを鳴らした。7時55分、藤森昭一宮内庁長官(当時)が「天皇陛下におかせられましては、本日午前6時33分吹上御所において崩御あらせられました」と発表。直後NHKでは黒字に白の楷書体の手書き筆字で「天皇陛下崩御」というテロップに切り替わり、チャイムが鳴らされた。このときのチャイムは「a'8 e''8 cis''8 a'8 e''8 a'8 e''8 cis''8 a'8 e''8 cis''8 e'8 a'8 a'8 e''8 cis''8 e'8 a'2」というものであった。(これは近年地震等の臨時ニュースにおいてNHKで用いられるチャイム「a'8 e''8 cis''8 a'8 e''8 a'8 e''8 cis''8 a'8 e''8 cis''8 e'8 a'2」よりも終わりが5音多い。)同日14時36分に新元号発表の記者会見が始まる冒頭には、記者会見場に入場する小渕恵三内閣官房長官(当時)の映像をバックにスーパーインポーズで「新元号決まる」というテロップが表示され、再び同じチャイムが鳴らされた。小渕が着席し、「ただいま終了しました閣議で元号を改める政令が決定され、第1回臨時閣議後に申しました通り、本日中に公布される予定であります。新しい元号は、平成であります」と言って額に入った「平成」の文字のしたためられた色紙を掲げた。このエピソードから小渕は「平成おじさん」と称されることになった。この新元号は毎日新聞が最も早く報じ、「リベンジを果たした」と光文事件と結びつけた報道がなされた。
危篤発表直後および崩御発表から翌1月8日終日まではNHK(総合)および民放各局が特別報道体制に入り、CMの自粛、昭和天皇の業績を偲ぶ番組、崩御報道を受けてのニュースなどが放送された。7日の新聞朝刊には通常のニュースや通常のテレビ番組編成が掲載されていたが、号外および夕刊には各新聞ほとんど最大級の活字で「天皇陛下崩御」と打たれ、テレビ番組欄も通常放送を行ったNHK教育の欄以外はほとんど白紙に近いものが掲載された。特別報道体制内の番組(前年末からの危篤報道を受けてあらかじめ製作していたもの)にて昭和史が回顧され「激動の昭和」という言葉が繰り返し用いられ、以後定着した。日付の切り替わる前には「昭和が終わる」ことに思いを馳せた人々が町の時計塔の写真を取る、二重橋などの名所に佇み日付変更の瞬間を待つなどの姿が報道された。
翌日から新聞活字には「平成元年」の文字が初めて現れることになった。
昭和64年は7日間しかなかったため、「昭和64年」が刻印された硬貨は希少であると認識されることがあるが、これは事実ではない。実際には「平成元年」の金型が手配されるまでの数ヶ月間、「昭和64年」の硬貨は発行され続けており、他の年と比較してその数が際立って少ないということはない。
崩御後、それまで天皇誕生日であった4月29日はみどりの日という国民の祝日となった。2007年からは、昭和の日に祝日名称が変更された。
[編集] 各地の記帳所、記帳所の設置された場所
- 皇居前記帳所
- 千葉県民記帳所
- 福岡市庁舎内記帳所
- 東京都大島町 天皇陛下病気お見舞い記帳所
※同町は伊豆大島に存在し、前年には三原山噴火という天災に見舞われたばかりであった。
[編集] 関連項目
[編集] エピソード
[編集] 皇太子時代
- 幼少時、養育係の足立たか(後の鈴木貫太郎夫人)を敬慕し、多大な影響を受けた。学習院初等科時代、「尊敬する人は誰か?」という教師の質問に対し、生徒の全員が「明治天皇」の名を挙げたのに対し、裕仁親王一人だけ「源義経」の名を挙げた。教師が理由を聞くと、「おじじ様(明治天皇)の事はよく知らないが、義経公の事はたかがよく教えてくれたから」と答えたという。
- 初等科時代の学習院院長・乃木希典を「院長閣下」と呼び尊敬していた。ある人が「乃木大将」と乃木を呼び捨てたのに対し、「それではいけない。院長閣下と呼ぶように」と注意したという。大正元年(1912年)の乃木殉死の日、乃木の「これからは皇太子として、くれぐれも御勉学に励まれるように」との訓戒に対し、裕仁親王は「院長閣下はどこに行かれるのですか?」と質問した。乃木の殉死に薄々感づいていたのかもしれない。
- 学習院時代、学友たちがお互いを名字で「呼び捨て」で呼び合うことを羨ましがり、御印から「竹山」という名字を作り、呼び捨てにしてもらおうとした(実際、この皇太子の提案に学友が従ったかどうかは不明)。
- 皇太子時代にイギリスを訪問したときロンドンの地下鉄に初めて乗った。このとき改札で切符を駅員に渡すことを知らず、切符を取り上げようとした駅員ともみ合いになり(駅員は、この東洋人が日本の皇太子だとは知らなかった)、とうとう切符を渡さず改札を出た。この切符は後々まで記念品として保存されたという。
- この外遊に際して理髪師大場秀吉が随行。大場は天皇の即位後も専属の理髪師として仕え続け、日本史上初の「天皇の理髪師」となった。天皇の専属の理髪師は戦前だけで五人交代している。この大場を始め、昭和天皇に仕えた近従は「天皇の○○」と呼ばれることが多い。
- 皇太子時代から「英明な皇太子」として喧伝され、即位への期待が高かった。北海道、沖縄はじめ各地への行啓も行っている。北海道行啓では先住民族が丸木舟に乗って出迎えた。
[編集] 天皇時代
- 大正天皇が先鞭をつけた一夫一婦制を推し進めて、「側室候補」として「未婚で住み込み勤務」とされていた女官の制度を改め「既婚で、自宅通勤」を認めた。
- 父大正天皇について、激務に身をすり減らした消耗振りを想起して「父は天皇になるべきではなかった」と語ったことがある。
- 御前において東條英機・杉山元の両大将が酒と煙草の優劣について論争したことがあるが、自身は飲酒も喫煙もしなかった。酒は一度試して悪酔いし、以後だめになったとも伝わる。
- 「天皇の料理番」秋山徳蔵が晩餐会のメインディッシュであった肉料理に、天皇の皿だけ肉をくくっていたたこ糸を抜き忘れて供し、これに気付いて辞表を提出した際には、招待客の皿について同じミスがなかったかを訊ね、秋山がなかったと答えると「以後気をつけるように」と言って許したという。孫の紀宮清子内親王にも同様のエピソードが伝わっている。
- アドルフ・ヒトラーから当時同社の最高ランクだったメルセデス・ベンツのKクラスグロッサーを贈呈されたが、非常に乗り心地が悪かったため好まなかったと伝わる。ちなみにこのグロッサーの車体はドイツ製ではなく、日本で作られたもので骨組みは竹製、外装は樹脂製であったという。このほか、菊紋をあしらったモーゼル・ルガーなども贈られたと言われる。
- 原爆や細菌を搭載した風船爆弾の製造を中止させたと伝わるなど、一般的には平和主義者と考えられているが、戦争開始時には国家元首として勝てるか否かを判断材料としている。戦時中は「どうやったら敵を撃滅できるのか」と質問することがあった。
- ガダルカナル島の戦いの際、過去の戦訓を引いて軍令部に警告を発したが、参謀の妨害にあって伝わらず、結果お召し艦であった比叡を失った。
- 戦時中の最も過酷な状況の折、宮中の執務室で「この懸案に対し大臣はどう思うか…」などの独り言がよく聞こえたという。
- 天皇として自分の意を貫いたのは二・二六事件と終戦の時だけであったと語っている。
- 学習院在学中に古式泳法の小堀流を学んだ。即位後、皇族でもできる軍事訓練として寒中古式泳法大会を考案した。御所には屋外プールが存在した。
- 昭和20年8月15日には事前に録音された玉音放送が流され、天皇自らの声が国民に敗戦を告げた。この放送における「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の一節は終戦を扱った報道特番などで度々紹介されており、非常に知名度が高い。
- 1975年11月21日の参拝を最後に天皇は靖国神社への参拝を行わなくなった。以後、天皇の靖国神社参拝は三十二年にわたって途絶えている。
- 昭和天皇が戦争を指導した側近に対してどのような感情を抱いていたのかを示す史料は少ない。『昭和天皇独白録』によれば、東条英機に対して「元来東条という人物は、話せばよく判る」「東条は一生懸命仕事をやるし、平素いっていることも思慮周密で中々良い処があった」と評していた。のち、東条の葬儀には勅使を遣わしている。
- 1946年初春、巡幸が開始された当時は「神ではない、ただの猫背の中年男」「石のひとつも投げられればいい」と天皇の存在感を軽視していたGHQは、これを見て大いに驚いた。当時の英国紙は「日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、天皇の声望はほとんど衰えていない。各地の巡幸で、群衆は天皇に対し超人的な存在に対するように敬礼した。何もかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている。」と書き、驚嘆を表した。
- あまりの天皇の影響力に、1946年12月の中国巡幸の兵庫県においての民衆の国旗を振っての出迎えが指令違反であるとしてGHQ民生局は巡幸を中止させたが、国民からの嘆願や巡幸を求める地方議会決議が相次いだため、1948年からの巡幸再開が許可された。
- 巡幸開始の直前、1946年1月18日には名古屋で洋品店を経営していた熊沢天皇(寛道)がマッカーサーに陳情を行い、天皇の巡幸の後を追いかける格好で全国遊説を開始した。当初GHQは熊沢に利用価値を認め、外電や雑誌『ライフ』に報道、遊説には護衛の将校をつけると篤く遇していたが、天皇への国民の敬意が深いことが知れると、熊沢へのGHQの処遇はどんどん薄くなっていった。同時に19人もが存在した自称天皇も姿を消していった。
- 1949年5月22日の佐賀県基山町の因通寺への行幸では天皇から直接言葉をかけられたシベリア抑留帰還者が一瞬にして洗脳を解かれ「こんなはずじゃなかった、俺が間違っておった」と泣き出したことがある。この者は共産革命の尖兵として早期帰国を許された組で、天皇暗殺を目的として、引き揚げ者にまぎれて同地に来ていたものであった。天皇は引き揚げ者に「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変だったであろう」と言葉をかけ、長い年月の苦労を労った。
- 行幸に際しては、食事についてなど、迎える国民に多くの生活に密着した質問をした。行幸の時期も、東北行幸の際には近臣の反対を押し切り「東北の農業は夏にかかっている」と農繁期である夏を選ぶなど、民情を心得た選択をし国民は敬意を新たにした。
- アメリカからの使節が皇居新宮殿について感想を述べたとき、「前のはあなたたちが燃やしたからね」と皮肉を返したと伝わる。
- 戦後の全国行幸で多くの説明を受けた際、「あ、そう」という無味乾燥な受け答えが話題になった。もっともこの受け答えは後の園遊会などでもよく使われており、説明に無関心だったというよりは単なる癖であったと思われる。本人も気にして「ああ、そうかい」と言い直すこともあった。寛仁親王も、「陛下は『あ、そう』ばかりで、けっして会話が上手な方ではなかった」と語っている。一方で表情は非常に豊かで、満面の笑みを浮かべる天皇の表情のアップなども写真に残っている。ちなみにこの、『あ、そう』と独特の手の上げ方は非常に印象的で、昭和天皇の癖として小中学生果ては幼稚園児にいたるまで、国民に広く知られており、似た挨拶の仕方をする者に「陛下」との通称がつくほど親しまれていた。この所作を物真似する者も多かった。
- 1969年(昭和44年)に皇居新宮殿が完成してから初の皇居一般参拝で長和殿のバルコニーに立った際、パチンコ玉で狙われた(負傷せず)。これがきっかけとなって長和殿のバルコニーに防弾ガラスが張られることとなった。犯人は映画ゆきゆきて、神軍の主人公奥崎謙三で暴行の現行犯で逮捕された。
- 皇居の畑で芋掘りをしていたときヤツガシラが一羽飛来したのを発見。侍従に急ぎ双眼鏡を持ってくるように命じた。事情のわからない侍従は「芋を掘るのに双眼鏡がなぜいるのですか」と聞き返した。このときのヤツガシラは香淳皇后が日本画に描いている。
- NHK朝の連続テレビ小説を見るのが日課だったらしいが、1975年に行われた記者会見で「テレビはどのようなものをご覧になるか」という質問に対し、「テレビは色々見ますが、放送会社の競争がはなはだ激しいので、今ここでどういう番組が好きかという事はお答えできません」と返した。記者達はこの思わぬ天皇の気遣いに大爆笑した。歌番組も見ていたのか、昭和天皇時代の内廷皇族(明仁親王一家、特に当時の三皇孫)が揃って歌謡曲通であったという雑誌記事が伝わっている。
- 昭和57年(1982年)の園遊会で黒柳徹子と歓談。その際、黒柳が当時出版した自著・「窓ぎわのトットちゃん」の説明をし、「国内で700万部出版し、世界35ヶ国でも翻訳されました」との言葉に対して、「大そうお売れになって」と答えた。この天皇の答えにより、黒柳がまるで天皇に自著の自慢をしてるように周囲の目に映ってしまった。周囲は大爆笑し、黒柳は照れ笑いを浮かべるほかなかった。
- このほか、柔道の山下泰裕選手が天皇の質問の中にあった「骨を折る」という語の意味を「骨折」と取り違え、しかもそのことに気づかず朗らかに返答するといったハプニングも記録されている。
- 崩御に際しては元軍人を中心に殉死者が出た。確認されているだけで3件の殉死事件が発生し、未遂1人を含むと11人が殉死を遂げている。このうち一人については、殉死した場所である公園と「すめらぎの…臣殉ず」の辞世がニュースで報道された。
- 大膳を務めた谷部金次郎は、崩御を機に退官している。ある意味、天皇に殉じたと言える。神道界の重鎮小泉太志命も、天皇と運命を共にすると公言していた。
[編集] 人物像に関するもの
- 3人の弟宮との関係は良好で、秩父宮とはよく忌憚の無い議論を交わしていたという。秩父宮が肺結核で療養することになると、「感染を避けるため」見舞いに行くことが許されなかったことを悔やんでいた。そのため、高松宮が病気で療養するとたびたび見舞いに訪れ、臨終まで立ち会おうとした。臨終の当日も見舞いに訪れている。
- 香淳皇后のことは良宮(ながみや)と呼んでいた。(良子皇后は皇族の久邇宮家出身でもある)
- 香淳皇后との夫婦仲は円満であった。はじめ皇女が4人続けて誕生したときには側近が側室を勧めたほどだが、これに対し「良宮でよい」と答えたという。また、行幸さきでは必ず「良宮のために」とお土産を購入した。
- ひげを蓄えたのは、成婚後からで「成婚の記念に蓄えている」とも「男子、唯一つの特権だから」と、理由を説明している。他方、1986年以降文仁親王が口ひげをたくわえはじめたときには「礼宮のひげはなんとかならんのか」と苦言を呈した。ちなみにこのときは両親である明仁親王夫妻が取り成して結局許されている。
- 第1子照宮成子内親王が誕生した際、「女の子は優しくていいね」と喜んだ。
- スポーツに関しては「幼いときから色々やらされたが、何一つ身に付くものはなかった。皇太子(明仁)がテニスが上手いのは良宮(香淳皇后)に似たのだろう」と発言している。自身も乗馬が好きで、戦前は良く行っていた。
- 知的好奇心が旺盛で、天皇の質問に対しては、一切のごまかしも通用しなかったほどあらゆる出来事に精通していたといい、質問を受けた者は常に緊張していたという。
- 学問に関しては、後述の生物学研究や御製の「おおらか」さなどから理科系人間である。秦郁彦は「さきの大戦のとき政府の要人で理科系の人物は昭和天皇だけであった(文芸春秋)」と評している。
- 戦時中、皇太子明仁親王に送った手紙には「精神を重んじ科学を軽んじた」「米英を侮った」ことなどが敗退を重ねた原因であると記している。
- 1983年5月行田市の埼玉県立さきたま史跡の博物館を行幸したとき、ガラスケースの中の金錯銘鉄剣を見ようとしたとき、記者団が一斉にフラッシュをたきその様子を撮影しようとしたところ、「君たち、ライトをやめよ!」と記者団を叱った。フラッシュがガラスに反射して見えなかったのを怒ったものである。昭和天皇が公式の場で怒りをあらわにした唯一の例とされる。
- 男はつらいよシリーズの大ファンで、ビデオは全て持っていたと言われる。
- 独特の魅力を持っており、アメリカのフォード大統領も訪日の際、昭和天皇に謁見したが、そのカリスマに終始手を震わせたと帰国後に告白している。崩御の際には人種・地域を問わず、世界各国から代表者が顔を揃えた事からも、彼が世界に与えた影響を窺い知る事が出来る。
- 猫背、猫舌で、蕎麦と鰻茶漬が好物であった。月一回の蕎麦が大変な楽しみで、配膳されたときには御飯を残して蕎麦だけを食べたという。猫舌については、浜名湖で焼きたての鰻の蒲焼を食べて火傷をした逸話が伝わる。このほか、鴨のすき焼きも好んだと伝わる。
- 晩年には体調が悪化したため好物の肉料理が食事に出なくなったことを残念がっていた。
- 1962年の若狭行幸ではフグの蓄養を見、ハマチ釣りをして大変に喜んだという。若狭にはこの時のほかにも数回行幸しており、馴染みの宿も現存している。
- 1964年に下関に行幸した際には中毒の恐れがあるからとフグを食べられないことに真剣に憤慨した、自分たちだけフグを食べた侍従たちに「フグには毒があるのだぞ」と恨めしそうに言ったという逸話もある。その一方で同所ではイワシなど季節の魚に舌鼓を打ったという。
- 魚が好きであり、臣下との会話で魚の話題が出ると喜んだという。趣味として釣りも楽しんだ。沼津において、常陸宮正仁親王を伴って磯釣りに興じたことがある。釣った魚は研究のため、全て食べる主義であった。
- シーラカンスの解剖に立ち会ったことがある。これを食したかどうかについては語られていない。
- 相撲好きであり、蔵間を贔屓にしていた。蔵間が大関昇進を果たせないことを大変残念がり、「蔵間、大関にならないねえ」とこぼしたこともある。このほか、「突貫おじさん」こと富士桜の取り組みも大変楽しんだとされる。なお前述のぼやきは当時の春日野理事長を恐縮させ、蔵間は理事長室に呼びつけられて叱責されたという。
- 孫秋篠宮文仁親王を幼少時、大変にかわいがったことが知られる。天皇のひざの上は礼宮時代の文仁親王の指定席であったといい、ひざの上に親王が座っている写真(1970年1月皇居にて撮影のものなど。この写真には昭和天皇、香淳皇后、皇太子明仁親王一家、常陸宮夫妻が写されており、天皇は当時の礼宮文仁親王をひざに乗せてソファーに腰掛けている。天皇の左には皇太子明仁親王と常陸宮正仁親王、中央奥には紀宮清子内親王を抱いた美智子皇太子妃、皇太子妃の向かって右に浩宮徳仁親王、常陸宮妃華子がそれぞれ立ち、前列右に香淳皇后がソファーに座っている。この一枚は皇室関係のアルバムに収録され、キャプションには「紀宮さまの初正月 礼宮さまもお兄ちゃんになられ、ちょっぴりおすまし」との文章が記された)も現存している。
- 太平洋戦争史上最大の激戦と言われたペリリュー島の戦いの折には「ペリリューはまだ頑張っているのか」と部隊長の中川州男大佐以下の兵士を気遣う発言をした。中川部隊への嘉賞は11度に及び、感状も三度も与えている。
- 特攻には批判的であったとされる。特攻第一号の報告がもたらされた際には「馬鹿なことを…だが、よくやった」と言ったとされ、国家元首としての冷厳な一面ものぞかせている。
- 南方熊楠のことは後々まで忘れることはなく、その名を御製に詠んでいる。南方および弟子からは都合四回にわたって粘菌の標本の献呈を受けている。
- 喫煙せず、煙草は愛煙家の臣下に下賜していたが、その際に「僕は煙草はのまないから煙草呑みにやろう」と言い、近臣が「陛下、朕とおっしゃってください」と慌てる場面などもあったという。
- 見学した新幹線の運転台が気に入り、侍従に時間を告げられてもしばらくそこから離れなかったこともある。
- 武蔵野の自然を愛し、ゴルフ場に整備されていた吹上御苑使用を1937年に停止し、一切手を加えないようにした。その結果、現在のような森が復元された。また「雑草という植物はない」(ただしくは「雑草と言う言葉には不快感がある」)といったことでも有名。
- 天皇の日常生活をいくらか近代的なものにした。宮城内に通常の半分の9ホールからなるゴルフコースを作ってゴルフをプレイしたり、天皇として初めてレコードを聴いたという。
- 海洋生物学を研究する関係からか、英語よりフランス語を得意としたと伝わる。バルビゾンのレストラン「バ・ブレオー」でエスカルゴを食べる際、その個数について日本語とフランス語をかけて近臣をからかったこともある。
- 富士産業と三菱からスクーターを献上された。ラビットスクーターSー12型に乗ったことがあり、東宮御所においてこれに乗っている写真が現存する。乗っているのは三菱シルバービジョンc-11型であるとも言われる。
[編集] 現人神としての天皇に関するもの
- 戦前「天皇は神である」ということが喧伝されており世界的にも知られていたため、戦後日本に進駐したある米兵は日本人が進化論を知らないと思い込み、日本人相手に大真面目で講義を行った。相手の日本人は「中学で習ったことをいまさら教わるとは思わなかった」との感想を述べている。
- 昭和後期、欧米のテーブルトークRPGに天皇が登場したことがあり、1980年代末になって日本の富士見ドラゴンブックから発行されたTRPG関連書籍で紹介された。このときのゲーム上での設定は極めてよく研究されたものであり、「レッサー・ゴッド級の魔法を使う」など現人神としての性格が強調されていた。
- 政治学者の太田一男は「子供のとき学校でどう教えられたかというと、天皇陛下をまともに見たら目が腐るというのですね。それだから見てはいけない、そういうことを学校の先生がまじめに教えたんですよ」(1999年07月16日、衆議院内閣委員会)と証言している。
- 1997年8月末日、民放のドキュメンタリー番組で昭和天皇誤導事件が取り上げられたことがある。このとき再現ドラマ(の道を間違えたことに気づくシーン)において先導車の運転手だった警察官(つまり、道を間違えた本人)を演じた役者はハンドルを握ったまま硬直し、泣きそうな顔、上ずった声で「ま、間違えました~!!」と、道を間違えたことを激しく狼狽する様子を演じていた(番組CMでもこのシーンは流された)。演出によるものか役者の独創によるものかは不明であるが、神である天皇の先導という大任を任せられながらミスをしでかしてしまった者の心情、また天皇がいかなる存在として見られていたかがよく分かる内容となっている。
[編集] 短歌
昭和天皇は生涯に約1万首の短歌を詠んだとされている。公表されているものは869首。これは文学的見地からの厳選というよりは立場によるところが大きい。宮中行事や歌会始に代表される歌会、行幸やおことばに代表されるパフォーマンスに伴っての作品発表は、いずれも宮内庁の目を経ており、相聞が一首も発表されていない点をとっても、一般の短歌作者とは同列に論じられない部分もある。近代短歌成立以前の御歌所派の影響は残るものの戦後は、木俣修、岡野弘彦ら現代歌人の影響も受けた。公表された作品の約4割は字余りで、ほとんど唯一といってよい字足らずは、自然児の生物学者・南方熊楠に触発されたもののみである。このような作風は「おおらか」とも、「非文学的」ともされてきた。詳しくは昭和天皇の大御歌を参照
- 昭和天皇の歌集
- みやまきりしま:天皇歌集 (毎日新聞社編) (1951年11月、毎日新聞社)
- おほうなばら:昭和天皇御製集 (宮内庁侍従職編) (1990年10月、読売新聞社)
- 昭和天皇御製集 (宮内庁編) (1991年7月、講談社)
- 昭和天皇・香淳皇后の歌集
- あけぼの集:天皇皇后両陛下御歌集 (木俣修編) (1974年4月、読売新聞社)
[編集] 生物学研究
昭和天皇は生物学者として海洋生物や植物の研究にも力を注いでいる。1925年6月に赤坂離宮内に生物学御研究室が創設され、御用掛の服部廣太郎の勧めにより、変形菌類(粘菌)とヒドロ虫類(ヒドロゾア)の分類学的研究を始めた。1928年9月には皇居内に生物学御研究所が建設された。1929年(昭和4年)には自ら在野の粘菌研究第一人者南方熊楠のもとを訪れて進講を受けた。南方の名は、後の御製にも詠まれて残っている。もっとも、時局の逼迫によりこれらの研究はままならず、研究成果の多くは戦後発表されている。ヒドロ虫類についての研究は裕仁(あるいは昭和天皇)の名で発表されており、『日本産1新属1新種の記載をともなうカゴメウミヒドラ科Clathrozonidaeのヒドロ虫類の検討』をはじめ、7冊が生物学御研究所から刊行されている。また、他の分野については専門の学者と共同で研究をしたり、採集品の研究を委託したりしており、その成果は生物学御研究所編図書としてこれまで20冊刊行されている。
昭和天皇の生物学研究については、山階芳麿や黒田長礼の研究と同じく「殿様生物学」の流れを汲むものとする見解や、「その気になれば学位を取得できた」とする評価がある。一方、昭和天皇が研究題目として自然科学分野を選んだのは、純粋な個人的興味というよりも、万葉集以来の国見の歌同様、自然界の秩序の重要な位置にいるシャーマンとしての役割が残存しているという見解もある。これについては北一輝が昭和天皇を「クラゲの研究者」と呼びひそかに軽蔑していたという渡辺京二の示すエピソードが興味深いが、数多く残されている昭和天皇自身が直接生物学に関して行った発言には、この見解を肯定するものは見当たらない。ただ、詠んだ和歌の中で、干拓事業の進む有明海の固有の生物の絶滅を憂うる心情を詠いつつ、その想いを「祈る」と天皇としては禁句とされる語を使っている点に特異な点があることを、自然保護運動家の山下弘文などが指摘してはいる。なお、昭和天皇の海洋生物研究の一部は今上天皇である明仁の研究とともに、新江ノ島水族館(神奈川県藤沢市)で公開されている。
シャーマンとしての自覚に基づいたのかは解らないが、採集したアメフラシを煮て食べた事もあったことを、生物学の進講をたびたび行っていた水産学者の末広恭雄に、昭和天皇自身が語っている。この際に味をたずねられて、「あれはまずかった」と述懐している。また、戦時中に軍部から使者が生物学研究を止めさせようと出向いた所、昭和天皇がある海域のプランクトンの減少に気づいた為、異常海域を調べた結果、敵潜水艦の発見につながり、止めさせるのは断念したようである。
- 昭和天皇の著書
- 日本産1新属1新種の記載をともなうカゴメウミヒドラ科Clathrozonidaeのヒドロ虫類の検討 (1967年2月)
- 天草諸島のヒドロ虫類 (1969年9月)
- カゴメウミヒドラClathrozoon wilsoni Spencerに関する追補 (1971年9月)
- 小笠原諸島のヒドロゾア類 (1974年11月)
- 紅海アカバ湾産ヒドロ虫類5種 (1977年11月)
- 伊豆大島および新島のヒドロ虫類 (1983年6月)
- パナマ湾産の新ヒドロ虫Hydractinia bayeri n.sp.ベイヤーウミヒドラ (1984年6月)
- 相模湾産ヒドロ虫類 (1988年8月)
- 相模湾産ヒドロ虫類 2 (1995年12月)
- 昭和天皇と専門の学者の共同研究
- 昭和天皇の採集品をもとに専門の学者がまとめたもの
- 相模湾産後鰓類図譜 (馬場菊太郎) (1949年9月、岩波書店)
- 相模湾産海鞘類図譜 (時岡隆) (1953年6月、岩波書店)
- 相模湾産後鰓類図譜 補遺 (馬場菊太郎) (1955年4月、岩波書店)
- 増訂 那須産変形菌類図説 (服部廣太郎) (1964年10月、三省堂)
- 相模湾産蟹類 (酒井恒) (1965年4月、丸善)
- 相模湾産ヒドロ珊瑚類および石珊瑚類 (江口元起) (1968年4月、丸善)
- 相模湾産貝類 (黒田徳米・波部忠重・大山桂) (1971年9月、丸善)
- 相模湾産海星類 (林良二) (1973年12月、保育社)
- 相模湾産甲殻異尾類 (三宅貞祥) (1978年10月、保育社)
- 伊豆半島沿岸および新島の吸管虫エフェロタ属 (柳生亮三) (1980年10月、保育社)
- 相模湾産蛇尾類 (入村精一) (1982年3月、丸善)
- 相模湾産海胆類 (重井陸夫) (1986年4月、丸善)
- 相模湾産海蜘蛛類 (中村光一郎) (1987年3月、丸善)
- 相模湾産尋常海綿類 (谷田専治) (1989年11月、丸善)
- 昭和天皇が発表したヒドロ虫類の新種
- Clytia delicatula var. amakusana Hirohito, 1969 アマクサウミコップ
- C.multiannulata Hirohito, 1995 クルワウミコップ
- Corydendrium album Hirohito, 1988 フサクラバモドキ
- C. brevicaulis Hirohito, 1988 コフサクラバ
- Corymorpha sagamina Hirohito, 1988 サガミオオウミヒドラ
- Coryne sagamiensis Hirohito, 1988 サガミタマウミヒドラ
- Cuspidella urceolata Hirohito, 1995 ツボヒメコップ
- Dynamena ogasawarana Hirohito, 1974 オガサワラウミカビ
- Halecium perexiguum Hirohito, 1995 ミジンホソガヤ
- H. pyriforme Hirohito, 1995 ナシガタホソガヤ
- Hydractinia bayeri Hirohito, 1984 ベイヤーウミヒドラ
- H. cryptogonia Hirohito, 1988 チビウミヒドラ
- H. granulata Hirohito, 1988 アラレウミヒドラ
- Hydrodendron leloupi Hirohito, 1983 ツリガネホソトゲガヤ
- H. stechowi Hirohito, 1995 オオホソトゲガヤ
- H. violaceum Hirohito, 1995 ムラサキホソトゲガヤ
- Perarella parastichopae Hirohito, 1988 ナマコウミヒドラ
- Podocoryne hayamaensis Hirohito, 1988 ハヤマコツブクラゲ
- Pseudoclathrozoon cryptolarioides Hirohito, 1967 キセルカゴメウミヒドラ
- Rhizorhagium sagamiense Hirohito, 1988 ヒメウミヒドラ
- Rosalinda sagamina Hirohito, 1988 センナリウミヒドラモドキ
- Scandia najimaensis Hirohito, 1995 ナジマコップガヤモドキ
- Sertularia stechowi Hirohito, 1995 ステッヒョウウミシバ
- Stylactis brachyurae Hirohito, 1988 サカズキアミネウミヒドラ
- S. inabai Hirohito, 1988 イナバアミネウミヒドラ
- S. monoon Hirohito, 1988 タマゴアミネウミヒドラ
- S. reticulata Hirohito, 1988 アミネウミヒドラ
- S.(?) sagamiensis Hirohito, 1988 サガミアミネウミヒドラ
- S. spinipapillaris Hirohito, 1988 チクビアミネウミヒドラ
- Tetrapoma fasciculatum Hirohito, 1995 タバヨベンヒメコップガヤ
- Tripoma arboreum Hirohito, 1995 ミツバヒメコップガヤ
- Tubularia japonica Hirohito, 1988 ヤマトクダウミヒドラ
- Zygophylax sagamiensis Hirohito, 1983 サガミタバキセルガヤ
[編集] 戦争責任
詳細は天皇の戦争責任を参照
明治憲法下において最高権力者と規定されていたため、戦争責任を問う声はあったが、天皇は日本統治に利用すべき存在とされ、連合国(とくにアメリカ)から戦争責任を問われることはなかった。
敗戦前の大日本帝国憲法(明治憲法)のもとでは、第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」を根拠として、軍の最高指揮権である統帥権は天皇大権とされ、また第12条「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」を根拠に軍の編成権も天皇大権のひとつとされた。政府および議会から独立した、編成権を含むこの統帥権の独立という考え方は、1930年のロンドン海軍軍縮条約の批准の際に、いわゆる統帥権干犯問題を起こす原因となった。
統帥権が、天皇の大権の一つ(明治憲法第11条)であったことを理由に、1931年の満州事変から日中戦争、さらに大東亜戦争へと続く、いわゆる十五年戦争の戦争責任をめぐって、最高指揮権を持ち、宣戦講和権を持っていた天皇に戦争責任があったとする主張と、明治憲法第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と規定された天皇の無答責を根拠に(あるいは軍事等についての情報が天皇に届いていなかったことを根拠に)、天皇に戦争責任を問い得ないとする主張とのあいだで論争があるが、天皇に戦争責任があったとする主張は大勢とはなっていない。〔大日本帝国、大日本帝国憲法を参照〕
また、美濃部達吉らが唱えた天皇機関説によって天皇は「君臨すれども統治せず」という立憲主義的君主であったという説が当時の憲法学界の支配的意見であったが、当時の政府は、「国体明徴声明」を発して、統治権の主体が天皇に存することを明示し、この説の教授を禁じた。
敗戦後の極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)において、ソビエト連邦、オーストラリアなどは天皇を戦争犯罪人として裁くべきだと主張したが、連合国最高司令官であったマッカーサー元帥らの政治判断(昭和天皇を訴追すれば死刑は確実であり、そうなると、徹底した天皇神格化教育を受けた日本国民の反発を招き、円滑な占領政策が行えなくなるとの懸念)よって訴追を免れた。
なお、昭和天皇が初めてマッカーサー元帥を訪問した時に、マッカーサー元帥は(マッカーサーメモによると)当初命乞いするのではないかと考えていたのに対し、昭和天皇は「私はどうなっても構わない、責任は自分がとるので、国民を助けてほしい。」と語り、マッカーサー元帥を大いに感動させたといわれる。この会談内容については全ての関係者が口を噤み、否定も肯定もしない為、真偽の程は明らかではない。これは、マッカーサー自身は、昭和天皇が全責任を負う旨の発言をしたという回想をしていたのだが、会見記録にはその記録がなかったため、論議を招いたものである。昭和天皇自身は、1975年に行われた記者会見でこの問題に関する質問に対し、「(その際交わした外部には公開しないという)男同士の約束ですから」と肯定も否定もしなかったが、現代史家の秦郁彦が、会見時の天皇発言を伝えるアチソン米国務省政治顧問の国務省宛電文を発見し、現在では発言があったとする説が有力である。また、会見録に天皇発言が記録されていなかったのは、重大性故に記録から削除されたことが通訳を務めた松井大使の手記で判明し、藤田侍従長の著書もこの事実の傍証とされている。
天皇自身は「戦争責任についてどう思うか」という毎日新聞記者からの質問に対し「自分は文学者ではないから、そういう言葉のアヤはよくわからない」と答えている。
[編集] 本島等長崎市長の戦争責任発言
1988年12月、当時の本島等長崎市長が、昭和天皇には戦争責任があると思う、と発言したことに対し、保守陣営などからの反発と右翼からの脅迫が起こった。本島市長は発言の撤回をせず、右翼の構成員の銃弾を受けることとなった。天皇を巡る右翼の銃撃について嶋中事件との関連で言及する声もあった。
[編集] 敗戦観
山田風太郎の著書『人間臨終図巻』内の山県有朋の項目に昭和天皇が終戦から間もなく、疎開中の明仁親王(のちの第125代天皇)にあてた手紙が引用されている。それを要約すると、敗戦の責任は、第一次世界大戦の時のドイツと同様に、偏に日本の国力の限界を無視、精神主義に陥った軍部にあり、日清・日露の両戦役で陸海軍の指揮を担当した、山県や山本権兵衛のような軍人がいたならば、ここまで国土を荒廃させるような無茶な戦争はしなかっただろうとのことである。
[編集] 戦前から戦後へ
戦前の天皇は国民との接触はほとんど無く、公開される写真、映像も大礼服や軍服姿がほとんどで、現人神、大元帥と言う立場を非常に強調していた。
敗戦により、ポツダム宣言を受諾したが、ポツダム宣言には天皇や皇室に関する記述が無く、非常に微妙な立場に追い込まれた。その為、政府や宮内省などは、天皇の大元帥としての面を打ち消し、軍国主義のイメージから脱却すると共に、巡幸と言う形で天皇と国民が触れ合う機会を作り、天皇擁護の世論を盛り上げようと苦慮した。具体的に、伊勢神宮への終戦報告の参拝時には、大礼服から金モールなどを取った天皇服と呼ばれる服装を着用した。
さらに、占領軍が上陸してくると、礼服としてモーニング、平服としては背広を着用してソフト路線を強く打ち出した。また、いわゆる「人間宣言」でGHQの天皇制擁護派に近づくと共に、一人称として朕を用いるのが伝統であったのを私を用いたり、巡幸時には一般の国民と積極的に言葉を交わすなど、日本の歴史上最も天皇と庶民が触れ合う期間を創出した。