捕鯨

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

捕鯨用のもり

捕鯨(ほげい)とは、主に食用・油用にクジラを捕獲することである。かつては燃料源として欧米諸国で盛んに行われていたが、近年は日本ノルウェーフィリピンフェロー諸島などの国や、北極圏に住む先住民族などが食用に行っている。

国際捕鯨委員会は捕鯨を三つに分けて表現している。

  1. 商業捕鯨
  2. 調査捕鯨
  3. 生存捕鯨

捕鯨方式の形態により次のように分けられている。

  1. 母船式捕鯨
  2. 大型沿岸捕鯨
  3. 小型沿岸捕鯨

目次

[編集] 捕鯨の歴史

この項では世界各地および日本における、古代から現在に至までの捕鯨史について記述する。

[編集] 世界における捕鯨史

[編集] 先史時代

ノルウェーにおいては紀元前3000年以降と見られるイルカまたはを描いた洞窟壁画が発見されている。このうち鯨はいずれも小型のハクジラ類であるとみられ、周期的にフィヨルド内へと回遊していた個体を捕獲していたと考えられている。

朝鮮半島の南東、慶尚南道において鯨を描いた洞窟壁画が存在する。これらの岩壁画は青銅時代から鉄器時代にかけてのものと見られ、鉄器を用いて比較的大型の鯨を捕獲していたとされる。

[編集] バスク人による捕鯨

16世紀の捕鯨
18世紀グリーンランドにおける捕鯨
18世紀オランダ船によるホッキョククジラの捕鯨
後方の島はヤンマイエン島

イベリア半島北岸のビスケー湾に居住するバスク人による捕鯨は、一般的に11世紀頃にノルマン人から伝習されたのが起源であるとされている。文献としては11世紀からバスク人が独占的に捕鯨を行っていたことが分かっており、舌が貴族層の嗜好品として、鯨肉は沿岸住民の食用に饗されていた。13世紀に入ると、バスク人による捕鯨業はさらに発展拡大した。当初は日本での例と同様に、北方へと回遊する鯨を漁獲していたが、漁場はビスケー湾だけでなく大西洋にもおよび、大西洋北部のニューファンドランド島ラブラドル沖における漁場を開発するなど、1560年代にはその最盛期を迎えた。に次ぐバスク第二の輸出品として、鯨油を中心とした各部位はヨーロッパ全域へと販売された。バスク人に対して国王から独占権を与えられる代償として、種々の課税も設けられた。

この頃のヨーロッパにおいては鯨油は主に灯火用として用いられていた。この他にはヒゲが甲冑帽子コルセットの骨などの装飾品に利用されている。1570年代には50隻余りの捕鯨船が北大西洋で活動し、捕鯨業に関わる人々は4000人にものぼったと推定されている。鯨の群れが発見されない場合の経済的リスクが大きかった為、バスクでは捕鯨船の船主、艤装と販売を担当する商人、船長および乗組員の三者でコストと利益を三等分する仕組みが取られていた。さらに一航海ごとに保険が掛けられており、その保険率は15%程度に定められていた。

この後三十年ほどの間にバスクでの捕鯨は激減してしまう。この原因は鯨の減少、ユグノー戦争オランダ独立戦争の影響の他に、捕鯨業がさらに大規模化したために資本の薄いバスクが不利と成ったことなどが挙げられる。

[編集] 北大西洋における捕鯨

1590年代にオランダのウィリアム・バレンツは北東航路の開拓を目指し、北極海への探検航海を繰り返した。彼はこの過程でスピッツベルゲン島を発見し、その付近に大型のホッキョククジラが生息していることを確認した。北東航路開拓はその後イングランドの探検家によって不可能であることが明らかとされたが、理想的な捕鯨場を発見したオランダおよびイングランドの捕鯨船団がスピッツベルゲンへと向かった。イングランド船団を運営するロンドンのモスクワ会社はジェームズ1世から特許状を獲得し、バスクの熟練乗組員を用意、大砲20門あまりを装備した捕鯨船を急行させ、公海における漁の自由を訴えるオランダ船から、特許状を掲げて獲物を回収した。オランダ船もバスク人を雇い入れ捕鯨船を武装化し、スピッツベルゲン島周辺におけるイングランドとオランダの争いは武装捕鯨船同士の争いから軍艦の出動にまで発展したが、1618年になり島の分割とその沿岸海域での捕鯨独占権を相互に承認することが定められた。1630年代後半になると、早くもスピッツベルゲン付近のホッキョククジラが枯渇し始め、捕鯨船団はグリーンランド西部のデイディス海峡からノルウェー沖に至る北大西洋をクジラの姿を求めて彷徨った。波の高い外洋を乗り切るため、捕鯨船は大型化、補強され、捕殺したクジラは船の脇で解体され樽詰めされた。

1680年代になると、一時的にオランダの優位が確立した。オランダの捕鯨会社はヨーロッパの鯨油市場を独占し、その利益はアジアとの香辛料取引を上回るまでになった。スピッツベルゲンに設けられた捕鯨基地スミーレンブルクの漁期には、港が鯨で埋め尽くされ、数千人の労働者が昼夜製油作業に従事していた。18世紀後半に捕鯨を再開したイギリスそしてアメリカの捕鯨船も加わり、20世紀に入ると大西洋におけるセミクジラとホッキョククジラはほぼ姿を消した。世界の海上覇権を握っていたイギリスの捕鯨船は太平洋へも進出し、バフィン島付近において新たな捕鯨場を発見することになる。

近代でも、捕鯨社会は存在する。

[編集] 日本における捕鯨史

日本の捕鯨は初期捕鯨時代、網取式捕鯨時代、砲殺式捕鯨時代の三期に分けることができる。

[編集] 初期捕鯨時代

日本における捕鯨の歴史は、縄文時代までさかのぼる。ノルウェーにおける例と同様に、能登半島富山湾に面した地域、北海道などにおいて、イルカまたは小型の鯨の骨が大量に出土している。縄文時代中期に作られた土器の底には、鯨の脊椎骨の圧迫跡が存在する例が多数あり、これは脊椎骨を回転台として利用していたと見られている。長崎県松浦郡における弥生時代後期の遺跡においては、鯨の骨を用いた紡錘車や矢尻などが出土しており、さらに銛を打ち込まれた鯨と見られる線画が描かれた壷が発見された。この時代の技術では積極的な捕鯨は不可能である為、入り江に迷い込んだ個体を舟で浜辺へと追い込むか、海岸に流れ着いた鯨<ref>江戸期の文献では、沖で死んでいる鯨を「流れ鯨」、浜に打ち上げられた鯨は「流れ鯨」と呼称している。</ref>を解体していたと見られている。

6世紀から10世紀にかけて北海道東部からオホーツク海を中心に栄えたオホーツク文化圏でも捕鯨が行われていた。根室市で発見された鳥骨製の針入れには、舟から銛を鯨に打ち込む捕鯨の様子が描かれている。オホーツク文化における捕鯨は毎年鯨の回遊時期に組織的に行われていたと見られるが、影響を色濃く受けたアイヌの捕鯨は明治期に至まで続けられたものの、断続的に行われていたとされる。アイヌからの聞き取りによると、トリカブトから採取した毒を塗った銛を用いて南から北へと回遊する鯨を狙う。鯨を捕らえることは数年に一度もないほどの稀な出来事であり、共同体全体で祭事が行われていた。

奈良時代に編纂された万葉集においては、鯨は「いさな」または「いさ」と呼称されており、捕鯨を意味する「いさなとり」は海や海辺にかかる枕詞として用いられている。

[編集] 網取式捕鯨時代

海上において鯨を捕獲する積極的捕鯨が始まった時期についてははっきりとしていない。15世紀になると鯨肉を料理へ利用した例が文献に見られる。それらの例としては、1561年に足利義輝が三好義長の邸宅において鯨料理が用意されたとする文献が残されている。この他には1591年に土佐長宗我部元親豊臣秀吉に対して鯨一頭を献上したとの記述がある。これらはいずれも冬から春にかけてのことであった為、南から北へと日本列島沿いに北上する鯨を常習的に捕鯨が開始されていたと見られる。

江戸時代にはいると、鯨組と称される捕鯨専門の漁師集団により捕鯨用のが利用されるようになる。捕鯨業を開始したのは伊勢湾の熊野水軍を始めとする水軍海賊出身者たちであった。紀州熊野太地浦における鯨組の元締であった和田忠兵衛頼元は、17世紀前半に綱を結びつけた銛を利用する突取法を考案した。この新技術を扱う鯨組は突組と呼称された。延宝五年(1677年)には、同じく太地の和田金角衛門が、あらかじめ設置した網の中に勢子船を用いて鯨を追い込み、銛で捕獲する網取法を考案した。さらに同時期には捕獲した鯨の両端に舟を挟む持双と称される鯨の輸送法も編み出され、これらに突取法に網取法を併用することで、捕鯨の効率と安全性は飛躍的に向上した。当初はゴンドウクジラ、セミクジラ、コクジラなどの小型クジラを穫っていたが、後にはマッコウクジラザトウクジラなども対象となった。これらの技術的な発展により、紀州では太地浦、古座浦、三輪崎浦を中心として、紀州藩直営の捕鯨事業が繁栄することになった。

これらの捕鯨技術は三陸海岸安房沖、遠州灘土佐湾そして山口から九州北部にかけての西海地方などにも伝えられている。土佐の安芸郡津呂浦においては多田五郎右衛門によって寛永元年に捕鯨が開始され、その後その子孫らが紀州へと赴き網取法を伝習し帰国している。西海地方においても同様に17世紀に紀州へと人を向かわせ、新技術を伝承させている。

これら江戸時代における捕鯨の多くはそれぞれのによる直営事業として行われていた。鯨組から漁師たちには、「扶持」あるいは「知行」と称して報酬が与えられるなど武士階級の給金制度に類似した特殊な産業構造が形成されていた。捕鯨規模の一例として、西海捕鯨における最大の捕鯨基地であった平戸藩月島の益富組においては、全盛期に200余りの船と3000人ほどの加子を用い、享保から幕末にかけての130年間における漁獲量は2万1700頭にも及んでいる。また文政期に高野長英シーボルトへと提出した書類によると、西海全体では年間300頭あまりを捕獲し、一頭あたりの利益は4千両にもなるとしている。江戸時代の捕鯨対象はセミクジラ類やマッコウクジラ類を中心としており、19世紀前半から中期にかけて最盛期を迎えたが、従来の漁場を回遊する鯨の頭数が減少したため、次第に下火になっていった。

『古式捕鯨蒔絵』、太地

江戸時代の鯨はその肉を食用とする他に、骨は手工芸品の材料として用いられていた。1670年(寛文10年)に筑前で鯨油を使った害虫駆除法が発見されると<ref>油を水田に注いで水の表面に被膜をつくり、イネの穂を笹などで払い害虫(ウンカ類)を落とすと、虫の表面に油が付着し、気門がふさがれて窒息死する。後には菜種油なども用いられるようになった。明治時代になると鯨油から石油へと転換され、第二次世界大戦後までウンカ類の防除法として利用された。</ref>、鯨油が除虫材として用いられるようになった。天保三年に刊行された『鯨方調味方』からは、ありとあらゆる部位が食用として用いられていたことが分かる。鯨肉と軟骨は食用に、ヒゲと歯は(こうがい)やなどの手工芸品に、毛は綱に、厚さ数十cmにもなる皮はや鯨油に、血は薬に、脂肪は鯨油に、糞は竜涎香として香料に用いられた。

[編集] 砲殺式捕鯨時代

幕末期に入り、ペリー来航を期として開国されると、西洋式の新たな捕鯨法に関心が集まるようになった。嵐にり難破した漁船からアメリカの捕鯨船に救助された中浜万次郎は、1863年に幕府の命令によってアメリカで行われていた捕鯨法を試験的に試みている。この他にも福岡藩山口藩においてアメリカ式捕鯨砲が行われたが、いずれも知識や道具の不足によって失敗している。明治期に入ると、従来の網取法とアメリカ式捕鯨において用いる捕鯨銃を組み合わせた漁法が行われるようになった。この際に用いられた捕鯨銃は1840年代にアメリカで開発されたボムランス銃 (Bomb Lance Gun) と呼ばれる物で、銛に爆薬が仕込まれており、手持ち式または甲板に固定して用いられた。

ボムランス式捕鯨銃

明治期に入ると、漁港周辺の漁場だけでは不足するようになったため、ノルウェー式捕鯨砲を用いた遠中距離の漁場における捕鯨が試みられるようになる。複数の捕鯨砲を装備した捕鯨船によるこの漁法は朝鮮近海において操業していたウラジオストックを基地とするロシア太平洋捕鯨会社の活動に影響を受けていた。明治30年前後には、従来の捕鯨基地港において捕鯨会社が相次いで設立され、ノルウェーから捕鯨用具を購入し、ノルウェー人らの砲手を雇いれていた。日本近海におけるロシア、アメリカ、イギリス等の外国捕鯨船による捕鯨の活発化を懸念した明治政府も、明治30年に遠洋漁業奨励法を発布しこれらの活動を後押ししている。

明治41年に活動していた日本における捕鯨会社は12社28隻に達していた。政府は日本近海における鯨の頭数を保護することが必要であると認識しており、明治42年に鯨漁取締規則を発布し、全国の捕鯨船を30隻以下に制限している。昭和期になると母船式遠距離捕鯨が開始されるようになり、日本捕鯨株式会社(現在の日本水産株式会社)や大洋捕鯨株式会社による南氷洋での捕鯨が行われるようになった。


鯨の料理

[編集] 鯨の墓

日本各地に「鯨墓」(げいぼ、くじらばか)、「鯨塚」(くじらづか)などと呼ばれる記念碑がある。これは、捕鯨により食料や金銭を得られたことに対する感謝の気持ちを表して建てられたものである。捕鯨を主要な漁業として日常的に行っていた漁村には必ずといってよいほど存在するが、特定の故事をきっかけに建てられたとの伝承が残されているものもある。山口県長門市大分県臼杵市のものが有名。

[編集] 現在日本にある捕鯨基地

[編集] 関連項目

[編集] 文献

捕鯨史の項は以下の文献を参考に執筆した。

[編集] 外部リンク

ことばこって?

「ことばこ」は、歴史の人物から最先端テクノロジーまで、なんでも調べられるオンライン百科事典です。ウィキペディア財団が運営を行なっているwikipedia.orgから引用をしています。

おススメサイト
トラブログ
アレどう?
アフィリエイトB