新宿
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新宿(しんじゅく)は、東京の新宿駅(東京都新宿区新宿三丁目・西新宿一丁目)を中心とする地域の名称。新宿地区。本項ではこの地域について詳述する。このほか、この新宿地区に関連した以下の自治体や町名を意味することもある。
- 東京都に23存在する特別区のひとつ、新宿区(しんじゅくく)。1947年、四谷区・牛込区・淀橋区の合併により誕生した統合区の名称。(→新宿区の項を参照。)
- 東京に1920年まで存在した自治体、豊多摩郡内藤新宿町(ないとうしんじゅくまち)。1920年に当時の東京市四谷区に編入される。(→内藤新宿町の項を参照。)
- 新宿区内に現在存在する町名、新宿一~七丁目。1973年~1978年の住居表示実施により誕生。(→新宿#行政区画・町名の変遷の項目を参照。)
- 四谷区(のち新宿区)内の地番表示の町名、新宿一~四丁目。古くは上記内藤新宿町内の大字に基づく。上記の住居表示実施に伴い(形式的には)消滅。(同名の町名が住居表示実施により誕生し、またその範囲に重複が見られるため、実質的には範囲が変動しただけで存続していると見ることもできる。→新宿#行政区画・町名の変遷の項目を参照。)
新宿(しんじゅく)は、東京の新宿駅を中心とする地区。東京のみならず日本を代表する繁華街・オフィス街である。東京の副都心の一つであり、西新宿に東京都庁が移転してきてからは西新宿をさして特に「新都心」とも呼ぶこともある。地理的な範囲は東京都新宿区の南西部にあたる(街並みは隣接する渋谷区にも連なる)。その名称はかつての甲州街道の宿場町・内藤新宿(ないとうしんじゅく)に由来している。
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[編集] 地名の由来
江戸時代、甲州街道は起点である日本橋から最初の宿駅である高井戸まで4里(約16km)という距離であり、起点と宿場までの間が長いため多くの旅人が難儀していた。
そこで1698年、この地に新しい宿駅が設けられた。当時の信州高遠藩主であった内藤氏の中屋敷があったため、内藤新宿と称したことに起因している。この中屋敷跡が現在の新宿御苑であり、御苑のある地名も「内藤町」となっている。
[編集] 地理
新宿駅東側の歓楽街については歌舞伎町、新宿駅西側にある高層ビル街などについては西新宿、新宿二丁目の歓楽街については新宿二丁目も参照のこと
一日に346万人が利用する新宿駅(JRだけで151万人で日本第1位、各社総合では347万人に及び、利用者数は世界第1位。因みに新宿駅の利用者数が日本一になったのは1931年のことである)を中心とする繁華街で、周辺駅も合わせた繁華街の駅乗降客数は400万人、繁華街の集客人員は164万人とも言われ、昼夜人波が途絶えることはない。デパート販売額や商品販売額でも、日本で初めて1兆円を超えるなど、日本で最も多くの人が利用する繁華街のひとつである。繁華街として一般に新宿と称される範囲は、地名としては概ね新宿区新宿、西新宿、歌舞伎町である。
[編集] 新宿駅東側
新宿駅の東側は老舗デパートや専門店・飲食店などが密集し、昼夜を問わず人の波が途絶えることはなく、日本有数の繁華街となっている。駅東口近くにあるスタジオアルタや交番は、新宿でも屈指の待ち合わせ場所となっているが、特に夕方の終業時間になると著しく混雑する。近くには公開中の映画看板が随時掲示されているほか、三丁目の方には新宿末廣亭という寄席もある。
なお、新宿の繁華街の東端には、新宿御苑があり、四季折々の草花を楽しむことができる庭園として親しまれている。
[編集] 新宿駅西側
新宿駅の西側は、1950年代までは西口には十二社池(じゅうにそういけ)といった大きな池もあり、戦前までは東京近郊の行楽地であった。そうしたことも関連し、1960年代までは東側に比べ寂れていた。しかし、このころ千代田区周辺の東京都心部に機能が集中していることが課題となり、新宿西口が副都心として位置づけられた。
1965年には西口にあった淀橋浄水場が東村山市に移転し、その跡地に1971年の京王プラザホテルを皮切りに超高層ビルが次々と建設され、新宿副都心と呼称されるようになった。また東京都庁が1991年に有楽町からこの地に移転し、都心部に次ぐ商業集積地となった(この都庁移転以降、新都心と呼称されることもある)。高層ビル近辺では新宿中央公園も有名である。
駅に隣接する大型カメラ店や私鉄デパートなどの存在も欠かすこともできない。西口の小田急デパート付近には、易者や詩人など個人で活動する人も多い。界隈は常に人波が絶えないことが彼らの活動場所として好まれている。
なお、西口のやや北寄りには、太平洋戦争後すぐに形成された闇市を起源とする思い出横丁が存在する。ここには「赤ちょうちん」と呼ばれる小規模な居酒屋が密集し、変化の著しい新宿の町並みのなかでも戦災復興や昭和の時代の臭いを残している。そのすぐ北にはJR線の高架橋、通称・大ガードがあり、下を走る青梅街道、靖国通りと交差する大ガード交差点となり、夜間はタクシーによって渋滞を招いている。
[編集] 新宿駅北側
新宿駅の北側、歌舞伎町方面は飲食店やホテルが軒を連ねて巨大な歓楽街を形成している。いわゆる新宿ゴールデン街も歌舞伎町の中にある。西武新宿駅が至近である。一方、線路の西側は、中古レコード店やライブハウスなどがあるが、他の地域に比べればあまり人の往来は多くない。
[編集] 新宿駅南側
新宿駅の南側には、近年の再開発により、超高層ビルや大型デパートなどが誕生。新宿タカシマヤから駅構内に直結するペデストリアンデッキ(歩道橋)が整備され、新たな人の流れを生み出している。駅南口もまた、待ち合わせの人などで大変な混雑である。吉本興業の芸人らが出演する劇場「ルミネtheよしもと」がある。なお、タカシマヤを含む甲州街道の南側は、一部を除き渋谷区に属する。
なお、京王デパートと小田急デパートの間には「モザイク通り」という小道があり、様々な店舗が軒を連ねている。西口から南口側へ抜けるにはここを通ると便利である。
[編集] その他の周辺地域
町並みは渋谷区代々木、千駄ヶ谷辺りにも連なっている。また、近隣の中野坂上、初台などの開発も新宿の発展と連動しているといえるだろう。
[編集] 歴史
新宿における遊郭や赤線地帯の歴史については新宿二丁目を、戦後形成された歓楽街については歌舞伎町を、高層ビル街の歴史については西新宿の項目も参照
[編集] 宿場開設以前
この地と内藤氏とのつながりは、豊臣秀吉により後北条氏が滅ぼされ、徳川家康が江戸に入府する直前の1590年(天正18年)7月にさかのぼる。三河時代より徳川家康の小姓として仕えていた内藤清成は、家康の入府に先立ち後北条氏残党に対する警備のため、鉄砲隊を率いて甲州街道(国府道)と鎌倉街道が交差していた現在の新宿二丁目付近に陣を敷いた。
この功が認められ、清成は付近一帯を拝領し中屋敷(上屋敷は神田小川町、下屋敷は下渋谷にあったという)を構えた。なお、清成が率いていた鉄砲隊は、1602年に伊賀組鉄砲百人組として大久保に配置され、百人町の名のもととなっている。
この拝領に際しては、家康が「馬が一息で駆け巡るだけの範囲を与える」と伝えたため、清成は馬に乗り榎の大木を中心に東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保におよぶ範囲を駆け、その馬はついに倒れて、まもなく死んでしまったというエピソードがある。
[編集] 宿場開設後
江戸時代、甲州街道は江戸から甲府までの主要街道として整備されたが、第一の宿場は高井戸であり、距離が長く、旅人は難儀をしたという。そのうち、現在の新宿二丁目近辺に人家ができ、1625年(寛永2年)には住民の願いにより太宗寺門前の町屋ができ、これを内藤宿と呼ぶようになった。「宿」とはいっても、正規の「宿場」ではなく、甲州街道や成木街道(現・青梅街道)を利用する人馬が休憩所として利用していたので、そのように呼び習わすこととなったという。
1698年(元禄11年)、甲州街道における新たな宿場の必要性や、行楽地づくりを念頭に、当時の浅草安倍川町の名主であった喜兵衛ほか同志4人が5600両の上納とともに宿場開設を願い出て、翌年、内藤家の中屋敷の敷地を一部利用して宿場が開設される。宿場開設を申し出た喜兵衛は高松喜六と名乗り、高松家は代々新宿の名主を務めた。
この新宿は、玉川上水の水番所が置かれていた四谷大木戸から西、現在の新宿駅付近までの街道沿いに広がっていた。なお、新宿には青梅街道と甲州街道の分岐点である追分(新宿追分・現在の新宿三丁目交差点付近)があり、現在でも地名などに残っている。
その後内藤新宿は、品川(東海道)、板橋(中山道)、千住(日光街道、奥州街道)と併せて四宿(ししゅく)と呼ばれ、江戸の新たな行楽地としても発展し、岡場所(非公認の売春宿)などが繁盛して、「四谷新宿馬の糞の中であやめ咲くとはしほらしい」(馬の糞は活発な馬の往来、あやめは飯盛女・遊女を意味する)と狂歌に詠われている。これらが災いし、1718年(享保3年)に風紀上の理由から一時廃駅の憂い目にあうも、1772年(明和9年)には復活している。歓楽街としての新宿の原型は、この時代に既にあったといえるだろう。
このころ大宗寺は江戸六地蔵のひとつに数えられ、庶民の信仰を集めていた。また、成覚寺は遊女などの投げ込み寺であった。
[編集] 明治以後
江戸時代の岡場所は、明治以降は遊郭となり、戦後の公娼廃止後もいわゆる赤線地帯として1958年の売春防止法施行まで続いた。
また、1887年に日本鉄道品川線新宿駅が宿場のはずれ角筈(つのはず)に作られる。その後、大正期には新宿は西へと広がった東京市街地の交通が集中するようになり、新宿伊勢丹デパートや中村屋のカリー、高野商店の果物(フルーツパーラー)といった名物をはじめ、映画館、カフェー、劇場などが集中し人々で賑わうようになる。特に、現在の新宿三越の裏手は、当時の文化発信地としてにぎわったという。
新宿は東京大空襲によって焼け野原となったが、新宿駅周辺には戦後間もない頃に闇市が建ち並び、繁華街としての復興の道を歩み始めた。空襲で焼け残った伊勢丹デパートは一部を占領軍に接収された。現在では、日本有数の巨大繁華街として全国的にも認知され、東京における観光スポットの顔である。
[編集] 行政区画・町名の変遷
新宿一帯は1889年の町村制施行で南豊島郡内藤新宿町となる。1896年南豊島郡と東多摩郡の合併で豊多摩郡の所属となる。1920年に東京市四谷区に編入、1947年3月15日には四谷区、牛込区、淀橋区が統合されて新宿区となる。
1973年住居表示によって現在の新宿一~四丁目、1978年の住居表示では新たに五~七丁目が誕生した。西新宿は角筈と十二社、淀橋、柏木一丁目が統合された。北新宿となっている地域は柏木二丁目~五丁目であった。
| 住居表示実施後 | 実施前(注意書きのない町名はその一部) | |
| 旧四谷区 | 旧淀橋区 | |
| 新宿一丁目 | 新宿一丁目、花園町(全部) | |
| 新宿二丁目 | 新宿一丁目、新宿二丁目 | |
| 新宿三丁目 | 角筈一丁目(のち淀橋区)、 新宿二丁目、新宿三丁目 | 角筈一丁目(一部は四谷区から編入)、 角筈二丁目 |
| 新宿四丁目 | 新宿四丁目(全部) | |
| 新宿五丁目 | 番衆町(全部)、三光町 | 東大久保一丁目 |
| 新宿六丁目 | 東大久保一丁目、東大久保二丁目、西大久保一丁目 | |
| 新宿七丁目 | 東大久保二丁目、西大久保二丁目 | |
[編集] 都市問題
新築のビルの横に風俗店やパチンコ店が密集し、雑多な景観は新宿の特徴でもあるが、治安悪化の温床でもあった。近年では、繁華街の商店主や警察らによって治安の向上が図られている。
また、特に歓楽街の北には、コリアンや中国人を主とする外国人が多く居住しており、独特の町並みを形成しているが、不法入国者も多いとされている。また、公園や地下道の一部など、ホームレスが集まっている区域もある。
[編集] 新宿界隈の高層ビル一覧
西新宿(新宿新都心エリア)にある高層ビルについては、西新宿#西新宿にある高層ビルの一覧を参照。
以下は、西新宿のビル街からは離れている。
- NTTドコモ代々木ビル
- 新宿マインズタワー
- 小田急サザンタワー
- 新宿プリンスホテル(ペペと西武新宿駅と同じ建物)
- 新宿文化クイントビル
[編集] 新宿を舞台にした作品
[編集] 漫画
[編集] ゲーム
[編集] アニメ
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 新宿区の町名</dt>
-
牛込地区: 赤城下町 | 赤城元町 | 揚場町 | 市谷加賀町 | 市谷甲良町 | 市谷砂土原町 | 市谷左内町 | 市谷台町 | 市谷鷹匠町 | 市谷田町 | 市谷長延寺町 | 市谷仲之町 | 市谷八幡町 | 市谷船河原町 | 市谷本村町 | 市谷薬王寺町 | 市谷柳町 | 市谷山伏町 | 岩戸町 | 榎町 | 改代町 | 神楽河岸 | 神楽坂 | 河田町 | 喜久井町 | 北町 | 北山伏町 | 細工町 | 下宮比町 | 白銀町 | 新小川町 | 水道町 | 住吉町 | 箪笥町 | 築地町 | 津久戸町 | 筑土八幡町 | 天神町 | 富久町 | 戸山 | 中里町 | 中町 | 納戸町 | 西五軒町 | 二十騎町 | 払方町 | 原町 | 東榎町 | 東五軒町 | 袋町 | 弁天町 | 南榎町 | 南町 | 南山伏町 | 山吹町 | 矢来町 | 横寺町 | 余丁町 | 若松町 | 若宮町 | 早稲田南町 四谷地区: 愛住町 | 荒木町 | 霞ヶ丘町 | 霞岳町 | 片町 | 坂町 | 左門町 | 三栄町 | 信濃町 | 須賀町 | 大京町 | 舟町 | 本塩町 | 南元町 | 四谷 | 若葉 戸塚地区: 高田馬場 | 戸塚町 | 西早稲田 | 馬場下町 | 早稲田町 | 早稲田鶴巻町 大久保地区: 大久保 | 百人町 新宿地区: 歌舞伎町 | 新宿 (新宿二丁目) | 内藤町 淀橋地区: 北新宿 | 西新宿 落合地区: 上落合 | 下落合 | 中井 | 中落合 | 西落合 </dd>
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