日本国との平和条約

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日本国との平和条約(にほんこくとのへいわじょうやく、: Treaty of Peace with Japan)は、第二次世界大戦におけるアメリカ合衆国をはじめとする連合国の諸国と日本国との間の戦争状態を終結させるため、両者の間で締結された平和条約である。アメリカ合衆国のサンフランシスコ市において署名されたことから、サンフランシスコ条約サンフランシスコ平和条約サンフランシスコ講和条約SF条約などとも呼ばれ、ほかにも対日平和条約・対日講和条約とも言う。

この条約の後文に、"ひとしく正文である英語、フランス語及びスペイン語により、並びに日本語により作成した。"との記載がある。つまり、正文は英語・仏語・スペイン語であり、日本語版は正文とは扱われない。(並び、及びは英語のandの並列の意味でつまり"{ひとしく正文である英語andフランス語andスペイン語}and{日本語}により作成した。"となる)しかし、日本の外務省による和訳が、正文に準ずるものとして締約国の間で承認され、国会承認・内閣批准を受け他の言語版と共に認証謄本が締結国に保管されている。

1951年(昭和26年)9月8日に全権委員によって署名され、翌年の1952年(昭和27年)4月28日に発効した。日本国内では、昭和27年4月28日条約第5号として公布されている。

この条約によって正式に、連合国は、日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認した(第1条(b))。なお、第1条(a)にあるように、国際法上では、この条約の発効により正式に、日本と連合国との間の「戦争状態」は終結したものとされ、ポツダム宣言の受諾を表明した1945年(昭和20年)8月15日や、降伏文書に署名をした1945年(昭和20年)9月2日以降にも戦争状態は継続していたものとして扱われている。

目次

[編集] 内容・解釈等

[編集] 要旨

  • 日本と連合国との戦争状態の終了(第1条(a))
  • 日本国民の主権の回復(第1条(b))
  • 日本は朝鮮の独立を承認。朝鮮に対する全ての権利、権原及び請求権の放棄(第2条(a))
    (英文では“Japan, recognizing the independence of Korea”なので、“独立を承認”ではなく“独立を認識”が妥当と考えられるという少数意見も存在する。しかしその独立はポツダム宣言の受諾日1945年8月9日では無い。詳細ラスク書簡
  • 日本の台湾澎湖諸島の権利、権原及び請求権の放棄(第2条(b))
  • 主権を持っていた千島列島南樺太の権利、権原及び請求権の放棄(第2条(c))
  • 南洋諸島の権利、権原及び請求権の放棄(第2条(d)(f))
  • 南西諸島小笠原諸島を合衆国の信託統治に置くことの承認(第3条)
  • 賠償は役務賠償のみとし、賠償額は個別交渉する。(第14条(a)1 など)
  • 日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾(第11条)


[編集] 領土

日本には領土の範囲を決めた一般的な国内法が存在せず、本条約の第2条が領土に関する法規範の一部になると解されている。

[編集] いわゆる外地人の日本国籍喪失

条約に基づき領土の範囲が変更される場合は、当該条約中に国籍の変動に関する条項が入ることが多いが、本条約には明文がない。しかし、国籍や戸籍の処理に関する指針を明らかにした通達(昭和27年4月19日民事甲第438号法務府民事局長通達「平和条約の発効に伴う朝鮮人台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について」)により、本条約第2条(a)(b)の解釈として朝鮮人及び台湾人は日本国籍を失うとの解釈が示され、最高裁判所も同旨の解釈を採用した(最大判昭和36年4月5日民集15巻4号657頁)。もっとも、台湾人の国籍喪失時期については、本条約ではなく日華平和条約の発効時とするのが最高裁判例である(最大判昭和37年12月5日刑集16巻12号1661頁)。これに対し、千島列島・南樺太は、法体系上は内地であったため権原放棄に伴う国籍の喪失はないとされている。

[編集] 著作権保護期間の戦時加算

戦時中は連合国・連合国民の有する著作権の日本国内における保護が十分ではなかったとの趣旨から、本条約第15条(c)の規定に基づき、連合国及び連合国民の著作権の特例に関する法律(昭和27年8月8日法律第302号)が制定され、著作権法に規定されている保護期間に関する特例が設けられている。→「戦時加算」を参照

[編集] 11条解釈

日本国との平和条約第11条の解釈参照

[編集] 講和会議

1951年(昭和26年)7月20日共同で、日本を含む全50カ国に招請状を発送。「中国」に対しては、代表政権についての米英の意見(中華民国中華人民共和国か)が一致せず、日中間の講和については独立後の日本自身の選択に任せることにして、招請は見送られた(1952年(昭和27年)4月28日、中華民国(台湾)との間に日華平和条約を調印。1952年8月5日発効)。

8月22日フランスの要求を容れ、インドシナ三国(ベトナム国ラオスカンボジア)にも招請状を発送。

9月4日から8日にかけて、サンフランシスコ市の中心街にある戦没者追悼記念オペラハウスWar Memorial Opera House)において、全52カ国の代表が参加して講和会議が開催された。インドビルマユーゴスラビアは招請に応じなかった。

日本の全権団代表は、首席全権の吉田茂首相)、全権委員の池田勇人(蔵相)・苫米地義三国民民主党最高委員長)・星島二郎自由党常任総務)・徳川宗敬(参議院緑風会議員総会議長)・一万田尚登日銀総裁)の6名。

9月8日、条約に49カ国が署名し、講和会議は閉幕した。ソ連ポーランドチェコスロバキアの共産圏3国は講和会議に参加したものの、中国の不参加を理由に会議の無効を訴え、署名しなかった。

[編集] 署名した国

アルゼンチンオーストラリアベルギーボリビアブラジルカンボジアカナダ、セイロン(→スリランカ)、チリコロンビア(※)、コスタリカキューバドミニカ共和国エクアドルエジプトエルサルバドルエチオピアフランスギリシャグアテマラハイチホンジュラスインドネシア(※)、イランイラクラオスレバノンリベリアルクセンブルク(※)、メキシコオランダニュージーランドニカラグアノルウェーパキスタンパナマパラグアイペルーフィリピンサウジアラビアシリアトルコ、南アフリカ連邦(→南アフリカ共和国)、イギリスアメリカ合衆国ウルグアイベネズエラベトナム国(→ベトナム共和国ベトナム社会主義共和国)、日本
  • 署名順【日本を除きABCD順に署名している】。
  • ※は、署名はしたが批准していない国。
  • →は署名後、国名が変わった国。

なお、講和会議に続いて、日本とアメリカ合衆国の代表は、サンフランシスコ郊外のプレシディオ陸軍基地に場所を移して、日米安全保障条約を締結した。この2つの条約をもって日本は自由主義陣営の一員として国際社会に復帰したと言える。 (吉田全権代表以外は署名せず。)

[編集] 日本国内の経緯

[編集] 会議前

日本国内では、主に左翼陣営が、ソビエト連邦などを含む全面講和を主張した。

[編集] 会議後

  • 1951年10月26日 衆議院が締結を承認
  • 1951年11月18日 参議院が締結を承認、内閣が条約を批准

※両院共承認し、内閣が批准したのは『日本語正文』であるが、正文が存在するのは英語・フランス語・スペイン語であり、厳密には条約を批准して居ないと見るべきだと云う意見もある。これに従うと日本は未だ独立国家では無い事と成る。

この後、日本は、この条約を締結しなかった国々と個別の平和条約を締結したが、ソビエト連邦(現ロシア)とはいまだに平和条約を締結しておらず(法的には現在も関係不正常状態)、北方領土問題などを残している。

また、条約の発効を以って、レッドパージの一環として占領軍に発行禁止されていたしんぶん赤旗が再刊された。

[編集] 署名から50年後

2001年9月8日(日本時間では9日)、北カルフォルニア日本協会(the Japan Society of Northern California)の主催で、「サンフランシスコ平和条約署名50周年記念式典」が講和会議の会場であったオペラハウスにて開かれた。日本からは田中真紀子外務大臣が、米国からはコリン・パウエル国務長官が出席し、それぞれ演説を行ない、日米の同盟関係のさらなる強化の必要性を確認しあった。なお、この式典の前に、プレシディオ元陸軍基地において旧日米安全保障条約署名50周年記念式典も行われた。

[編集] 参考文献

  • 入江啓四郎『日本講和条約の研究』(板垣書店)
  • 西村熊雄『日本外交史27 サンフランシスコ平和条約』(鹿島平和研究所)

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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