日本共産党

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日本の政党
党名:
英文名:
日本共産党
Japanese Communist Party(JCP)
幹部会委員長: 志位和夫
書記局長: 市田忠義
成立年月日: 1922(大正11)年7月15日
合法化は1945(昭和20)年
本部所在地: 東京都渋谷区千駄ケ谷四丁目26番7号
衆議院議員: 9
(2006(平成18)年1月20現在)
参議院議員: 9
(同上)
党員: 約40万4,000人
(2006(平成18)年1月現在)
政党交付金: 受給拒否
(2006(平成18)年現在)
ウェブサイト: 日本共産党中央委員会
シンボル:
共産主義

共産主義の種類
マルクス主義レーニン主義
トロツキー主義毛沢東主義
スターリン主義鄧小平理論
ユーロコミュニズム


共産党
共産主義インターナショナル
第四インターナショナル
共産主義革命
プロレタリアート独裁
共産貴族


社会主義国
キューバラオス
リビアベトナム
中華人民共和国
朝鮮民主主義人民共和国
沿ドニエストル共和国


人物
マルクスエンゲルス
レーニン毛沢東トロツキー
スターリンホーチミン鄧小平
カイソーンカストロ金日成
ルカシェンコナジポル・ポト
ホーネッカージフコフ
チトーチャウシェスク
ホッジャドプチェク
ゴムウカルクセンブルク
ゲバラチャベスリープクネヒト


経済
計画経済社会主義市場経済


著作
資本論共産党宣言


シンボル
鎌と槌赤い星赤旗


機関紙
プラウダ人民日報
朝鮮労働新聞しんぶん赤旗

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日本共産党本部ビル(東京都渋谷区千駄ヶ谷四丁目)。2005年1月竣功

日本共産党(にほんきょうさんとう)は、1922年に結成された日本における革新政党の一つである。

目次

[編集] 概説

日本共産党の2007年現在の国会勢力は、衆議院議員9名、参議院議員9名である。

地方議員数は2006年5月3日時点で3,403人と、国内第一党の地方議会勢力となっている。(これは、自民党所属の地方議員が無所属で会派を組んでいることが多いことによるものでもある。)※後述

また、十数人の党員首長を抱えている。※後述

党員約40万人、機関紙発行部数約173万部、支部を職場・地域・学園に約2万4000(2005年現在)置き、発達した資本主義国の共産主義政党としては、最大の規模を持つ。ただし、すでに死亡している者を事務処理の遅れなどで党員としてカウントしていたりする場合もある他、死亡のほか、本人からの離党の届け、未結集の党員などが支部からの要請にもかかわらず、所轄する地区委員会が離党としての処理を行なわず、数年間に渡り引き続き党員としてカウントされ続けている例も多く確認されている。また、党費納入の率をあげるようにうながす文書がしばしば出されたり、選挙のときに全党員の決起をうながす文書(行動への参加、全党員の「しんぶん赤旗」日刊紙の購読の訴え)が出されるなどの事例が見られることから、40万人とされる党員のうち、すべてが積極的に党員としての活動を行っているわけではない。

日本共産党の資金源は(1)事業(機関紙)収入(2)党費(3)個人献金によって成り立っている。一般に日本の議員は資金面で党よりも自己の収入や政治献金に多く 依存し、組織的には政治家個人を推す後援会を基盤とするが、共産党の場合は資金・組織の両面で党が主柱になっている。ただし、その政治資金の大半は機関紙再発行の資金として運用している。企業・団体献金を受け取らず、政党交付金(政党助成金)を憲法違反の制度(司法判断はそうはなっていないが)だとして受け取りを唯一拒否している。ただし、近年の党員減に伴う党費収入・個人献金の減少から特に地方組織の運営に支障が生じるようになってきており、党員の間からもごくわずかではあるが政党助成金を受け取るべきではないかとの意見が出ている。

指導理論として科学的社会主義を標榜し、究極目標としての「社会主義・共産主義」を掲げている。当面は対米従属と大企業支配の打破を目標としつつ、最終的には「資本主義の枠組みを超えた社会主義」国家を達成することを目標としている。2008年現在の国会に議席をもつ党派では日本で最も歴史が長い。「合わせられた4枚の赤旗の上に稲穂歯車」がシンボルマーク

日本共産党では、公式の文書はもとより機関紙しんぶん赤旗』紙面や公式サイト等での表記は「日本共産党」とし、基本的に略称は使用しない。日本国内のマスメディアでは「共産党」との略称も用いられる。英称のJapanese Communist Partyの頭文字による“JCP”という表記もある。また「日共」や党本部ビルの最寄駅に因んで「代々木」と呼ばれることがあるが、これらの呼称は、党関係者の間では用いられない俗称。

現在の党のキャッチコピーは「いまこそ必要たしかな野党」

[編集] 綱領

日本共産党は、2004年1月13日から1月17日にかけて第23回党大会を開催し、綱領の全面的な改定を決定した。そこでの日本の現状規定は、次の通りである。「わが国は、高度に発達した資本主義国でありながら、国土軍事などの重要な部分をアメリカに握られた事実上の従属国となっている」。これを踏まえ、当面の主張として、(1)大企業(独占資本)へのさまざまな民主的規制と、軍縮や無駄な公共事業の中止を財源とした社会保障の充実。(2)対米従属を批判し、日米安全保障条約の廃棄と非同盟・中立の日本を実現する。特に軍事同盟・軍事ブロックからの離脱を目指す。(3)憲法改定を許さず民主主義の徹底を図る、という3点を挙げている。

1960年代までは、対米従属の自衛隊は解消し、対米従属解消後に改憲を視野に入れた自衛のための組織を持つという、いわゆる「中立自衛」政策をとっていたが、1994年の第20回大会で、現行の憲法9条を将来にわたっての保持を主張することを明示した。現在の同党の自衛隊政策案は、(1)軍事同盟である日米安保条約の解消前はできるかぎり軍縮し、(2)日米安保条約解消後も国民が望めば存続し、(3)国民が国際情勢などから解消しても問題ないと判断すれば自衛隊をなくす、という『段階的解消論』に立っている。22回大会では、(1)(2)の段階で万が一急迫不正の主権侵害があれば、自衛隊も活用することを正式に決定している。いわば廃止を目指しつつも国民が望めば自衛隊を存続し、必要があれば活用する、というのが同党の現在の政策案である。この政策は同じ護憲政党であっても社会民主党の「非武装平和主義」と大きく異なる点である。2007年6月に陸上自衛隊情報保全隊が収集していたイラク戦争反戦の市民団体や著名人のリストを公表している(情報保全隊の市民活動監視問題を参照されたし)。他党と比べて「専守防衛」の武力行使自体にもかなり慎重である。

複数政党と諸団体による民主連合政府を政権構想として掲げており、早期の単独政権は目指していない。

党の準綱領的な方針である『自由と民主主義の宣言』では、「3つの自由」として、(1)生存の自由、(2)市民的政治的自由、(3)民族の自由を将来に渡って堅持することを公約している。特に、(2)市民的政治的自由では、旧社会主義諸国の否定的経験も踏まえ、議会制民主主義三権分立の堅持と発展、言論・出版の自由やその他一切の表現の自由信教の自由学問の自由団結権、人身の自由、文化の自由、芸術の自由の擁護、(以上、自由自由権人権も参照のこと)と発展、また少数民族、個人生活の自由の擁護や国定哲学の否定を謳っている。天皇制に関しては戦前の絶対主義的天皇制からの現憲法での根本的転換がなされたとして、また「護憲」の立場から憲法の条文どおりの象徴天皇制を容認している。ただし、天皇制自体については現在においても「世襲制は平等に反する」「封建制の遺物」と否定的であり、政権政党となった場合、国民の合意に基づき天皇制を廃止するのが最終目標としており、また、国会開会式への天皇の出席や皇室外交についても、「憲法違反」として認めておらず、中止を主張している。

[編集] 党員

18歳以上の日本国民で、党の綱領と規約を認める人は、2人の党員の推薦を受け、支部の決定と上級機関の確認を経て、党員になることができる。入党手続きの前に「党を知る会」が開かれ、党についての説明と、意思確認が行なわれる事が多い。党員は基本的には支部に、場合によっては中央・都道府県・地区の委員会に所属して活動する。

反社会的活動に従事する者の入党を認めていない。また、警察官・自衛隊員・公安調査庁関係者は事実上入党を認めていない。

「永年党員」(党歴30年以上)、「50年党員」(党歴50年以上)の表彰制度がある。

[編集] 中央機関紙・機関誌

しんぶん赤旗編集局が入居するASビルは、党本部ビルのJR中央本線を挟んだ向かい側にある(東京都渋谷区千駄ヶ谷五丁目)

党中央委員会は中央機関紙として日刊の『しんぶん赤旗』(ブランケット判)と週刊の『しんぶん赤旗日曜版』(タブロイド判)を発行している。かつては学生党員向けの「学生新聞」も発行されていた。

前衛』、『女性のひろば』、『議会と自治体』、『月刊学習』などの月刊機関誌を発行している。これらは、中央機関紙であるしんぶん赤旗と同様に、党員や後援会員以外の人も購読する事ができる。1990年代までは、『グラフこんにちは』『世界政治-論評と資料』『理論政策』などの刊行物もあった。

[編集] 普及に協力している(いた)新聞・雑誌

同党は新日本出版社の発行する月刊『経済』の普及に協力している。同党の事務所で販売や定期購読の申し込みを受け付けている。また、日本民主青年同盟の発行する『民主青年新聞』『われら高校生』(いずれも週刊紙)の購読の仲介もしている。

かつては小中学生向けの『少年少女新聞』や雑誌としては『文化評論』『あすの農村』『労働運動』などもあったが、休刊もしくは廃刊している。

[編集] 歴史

[編集] 戦前非合法時代

同党は1922年コミンテルンの日本支部として創立された。当時は治安警察法治安維持法などの治安立法により非合法活動という形を取って行動した。

「綱領草案」(1923年)、「27年テーゼ」(1927年)、「32年テーゼ」(1932年)(いずれも、ソ連に本部があるコミンテルンからの直接指令)という3つの綱領的文書を経て、日本の支配構造を、絶対主義天皇制を主柱とし、寄生的地主制と財閥による独占資本主義という3つのブロックの結合だと規定。ブルジョア民主主義革命を通じて社会主義革命に至るとする二段階革命論の革命路線を確立した。「32年テーゼ」では、民主主義革命の主要任務を、絶対主義的天皇制の打倒、寄生的土地所有の廃止、7時間労働制として、「帝国主義戦争と警察的天皇制反対、米と土地と自由のため、労働者、農民の政府のための人民革命を中心スローガンとした(同テーゼ)。この思考はソビエト成立以前のツァーリによるロシアの絶対支配と日本の皇室制度に対して、経済的側面からの共通点を過大評価しており、一部のインテリや学生には支持を得たが広範な大衆にはなかなか浸透していかなかった経緯がある。党組織は、非合法の党本体と、合法政党や労働団体など諸団体に入って活動する合法部門の2つの柱を持ち、非合法の地下活動を展開しながら、労働農民党などの合法政党に顔を出して選挙活動を支えた。戦前の同党幹部であった野呂栄太郎らの『日本資本主義発達史講座』などの理論活動、小林多喜二宮本百合子らのプロレタリア文学活動にも多大な影響を与えた。

他方で27年テーゼ時代には、コミンテルンの方針の影響を受け、社会民主主義との闘争の強調や、ファシズムと社会民主主義を同列に置く「社会ファシズム」論を採用し、労働組合運動などに影響が生まれた。「東京市電争議における幹部暗殺計画・車庫放火事件」や「川崎メーデー武装蜂起事件」を敢行。コミンテルンからの資金が枯渇すると、資金強奪計画を練り、「赤色ギャング団」を結成。「川崎第百銀行大森支店襲撃事件」を敢行し、「中国銀行岡山本店襲撃計画」など、不法事案を引き起こした。しかしこの中には、松本清張が『昭和史発掘』などでのちに明らかにしたように、警察が潜入させた人物によって引き起こされたものもあった。それが下記のスパイ査問事件へとつながることになる。

党はくり返し政府から弾圧を受け、堺らは解党を唱え1924年にいったん解党を申し合わせ、翌年再建。さらに1928年三・一五事件1929年四・一六事件治安維持法に基づく一斉検挙を受けた。主要幹部はことごとく投獄され、佐野学らは転向するなど壊滅的打撃を受けた。残されたメンバーの中で党内のスパイを一掃する運動が盛んになった。1933年には、宮本顕治党中央委員(当時)らがスパイを取調べている最中にその人物のひとりが死んでしまい(死亡原因は諸説有り)、遺体の処理に困った党員によりアジトの地下を掘って遺体を遺棄してしまうというスパイ査問事件が起こった。特高の検挙やスパイ疑惑などにより党内の動揺はいよいよ激しくなり、ついに1935年、活動していた中央委員が検挙され、中央委員で国内で活動可能なものがいなくなり、戦前における統一的な党活動はここで頓挫した。

ただし、各地方や海外などでの少数の党員による活動が行なわれていたことは有名である(例:中国に渡った野坂参三らによる反戦活動など)。

[編集] 終戦と合法化

1945年8月15日第二次世界大戦の終戦後、共産党は徳田球一を書記長として合法政党として再建された。出獄した幹部は、釈放を喜び、はじめのうち連合国軍を「解放軍」と規定した(現在は否定している)。1946年第22回総選挙では5議席を獲得し、初めて帝国議会に議席を得た。

1945年から1950年まで、米軍による占領状態でも日本国憲法の国民主権、三権分立平和主義を必ずしも支持せず、ときにこの改定を唱えた(独自の憲法草案として、日本国憲法の制定前の時期に日本人民共和国憲法草案を発表。なお、日本国憲法制定時の採決では「天皇制の存続による民主化の不徹底」や吉田茂首相の「自衛戦争の否定」発言などを理由に反対票を投じている

連合軍に解放された日本共産党は、急激にその勢力を増していった。各地域や職場・学校では党員による細胞(現在の「支部」)が組織され、学生運動労働運動を活発に展開した。1947年には、階級闘争の高揚の中で「吉田内閣打倒」を掲げる二・一ゼネストと呼ばれる大規模なゼネラル・ストライキが計画されていたが、前日のマッカーサーの中止命令を受け全官公庁共同闘争委員会の伊井弥四郎議長が同日夜、アメリカ兵に拳銃を突きつけられながらゼネスト中止指令をラジオ放送を通じて発し、これによって二・一ストは敗北し、戦後の労働運動の大きなつまずきとなった。

その後も国民の生活困窮を背景に党勢を拡大し、片山芦田内閣の迷走で社会党に失望した有権者層の一部を吸収したために、1949年第24回総選挙では35議席を獲得した。

[編集] 分裂と武装闘争路線

しかし1950年に、占領軍によるレッドパージと共産党国際情報局(コミンフォルム)からの干渉が重なり、党は徳田ら主流派(所感派)、宮本顕治国際派、春日庄次郎、野田弥三郎ら日本共産党国際主義者団、福本和夫ら統一協議会、中西功ら団結派など大小数派に分裂した。

書記長の徳田ら(当時の党の主流派)は、強引な方法で党の中央委員の再編を強行し、後に「軍事方針」と呼ばれる武装闘争路線を策定した。ちょうどこのころ、朝鮮半島北朝鮮軍による武力南進(朝鮮戦争)が勃発し、アジアの共産化を理想としていたスターリンや革命直後の中国の毛沢東などは、当時日本共産党の野坂参三が提唱していた占領下でも民主的変革は可能だとする平和革命論の誤りと、武装闘争の指示を暗に打診してきたとされている。朝鮮戦争で武力南進してきた北朝鮮の支援と、米軍の温床地帯であった日本の後方攪乱とをコミンフォルムが打診したという意見がある。1951年10月の第5回全国協議会(5全協)では、「農村部でのゲリラ戦」を規定した新たな方針「日本共産党の当面の要求」「武装行動綱領」を採択し、「山村工作隊」「中核自衛隊」などの武装組織を建設し、武器製造法を記載した「栄養分析法」等を発刊。全国各地で火焔瓶闘争や騒擾事件などを引き起こし、治安を乱した。1952年、政府はこれら武装闘争を取り締まるためとして、破壊活動防止法(破防法)を制定した。日本共産党は同法の調査対象団体に指定された。6全協とその後の総括・宮本路線などのソフトイメージで武闘路線を放棄したと言われている現在も、敵の出方論を主張しているという理由から公安警察公安調査庁により、調査及び捜査活動が現在も続けられている。そのため共産党幹部の緒方靖夫宅の電話を盗聴した日本共産党幹部宅盗聴事件など、明るみに出ただけでも複数の非合法な手段を用いて調査活動をしており党はその不当性を訴えているが、『警察白書』では、2008年現在も共産党を調査対象団体とし、数ページを割いて動静を追跡している。警察学校での「初任科教養」においても、党の綱領や決定について、きわめて批判的な講義がなされている。一方、破壊活動防止法に基づく調査活動を行っている公安調査庁では、現在では建前上はともかく実際にはほとんど相手にしておらず、ほぼ公然情報の整理と分析に留まっている。時々スパイ工作が発覚し、党組織や日本国民救援会などの人権団体を通じて抗議活動が行なわれている。共産党は破防法を成立時から強く批判し、法曹・法学界でも破防法そのものが憲法違反であるとの意見が多数ある。

徳田を中心とした所感派の主導した武装闘争路線は到底、国民の支持を得られた出来事ではなく、それと同時に離党者を生む不幸な結果となった。1952年に行われた第25回総選挙では公認候補が全員落選するなど、著しい党勢の衰退を招くことになっていった。

1955年、現実を無視した武装闘争路線は破綻し、党の再統一と改革を模索せざるをえなくなった。後に共産党の公式見解上ではこのことを契機に自分自身の力によって中ソなどの大国の干渉を払拭して自主独立の路線を確立するに至ったとされている。さらに徳田に統率された主流派も書記長である徳田が亡命先の北京で客死したことや、その後の指導権争いなど一連の騒動で疲弊しており、国内にいた宮本らの国際派と合流せざるを得ない状態になったとしている。

その後開催された党の第6回全国協議会(6全協)および1958年の第7回党大会で党の団結と統一を果たすに至ったがそこに達するまでは相当の紆余曲折があった。後に選挙において得票率は徐徐に回復してきたが、インテリに対しての大きな威信と指導力を取り戻すことはなかなかできなかった。宮本顕治が書記長(のちに、委員長・議長)に就任後はいわゆる宮本体制を整えていったが、自主独立といわれる路線を構築する要因となったきっかけは、フルシチョフ修正主義を批判したことと、友党関係を築いていた当時の中国共産党とでの文化大革命による干渉がおき、以降はソ連共産党と中国共産党から離反し、外部の意向に拠らず独自に活動を展開することになる。これを契機に不破哲三上田耕一郎といった改革派を次々と党の中央の要職に抜擢し「自由と民主主義の宣言」や「宗教についての日本共産党の見解と態度」(宗教決議)を打ち出したり、マルクス・レーニン主義を科学的社会主義、プロレタリア独裁の放棄など名称の変更や改訂を行ったり当時ヨーロッパで提唱されていたユーロコミュニズムの主張と類似するような動きを開始した。これは国際共産主義の動向・意向に敏感に従っていたそれまでの党のあり方と異なる点で、以後の日本共産党の特徴になった。

なお、大武礼一郎ら所感派の一部は合流せず、日本共産党 (行動派)(現・日本人民戦線)を結成した。

[編集] 内部分派と分党

合法活動路線への転換や1956年のスターリン批判を経て、元党員のトロツキー主義者らは日本トロツキスト聯盟(後の革命的共産主義者同盟)を結成、全日本学生自治会総連合の一部活動家らは共産主義者同盟を結成した。1960年安保闘争では穏健路線を取り、強硬な運動を主張する全学連と激しく対立。共産党は彼らをまとめて「トロツキスト」と非難した(必ずしも批判された側すべてが「トロツキー」主義者であったわけではない)。

1961年には綱領草案を巡る論争の中から日本独占資本を主敵とし、当面する革命を社会主義革命とする「一つの敵」論を主張する春日庄次郎、山田六左衛門ら構造改革派が離脱し共産主義労働者党を結成。1964年には中・ソ対立の中で党の中国共産党寄り路線に反対するとし、国会での部分的核実験停止条約批准に賛成票を投じた衆議院議員の志賀義雄や、同じく同条約批准に賛成の意向を示した参議院議員の鈴木市蔵ら親ソ連派が除名され、「日本共産党 (日本のこえ)」を結成。文化人では、中野重治野間宏らがこの時離反している。

1966年 - 1967年には日中共産党の関係が悪化し、日本共産党の自主独立路線に反発するという名目で西沢隆二、安斎庫治、原田長司、大隈鉄二、福田正義ら親中共派が離脱、「日本労働党」、「日本共産党 (左派)」、「日本共産党革命左派神奈川県委員会」、「日本共産党 (マルクス・レーニン主義)」(後の労働者共産党)、「日本共産党 (解放戦線)」などを結成した。合法闘争路線への転換以後のこれらの党内闘争は総じて、コミンテルン支部時代に掲げていたプロレタリア国際主義理念などを錦の御旗として掲げていたものの、実質的には武装闘争路線への回帰や外国の党の指導を受け入れることを路線として掲げていたもので、とりわけ中国からの日本共産党内部への干渉、多数派工作とその破綻と見ることができる。 1968年プラハの春に際して、党中央はソ連共産党を明確に批判したのだったが、一部の党組織には、ソ連とワルシャワ条約機構軍を擁護する文書が密やかに流された。つまりは、まだ隠れたソ連派が党内に潜伏していた証拠であった。野坂参三はソ連内通者としてずっと後に除名される。

その後武装闘争路線や外国政権党の介入ではないものの、1972年には日本民主青年同盟幹部らの内のいわゆる「新日和見主義」派が摘発され、1970年代後半から1990年代前半に掛けて田口富久治名古屋大学教授などのネオ・マルクス主義学者党員が除籍された。自党からの分派を含め、共産党は新左翼共産同・ブント革共同中核派革共同革マル派革労協社会主義労働者党(社労党)などの政治団体・運動を1980年頃までは「トロツキスト暴力集団」、それ以降は「ニセ「左翼」暴力集団」と呼んで非難し、政治などの問題で共闘を拒絶し、排斥した。(党派闘争参照)

前述のように、高揚した学生運動の中で、民主青年同盟の学生対策のグループ、全学連グループ、ジャパンプレスグループ、平和運動グループの中に、大衆運動主義とでも言いうる「新日和見主義」が発生したと党中央は非難した。しかし、それは、議会主義への傾斜を確実ならしめるための組織的な予防措置とみなしうるものであった。こうして、川上徹・高野孟・山川暁夫などが処分され、全学連の早乙女・松尾なども第一線から身を引くことを余儀なくされた。「新日和見主義」なる分派は実際には組織だって結成されていたわけではなかった(新日和見主義事件)。

以上に見られる内部対立と分裂は、党内の求心力をむしろ高め、選挙での党勢にはほとんど影響を与えなかった。また、分派の徹底的排斥は共産党といわゆる過激派を峻別する効果があった。共産党側は、元共産党の「分派」の多くは外国からの日本への内政干渉の結果であったとしている。

スターリン支配のコミンテルンから戦後のコミンフォルム、そしてコミンンフォルム解散後もソ連共産党が各国の共産党を金銭的援助とともに「指導」する傾向が続いた。しかし、共産主義政党がそれぞれの国に根付いていく過程で、とりわけアジア諸国の共産党はソ連(あるいは中国)との対立から「自主独立」を掲げる傾向を強くした。日本共産党と大国の共産党の相克も、そうした中で生じたものであった。

こうして、集団的に排除された、あるいは分裂した「分派」グループは、今日独自の力学と理論で運動を展開している。これらのグループは日本共産党との思想的・運動的な一致点はもはやなく、集団的に「復党」を求める動きもない。もっとも90年代以降、日米安保新ガイドライン改定反対、有事法制反対、憲法改定反対などの運動で、両者が集会をともにする機会は増えている。

[編集] 55年体制下

前述のように1955年頃から宮本顕治が事実上の指導者になり、1960年代半ばには党の指導者と実務面の指導者を二重にして継承する体制を確立、不破哲三に実務面を継承させた(宮本議長、不破委員長体制)。これは事実上宮本による完全独裁体制とも言え、これにより一枚岩体制が確立し、戦前から問題であった内部抗争や金銭的腐敗を一掃し、「クリーンな党のイメージ」の確立に成功する。合法路線復帰以後は党勢を拡大し、1960年第29回総選挙からは、原則として全選挙区に公認候補を擁立するようになった。その後1970年代初めまで得票率を伸ばし続け、いったん落ち込んだものの1979年10月7日投開票の第35回総選挙では最高の41議席を得た。その後は自民党や産経新聞を中心とする「自由社会を守れ」キャンペーンの影響で落ち込む。この当時、小説吉田学校を書いた戸川猪佐武が、「小説自民党対共産党」という本を出している。

日本社会党と日本共産党は、日本政治の中では革新陣営に属し、中道の民社党公明党をはさんで保守自由民主党に対峙する位置にあった。55年体制の成立以来、政権は一貫して自民党の手にあり、社共共闘、あるいは全野党共闘により政権交代を樹立するというのが当初の社共の方針であった。しかし社会党内部には社共の協力より社公民の協力を重視すべきだという意見があり、これがしだいに力を持った。民公、特に強い反共主義姿勢を持つ民社の側(特に春日一幸)からの、共産排除要求もあった。さらに、後述する日本共産党と部落解放同盟との対立が、解放同盟を有力な支持基盤とした社会党との関係にも悪影響を及ぼした。

1979年4月東京都知事選挙で革新統一候補の太田薫総評議長が敗れると、社会党は公明党との関係強化(1980年1月にいわゆる〈社公合意〉を締結した)による右傾化を進め社共共闘は瓦解した(社会党側からは「共闘を通じて社会党員・支持者が共産党に流れてゆき、票と議席が減っていったことに不信感を感じた」とも言われている)。1980年代には、「共産党を除く国会対策委員長会談」が常態化して、共産党の排除が進んだ。

日本共産党は1960年代から、国政選挙では当選の可能性を度外視して全ての選挙区で候補を擁立する戦術を取っていた。社共共闘の破綻後は、地方選挙でも独自候補を積極的に擁立し、全国で少数派としての存在を示した。この戦術は、当選者が複数の中選挙区制では有効であった。しかし、定数1(小選挙区制)の選挙区では自民党と競り合う社会党の票を奪うことで、しばしば自民党候補の過半数以下での当選という結果をもたらした。自民党の長期一党支配が続く中、共産党の独自擁立も結果として自民党政権継続に有利に作用する要素として取り込まれていったと見られることもある。その一方、地方の首長選挙で自民党と社会党が同調して、日本共産党以外全政党相乗りの候補が出現するようになると、「日本共産党の存在によって選択肢が確保され」ているとして「オール与党」批判の宣伝を行うようになった。ただ、滋賀県武村正義神奈川県長洲一二世田谷区の大場啓二など日本共産党相乗り候補も一部に存在した。それについては「革新首長に自民党が同調し、乗っ取っていく過程に生じた一時期のものであり、次の出馬の際には共産党は排除されていった」としている。事実、共産党を含む相乗りは長続きせず、後に相乗り候補vs共産党候補という構図が出来上がっている。

[編集] 創共協定

公明党の母体である創価学会とは、1974年12月28日松本清張の仲介で相互不可侵・共存を約した協定を10年間の約束で結んだ。創共協定(共創協定)と呼ばれる。しかし、自民党との関係悪化を恐れた公明党の抵抗もあり、協定は翌年の公表とほぼ同時に死文化。1980年、創価学会による宮本顕治宅盗聴事件が発覚すると、両者の対立は決定的となり、協定の更新は行われなかった。

[編集] 部落解放同盟との対立

部落問題も参照

ほかに目立ったのが部落解放同盟との対立である。解放同盟は元々、共産党の影響力が強く、1960年代前半までは両者は友好的な関係にあったが、1965年10月8日、内閣同和対策審議会答申が出されたことが大きな転換点となった。社会党員など同盟内の他の潮流は、部落差別の存在を認め、「その早急な解決こそ、国の責務であり、同時に国民的課題である」と明記した答申の内容をおおむね肯定的に評価し、同対審答申完全実施要求国民運動を提起することで一致したのに対し、共産党や同党員である解放同盟の活動家はこの答申を「毒饅頭」と批判した。その結果、同盟内で急速に支持を失い、同年の第20回大会では、共産党系代議員の提出した修正案は否決、同対審答申完全実施要求国民運動の展開を骨子とした運動方針が採択され、役員選挙では共産党員である中央執行委員のほとんどが解任された。共産党はこの動きを「一部反党修正主義者、右翼社会民主主義者の幹部」による策動として強く非難した。大会以後間もなく、京都府連の分裂が表面化、その余波で、府連書記局が設置されていた文化厚生会館の帰属をめぐり解放同盟京都府連と部落問題研究所との間で紛争が発生した(文化厚生会館事件)。さらに同和対策事業特別措置法制定が急ピッチで進んでいた1969年2月、党農民漁民部編『今日の部落問題』を刊行し、その中で解放同盟指導部を「改良主義的、融和主義的偏向から自民党政府と安上がりの時限立法による特別措置で妥協した」と批判。同盟中央は抗議の意志を示すため、同書刊行直後に開かれた全国大会に来賓として出席した共産党議員を紹介だけにとどめ、祝辞を読ませないとする対抗措置がとられるなど、さらに関係は悪化した。同年大阪で起きた「矢田教育事件」では、当時の解放同盟や教職員組合、地方行政が取り組んでいた越境入学問題に消極的だった共産党員教員が、大阪府連矢田支部による糾弾の対象となり、刑事事件に進展。共産党は、党組織を上げて解放同盟と対決する姿勢を明確にし、両者の対立は決定的なものになった。同盟中央は、共産党に呼応する動きを見せた同盟員に対して除名・無期限権利停止などの処分で対抗した。こうして、1970年には部落解放同盟正常化全国連絡会議(のちの全国部落解放運動連合会)が発足した。共産党やその支持者たちはこの経緯について「本来、部落差別にたいして、大同団結して活動をすすめるべき部落解放運動に暴力や利権、組織分断を持ち込み、路線対立から親戚や親子関係の分断をはじめとした地域の人びとを二分する大きな誤りを持ち込む結果となった」と主張している。その頂点としていわれる事件が、1974年の八鹿高校における、集団暴行事件の発生であった。

現在でも共産党・解放同盟両者の関係はきわめて険悪であるが、一部の自治体では、地域の街づくり会議などで、互いの陣営が同席することも見られるようになった。これらは、地域の過疎化や世代交代によって、それぞれの勢力が減少傾向にあることや、部落差別の早期解消に向けて、一致点での共同を進めようとする努力の結果だともいえる。しかし、政治戦においては、支持政党の違いによる軋轢は今なお残り、特定の選挙で野党共闘が成立した場合、結果的に同一の候補を支援することもあるが、一定の距離を保ちつつ、互いに独自の支援活動をすることが多いのが現状である。

[編集] ソ連崩壊後と現在

1991年8月のクーデターソ連共産党の解散に際しては、ソ連共産党の解散を「もろ手を上げて歓迎する」という宮本顕治の発言が発表された(8月31日毎日新聞によるインタビューでの発言)。この発言の翌日、常任幹部会はこの宮本発言を受けて「大国主義・覇権主義の歴史的巨悪の党の終焉を歓迎する――ソ連共産党の解体にさいして」という声明を発表した。その一方、ソ連東欧諸国の脱社会主義への動きを「歴史の逆行」とも評しており、その整合性に疑問の声も上がった。しかし政府与党や社会党を含む他の野党、マスコミなどにより「体制選択論」「冷戦終結論」「保革対立消滅論」が大々的に宣伝され、解党のみならず党員の所属する労組・団体の解体、全ての政治・社会運動からの撤退などの要求を突きつけられるなど、その後の選挙では苦戦を強いられた。

戦後60年間小政党の域に留まっており、政権を担当したことはないが、ソ連崩壊後、世界で多くの共産党が改名または解散する中で、共産党の名と議会勢力をともに維持している。1990年代後半には日本社会党からの離反層を取り込み、集合離散の続いた他党候補者の濫立も有利に作用して衆議院で一時的に勢力を回復し、1998年の参議院選挙では、15議席を獲得し、非改選議員とあわせて予算を伴う法案の提出権を初めて獲得した。しかし、その後は小選挙区制の定着による二大政党制指向の強まりや総議員数の削減、昨今の日本周辺の国際情勢も相まって国会の議席が後退した。『しんぶん赤旗』の発行部数も、ピーク時の半分ほどにまで減少している。また、当選人数が1人であり大政党に有利な傾向の強い小選挙区制では共産党候補の当選はきわめて難しいものとなっている。1996年第41回総選挙では、小選挙区でも2議席を獲得したが、それ以降、小選挙区での当選はない。

2000年の7中総では、党規約から「前衛党」規定が削除された。また、同年不破哲三に代わり志位和夫が委員長となり、不破は宮本に代わり議長となった。この不破・志位体制の成立により、宮本の影響力は低下した。2006年1月11日-1月14日に執り行われた第24回党大会で、所謂「現実・柔軟路線」を指導してきた不破哲三が、議長職を高齢と健康などを理由に退き、「志位委員長・市田書記局長体制」が確立した。

共産党の全選挙区擁立戦術は、与党である自民党公明党の選挙協力体制が緊密化するにつれて、結果的に野党間の候補共倒れ、連立与党候補の過半数に満たない得票率での当選という結果を激増させた。また、共産党候補の供託金没収選挙区も大幅に増え、党の財政を圧迫する要因となった(このため党内でも政党として政党交付金を受け取るべきであるとの意見が党大会前の公開討論の中でも主張されるようになっている)。この間、日本社会党・新進党に代わり民主党が野党第一党となった。

2004年第20回参議院議員選挙2005年第44回衆議院議員総選挙では、選挙区での当選者を出すことができなかった。また、第44回総選挙では47年ぶりに全選挙区擁立(推薦を含む)を中止したため、25選挙区の共産空白区が出てきた。しかし、共産空白区では与党候補と野党候補が大差の付く選挙区が多く、選挙への影響は小さかった。共産党の小選挙区候補者全275名のうち、223名が10%の得票に届かず供託金を没収された。全300選挙区に候補者を立て235選挙区で没収された前回とさほど変わらない結果だった。共産党自身については、得票数の減少に歯止めがかかった。しかし、投票率が上がったため得票率は下がっている。2006年の国政選挙では、4月と10月に計三選挙区で行われた衆議院議員補欠選挙で、いずれも独自の公認候補を擁立したが、すべての選挙区で落選、供託金も没収されている。また、2007年4月に行われた参議院議員補欠選挙では、福島県選挙区で公認候補を、沖縄県選挙区では、民主党や社民党などと共同推薦候補を擁立したが、いずれも落選、福島県では供託金を没収されている。<ref>共産党は公明党ほどではないが、浮動票の影響を受けにくいため、投票率が下がるほど得票率は上がると言われている。ただし無党派層に限定すれば3割程度得票しているため一概には言えない。例えば、1996年~1998年の躍進は、左派系の浮動票の受け皿になったものとの指摘もある。</ref>。

国政選挙で単独での小選挙区当選は難しい現状にあるが、保守政党色の強い野党第一党の民主党はもとより、社会党の後身である社会民主党との選挙協力の目処も現時点では立っていない。<ref>ただし、憲法問題などの個別の分野では、他党との協力・共同が行われている場合もある。また、地方選挙については市町村長選や地方議員選挙で現在も1人区での当選があり、高知やかつての長野など、無所属候補と連携しながらも政党としては単独与党の県もある。</ref>最近の市町村合併にともなう各地の地方選挙でも、着実に当選者を出し、政党所属の地方議員の総数では第1党の位置を保っている。また他党との協力については東京都多摩地区や青森沖縄などで一定の野党共闘が実現している。

共産党は与党第一党の自民党とはもちろん他の野党とも、特に国政に於いては政策的距離は無視できないほど大きいため支持者にとって選挙のたびに選択に苦慮することになり、野党間の共闘が成立しにくい。小選挙区制の性質上、現在の共産党の戦術が野党に極めて不利に働くことも事実である。得票総数では与党(自民・公明)を上回りながら、野党候補が落選するという事態が多発し、批判票が分散する事態となっている。そのため、政策的に遠い民主党とはともかく、社共共闘の復活への待望論は少なからずある。

支持者の一部には「当選の可能性がない以上、選挙区では民主党候補に投票する」動きが一定数出ていることに対する警戒感は選挙の度に機関紙上で強調されている。その一方、共産主義の固守を願う支持者や党員の一部からは、すでに政策転換が過ぎるという批判もある。また、自衛隊の軍備について批判を行なっているが、その内容(90式戦車イージス艦等について、「対ソ連に対する軍備強化とムダ使い」と批判)に対する反発もあるとの主張もある。[1]

「共産党に意見表明の機会を与えることはフェアネスではない」との発言が出た椿事件以降、マスコミ報道が共産党の動向について取り上げる機会は減ってきている。大きな選挙で候補を立ててもほとんど取り上げられず、政策提言や意見表明は機関紙などの自前メディアや街頭演説、ビラ配布など、自前の活動で届けることが大きな手段となっている。

[編集] 革新懇運動

「社公合意」など日本社会党が右傾化していく状況の中で、日本共産党は「軍事費を削って福祉にまわせ」「非核の一点で結集を」などと呼びかけ、政党の組み合わせによる「革新共闘」を模索するのではなく、「思想・信条、政党支持の違いを超えた国民多数の革新的な運動の結集」により、新たな革新戦線を全国的に追求する「革新懇話会=革新懇運動」をすすめた。だがこれも、社会党と共産党との間で揺れ動く革新浮動層を共産党に取り込むための方便と見られることも多く、成瀬昇(元愛知県評議長)、西岡瑠璃子(元参議院議員・歌人)、栗原透(元社会党高知県委員長)、矢山有作(元衆議院議員)ら元社会党員も多数参加しているにもかかわらず、愛知県高知県などを除いて現在まで余り大きな成果は得られていない。

革新懇は全国組織の「全国革新懇」、都道府県や市区町村、学区などの単位で結成されている「地域革新懇」、職場ごとの「職場革新懇」など、様々な単位で結成され、活動している。

[編集] 小選挙区制下に於ける共産党と野党間の関係

上述されているように、小選挙区でも独自候補を立て続ける共産党の姿勢は、野党候補の共倒れ続発を招いている。共産党は、与党へは勿論、「左派市民派・リベラル系」と言われる候補に対しても独自候補をぶつけることが多い。そのため、一部から「利敵行為」だという批判がある。

共産党は現在の政党に共闘可能な政党は見あたらないとしている。この方針は他党との政策的な違いと共に、主に二つの理由も挙げられる。(1)『社会党部落解放同盟新左翼との長年の確執が背景にある』という歴史的・外部的な要因。そして(2)『共産党自体の組織を防衛・伸張させるために独自候補を擁立する必要性があるという』内部的な要因である。こうした態度が時にオール与党体制に加わる旧社会党や民主党、部落解放同盟、新左翼などから「独善的体質」「セクト主義」として非難されており、また新聞紙上でもそういったイメージで取り上げられることがしばしばある(主な物として山口二郎天木直人筆坂秀世などの論、日刊ゲンダイの記事など)。

2006年1月23日に市田書記局長と社民党の又市征治幹事長が会談し、平和憲法維持を目指すべく関係改善し共闘を示唆する報道がされた。しかし、5月20日には「平和共同候補」(護憲派の統一候補)擁立運動を「新社会党の手先の役割を果たしている」として、痛烈に批判した(参院選での「平和共同候補」を求める運動について)。さらに、2007年5月1日号「しんぶん赤旗」では、擁立運動の確認団体9条ネット」と新社会党や部落解放同盟との関係を重ねて強調し、全否定する見解を載せた(「9条ネット」とは どんな団体ですか?)。このように、現実の問題として共産党側が頑なな態度を示す例が多いのも、そういったイメージが先行する大きな理由となっている。

しかし、同様に他の野党も、共産党との連携に極めて消極的な事が多い。

1990年の総選挙の際には、定数3で共産党議員が長く議席を保持してきた選挙区に、当時の社会党が新人候補を立てたケース(東京9区や和歌山1区など)、現在の民主党が定数1の沖縄県議補欠選挙で泡沫候補を立てて野党票を割り革新系無所属候補の当選を「阻害」したケースも見受けられる。前者は自党の議席獲得を狙ったものとも言えるが(当時の社会党は長期低落傾向にあった。そのため土井ブームによる復調は千載一遇の好機と見ていた)、後者のケースは、まさにここで問題とされている「共産党的行動パターン」を、他の野党が行った事例といえよう。

2004年には、参議院大阪選挙区で、当時辞職中の辻元清美を共同候補にするために、現職議員の宮本岳志に引退を「強要」しようとしたケースもあった(宮本岳志の項目参照)。また、他党が共産党候補の支持を表明したのは、保坂展人狛江市矢野裕を応援した例、新社会党沖縄社会大衆党などによる推薦など、かなり限られる。ちなみに、共産党員である中里長門陸前高田市長は、「反小沢一郎」を掲げる自民党岩手県連の支援をうけていた。共産党の候補を自民党が応援し、民主党と対決したのは全国でもここだけである。このように地方の市町村では、民主党よりもむしろコミュニタリアン志向の一部の自民党員との間で共闘関係になる場合もある。例えば、京都府城陽市でも、大西忠前市長を自民党京都府連と共産党が支えるという構図になっていた。自民党市議団と民主党は対立候補を支援)。

また、2006年の沖縄県知事選では、糸数慶子を推すことで、主要選挙では稀な事実上の国政全野党共闘が成立した。しかし民主党内部では長島昭久を始めとして「共産と手を組んでいる」候補への批判が公然と行われ、与党側も「共産と手を組んだ民主」など他の野党への攻撃材料にした。結果は与党推薦の仲井眞弘多に敗れた。このように、与党側を中心とした「共産と手を組むことが悪なのは自明」論<ref>たとえば、2007年4月22日に投開票が行われた長崎市長選で、選挙中に現職の伊藤一長候補が殺害された事件があった。結果、補充立候補した田上富久が当選したが、この選挙には共産党も候補を立てていた。自民党の久間章生防衛相は、補充立候補の期限が投票の3日前(町村長・議選は2日前)であることについて、伊藤が重体にあった4月17日に「3日前を過ぎたら補充が利かない。法律の欠陥が如実に出ている。(候補者を多く擁立する)共産党の候補者が当選してしまう(可能性がある)」と主張した(『讀賣新聞4月19日号「期限付き補充立候補、選挙直前できず…公選法の不備が浮上」)。つまり、もし伊藤が4月20日以降に死去すれば、伊藤に次ぐ得票が予想された共産党候補が勝ってしまうという意味である(伊藤は4月18日に死去したため、補充立候補が行われた)。伊藤の死を前提に語った無神経さであっても共産党が相手なら、マスコミもそれを怪しまない現状がある。</ref>の影響力は大きく、他の野党は与党やマスコミに共産との協力を批判されると、容易に動揺してしまう。

同年の東京都知事選では、市民団体などが擁立し、民主・社民が乗る形を取った浅野史郎に対しては、共産党は先に推薦を決めていた吉田万三がいるにもかかわらず〈他の人物を応援しろ〉と正式な申し入れもないままに一方的に求められたことに反発。共産党は現職の石原慎太郎を批判しており、浅野を推す市民団体も「反石原」での吉田おろしを望んだのだが、志位和夫は「(浅野と)石原都政はうり二つ」(2007年3月13日(火)「しんぶん赤旗」 日本共産党躍進の 流れを首都・東京から 明治公園での志位委員長の訴えから)と断言しこれを拒否した。民主党が都議会において「オール与党」体制の一翼を占め、学校の卒業式での国旗国歌の義務化を議会で最初に要請したのが民主党議員であったこともその理由であった(ただし、民主が共産との共闘を嫌がった発言をしたという説もある)。選挙は石原が大勝した。

以上の例を見る限りにおいて、与野党を問わず共産党を囲む政治的状況は、現在も厳しい。特に民主・社民との対立は、殆ど解消不能とも思える状態である。民主・社民との対立は、単に上記にあるような権力闘争の歴史的遺恨というだけでなく、日本共産党が過去に特に労働運動の分野で社会民主主義労使協調路線や御用組合に対して痛烈な批判を行ったこと、現在も社民主義や「第三の道」路線に対して決して友好的な態度を取ってはいないことも背景にある。共産党の国会での議席が漸減しており、特に院内交渉団体から外れてからは国会内での発言力も弱くなってきている。

[編集] 現在の執行体制

[編集] 中央委員会

中央委員 130 人 准中央委員 14 人 [2]

中央委員会は、最高機関である党大会に次ぐ機関であり、全党を指導し対外的に党を代表する機関であるが、中央委員会総会は規約では年2回以上の開催という規定であるので、日常的には中央委員会常任幹部会が最高指導機関である。日本共産党規約に役職としての最高職の明文規定は無いが、中央委員会議長、中央委員会幹部会委員長、中央委員会書記局長が党三役である。

中央委員会議長: 空席
中央委員会幹部会委員長: 志位和夫
中央委員会幹部会副委員長: 石井郁子緒方靖夫、浜野忠夫
中央委員会常任幹部会 (不破哲三、志位和夫、市田忠義、緒方靖夫、小池晃穀田恵二、石井郁子、和泉重行、岩井鐵也、上田均、浦田宣昭、太田善作、大幡基夫、奥原紀晴、中井作太郎、西口光、浜野忠夫、