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(こころ)、この言葉は非常に多義的・抽象的であり、話者や文脈に応じて多様な意味をもつ。

目次

[編集] 語源・多義的用法

(こころ)の語源はコル・ココルで、動物の内臓をさしていたが、人間の体の目に見えないものを意味するようになった。

「心」の多義性

広辞苑は以下のようなものを挙げている。

  • 人間の精神作用のもとになるもの。
  • 人間の精神の作用そのもの。
  • 知識感情意思の総体。
  • おもわく。
  • 気持ち。
  • 思いやり、け。

他に 趣き、趣向、意味、物の中心、等。

[編集] 心の病気

心の病気は医学的には精神疾患と呼び、標榜科名としては精神科神経科心療科心療内科などがそれにあたる。

心療内科は日本で1996年に標榜科として認可された。内科疾患の中でも、消化性潰瘍気管支喘息狭心症糖尿病などは心身相関のある疾患であり、身体面に併せて心理的要因・社会的要因が複雑に影響しており、同標榜科においては心身一元論的視点から、それらの要因も含めて全人的治療を行っている。現在のところ同標榜科の医師には心療内科を専門とする心療内科医もいるが、大半は精神科医である。

心の病の専門家としては、精神科医臨床心理士産業カウンセラーなどがある(日本の心理学に関する資格一覧も参照可)。 心の病を対象とした学問としては、精神医学心身医学臨床心理学を参照。

[編集] 心と存在論

一般の人が「心」といった場合、それは実体二元論で仮定される思推体や霊魂といったもののことを指して使われていることが多い。すなわち人間を人間らしく振舞わせる事を可能にしている、物質とは違う当のもの、を想定して「心」という言葉が使われる。こうした心の見方はアニミズムや物活論・生気論といった考え方に分類され、17世紀のフランスの哲学者ルネ・デカルトによっても類似の論が述べられている。<ref>ルネ・デカルト著 谷川 多佳子 訳 『方法序説岩波書店 1997年(原著は1637年) ISBN 4003361318</ref>。現在でも学術的な研究に携わらない多くの人々にとっては、これが「心」というものに対する最もポピュラーなイメージとなっている。

昔の人は心が心臓にあると考えていた。心臓という命名や、「胸の内」「ハート」が比喩的に心を指すのはその名残りである。

古代ギリシャアリストテレスは「心について(霊魂論)」<ref>アリストテレス桑子敏雄 訳『心とは何か』 講談社<講談社学術文庫> 1999年 ISBN 4-06-159363-3</ref>で、こころを論じている。心をモノのひとつの性質・態と考え「モノの第一の"エンテレケイア"」と呼んだ。そこではこころとからだはひとつであり、分離できるようなものではないことになる。

17世紀の自然哲学者デカルトは、モノの分析をする手法を発展させることを意図し、当時の技術水準では極めて数理的に把握しづらかった心的要素を分離することで議論を避ける手法を採用することを思いつき、心の存在は確かで絶対的なものと認めた上で「心は心で物は物」と完全に分断する論法(「心身二元論」)を展開した。確かにこの論法のおかげもあり、物質科学的な手法は不確定要素が減り発展はした。ところが他方、後々デカルトの論法に影響を受けた者の中には、デカルトの深い意図も理解せず、こころの存在を否定したり、さらには一般人なら誰でも日常的に気づいている心的な「作用」が存在することまでも作為的に無視しようとする唯物論的珍説が後に生まれてくる原因ともなった。

現代において、人の心の働きを研究する学問のひとつに心理学があり、これは心の持ち主の反応を統計的手法で解析したり、直接の人間関係を通じて知ろうとするものである(計量心理学の項も参照)。先述の通り、心は相対する相手や状況が変われば変化してしまうため、学問的に心を研究する事は大変に難しい。

近年の神経科学の発展により、心の状態はの物理的状態と密接な関連があるという事が明らかになってきた。たとえば脳内の各部位と機能との関連(例:ブローカ野、視覚野)、神経伝達物質と気分との関連(例:ドーパミンエンドルフィン)などが次々と発表されている。

上述の心理学や神経科学の枠では収まりきらない手法・視点・論点は現在「心の哲学」というカテゴリーに分類されている。そこでは、例えば心の状態と脳の状態の関係は「ハード・プロブレム」とも呼ばれ、議論が続いている。

現在、心の哲学の研究に携わる者の間では、非物質的な魂の存在を仮定する者はまず見られない。これは実体二元論的な考えは、現代の科学(心理学脳科学そして物理学など)で知られている経験的な事実との間にいくつもの基本的な齟齬を持つためである<ref>ダニエル・デネット 『解明される意識』「第二章 第四節 二元論はなぜ見捨てられるのか」 50-58ページ 青土社 1998年 ISBN 4-7917-5596-0</ref>。西脇与作は、「心」とはどういうものか、という点については、現代の研究者の常識と、世間一般の常識との間に、400年分近い知識の隔たりがある、と指摘している。<ref>西脇与作 『もの、命、心の科学と哲学<下>』「第二節 現代の常識はデカルトの意見」 オンラインマガジンゑれきてる 東芝発行 2004年 読む</ref>。現在、心の哲学の研究者の間で主流となっている見方は「非還元的な物理主義」と呼ばれるものである。これは概略を述べると次のような考え方である。

「心という名を冠されることのある性質(学習記憶発話思考判断感情など)は、そのほぼ全てがの物質的な振る舞いとして理解することができる(還元できる)。しかし唯一、意識(専門的には現象的意識、クオリアなどと呼ばれる)だけは、物理的なものに大きく依存しつつも、物理的なもののなかには還元しきれない。」

これが現在、心の哲学の研究者達の間で見られる最も一般的な心の捉え方である。

(この項ではこれ以上は論じない。詳細は心の哲学に譲る)

[編集] 心と宗教

心のありかたを求めているものに宗教がある。例えば日本では、空海は『秘密曼荼羅十住心論』において、心の段階を10の層に分けて、最後の密教的な境地への悟りが深まる道筋を説いている。

[編集] 心と文化

「こころ」は、意思などが「宿る何か」だけでなく、意思的な作用そのものを指すこともある。「心を受け継ぐ」などと表現する。 現代風に譬えるならば、PCのハードではなく、ソフトウェアを指している、とでも表現できよう。ソフトウェアはPCからPCへと自在に移りながら働いてゆく。見方によっては、ソフトウェアのほうが主体で、ひとつひとつのPCはただの乗り物にすぎない、とも言える。同じように、「こころ」がそれ自体ひとつの"生きもの"であり、人間はそれを受け取っている器という発想もある。
パースは「人間記号論」において、「ことば」そのものが独自のいのちを持っており、成長し、増殖・衰退もするのであり、人間の集団はその「ことば」の"interpretant"(解釈体)としての面があることを指摘している。
これは伝統的に、カトリック教会において「教会はイエス・キリストのからだ」としばしば表現されることにも通底している。ここでいう「教会」とは建物のことではなく「信者の集団」のことである。イエス(の意思、アガペー)が「こころ」であり、信者ひとりひとりがその「からだ」ということである。


[編集] 参考文献

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[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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