徳川秀忠

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徳川秀忠凡例
時代 安土桃山時代から江戸時代前期
生誕 天正7年7月7日1579年7月30日
死没 寛永9年1月24日1632年3月14日
別名 長松、竹千代(幼名)、江戸中納言(通称)
官位 従五位下侍従、蔵人頭、正五位下武蔵守、
従四位下、正四位下、右近衛権少将、参議
右近衛権中将、従三位権中納言、権大納言、
従二位右近衛大将、正二位内大臣
征夷大将軍、従一位右大臣太政大臣
正一位
氏族 徳川氏
父母 父:徳川家康、母:西郷局(竜泉院)
正室:織田信雄の娘・小姫(春昌院)
継室:浅井長政の娘・於江(崇源院
側室:神尾栄加の娘・お静(浄光院
兄弟 信康亀姫督姫秀康秀忠忠吉振姫
信吉忠輝松平松千代仙千代松姫義直
頼宣頼房市姫
千姫珠姫勝姫長丸初姫家光忠長
正之ほか養女多数

徳川秀忠(とくがわ ひでただ、天正7年7月7日1579年7月30日) - 寛永9年1月24日1632年3月14日))は、江戸幕府第二代将軍(在職1605年 - 1623年)。

目次

[編集] 生涯

[編集] 後継者争い

徳川家康の三男として、遠江浜松に生まれ、乳母・大姥局によって養育される。母は側室の西郷局、実家の西郷氏は、九州の菊池氏一族で、室町初期には守護代をつとめたこともある三河の有力な国人であった。同母弟に家康の四男松平忠吉がいる。長兄・信康は秀忠の生まれた年に死亡、庶兄の秀康豊臣秀吉の養子に出されて、後に結城氏を継いだので、母親が三河の名家である秀忠が実質的な世子として処遇されて14歳で中納言に任官し、江戸中納言と呼ばれる。天正18年(1590年)、織田信雄の娘・小姫(春昌院)と祝言を挙げたが、秀吉と信雄が仲違いして信雄が除封された事により破談となる。文禄4年(1595年)には信長の姪で豊臣秀吉の養女の於江与(父は浅井長政、母は織田信長の妹・お市)と結婚。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東海道を進む家康本隊に対して中山道を進む別働隊を率いる役割を与えられたが、信濃国上田城攻めで、真田昌幸の激しい抵抗に時間を奪われて9月15日(新暦10月21日)の関ヶ原の戦いには参加できなかった。(ただ、この件に関してはあえて兵を関ヶ原に遅参させることで徳川軍の兵力を温存させるという家康の策略だったのではないかという説もある。また、家康の当初の命令が信州平定であり(このときの命令書が残っている)秀忠はそれに忠実に従っていただけで、その後の家康からの本隊への合流命令が豪雨による川の氾濫のため届いたのが9月9日であり9月15日の関ヶ原にはすでに間に合わない状況だったという説もある。)

近年の研究では、このことで軍事面に於いてその無能振りを全国に示した秀忠及び自分の死後の徳川家の将来を悲観した家康が、もともとは秀吉の遺言に従い、徳川・豊臣両家共存の意向だったのを取り止めて、後顧の憂いを絶つべく豊臣家廃絶の道を選んだのではないかとする考えが示されている。

そのように軍事面での才能には疑問が持たれる秀忠だが、それでも後継者となったのは家康が秀忠を「守成の時代」の君主に相応しいと考えていたからだと言われている(家康は唐の太宗の治世について記した『貞観政要』を読んでおり、当然その中の「守成は創業より難し」という一文も読んでいたと思われる)。律儀に父の路線を守り、出来て間もない江戸幕府の基盤を強固にすることを期待されたのであり、結果として秀忠もそれによく応えたと言えるだろう。ただ、秀忠自身は武将として汚名が付いたことを気にしていたらしく、大阪冬の陣では家康に対して豊臣方への強攻策を主張しており、この戦いに勝利することで汚名を返上しようとしていたのではないか、とする説もある。

[編集] 征夷大将軍

慶長8年(1603年)に征夷大将軍に就いて幕府を開いた家康は、徳川氏による将軍職世襲を確実にするため、慶長10年(1605年)にわずか2年で秀忠に将軍職を譲った。秀忠は江戸城に居住し、駿府城に住む大御所家康との間の二元政治体制になるが、本多正信らの補佐により家康の意を汲んだ政治を執った。大坂の役にも家康とともに参戦して総大将となり、慶長20年(1615年)の戦で、豊臣家重臣・大野治房によって本陣を脅かされた。結局、豊臣家は滅亡し、豊臣秀頼に嫁がせていた娘の千姫は助け出された。その後、家康とともに武家諸法度禁中並公家諸法度などの制定につとめた。

元和2年(1616年)に家康が死去したのちは、将軍親政を開始し酒井忠世土井利勝らを老中として幕府の中枢を自身の側近で固め、自らリーダーシップを発揮する。大名統制を強化して福島正則ら多くの外様大名を改易し、御三家尾張紀伊水戸に配置し、自身の子忠長駿河遠江甲斐を与えた。また、弟の松平忠輝・娘婿の松平忠直や家康の謀臣・本多正純改易配流にしている。また朝廷に対しても厳しい引き締めを行う一方で、娘の一人和子後水尾天皇に入内させた。また鎖国政策の布石として、外国船寄港を平戸・長崎に限定させている。

[編集] 隠居

元和9年(1623年)に将軍職を嫡男家光に譲る。父家康に倣って、引退後も実権は手放さず、大御所として二元政治を行った。当初、駿府に引退した家康に倣い、自身は小田原城で政務を執ることを考えていたようだが、結局は江戸城西の丸(現在の皇居)に移った。晩年の寛永6年(1629年)に紫衣事件を起こして朝廷・寺社統制の徹底を示した。寛永8年(1631年)には忠長の領地を召し上げて蟄居を命じるが、このころから体調を崩し、翌寛永9年(1632年)年初めに亡くなった。

徳川家綱(第4代将軍)、徳川綱重徳川綱吉(第5代将軍)は孫。徳川家宣(第6代将軍)・松平清武は曾孫。徳川家継(第7代将軍)は玄孫にあたる。

[編集] 官歴

※日付=旧暦

[編集] 墓所・遺骸について

法名は台徳院殿興蓮社徳譽入西大居士。墓所は、東京都港区の一角にあった台徳院霊廟であったが戦災で焼失し、1958年に台徳院霊廟が増上寺本堂近くに移転改築された際、土葬されていた秀忠の遺骸も荼毘に付されて改葬された。尚、この際に秀忠の遺体の調査が行われたが、その遺体は、棺の蓋や地中の小石等の重みにより、その衣服等とともに圧迫されつぶれていた。また、秀忠の血液型O型であった。この調査については、鈴木尚の『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』、『増上寺徳川将軍家墓とその遺品・遺体』を参照のこと。

[編集] 人物

  • 武将としての器量が父家康に遠く及ばなかったことを示す逸話はことかかない。関ヶ原の戦いの前、家康が『この歳になってこんな大戦(おおいくさ)をしなければならないとは難儀な事だ。せめてセガレがいれば少しは楽ができるのに』とこぼした。そばにいた家臣が、「殿には秀忠様がおられるではありませぬか?」と聞くと、「あのセガレではない、信康(切腹した家康の長男)の事を言っておるのだ」と答えた。
  • 秀忠は関ヶ原の戦いのとき、3万8,000人の大軍を率いていながら、わずか2,000人が籠城する信州上田城を攻め、真田昌幸の前に大敗を喫した。このときの惨敗ぶりを、「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」(『烈祖成蹟』)と記されている。このため家康は関ヶ原の後、秀忠としばらくの間は面会すら許さず、面会したときには手ひどく叱責を加えたとまで言われている。このため、秀忠の関ヶ原の遅参を単なる天候不順や伝令の遅れなどを理由にするのは無理がある。
  • 秀忠は戦国武将として無能、もしくは暗愚を示す逸話がある。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣出陣のときである。秀忠は10月23日に軍勢を率いて江戸城を出発した。関ヶ原で遅参した彼も同じ事を繰り返すような馬鹿ではなかった、むしろ大馬鹿者であった。24日に藤沢、26日に三島、27日に清水、28日に掛川、29日には吉田にまで到着するという強行軍を続けて秀忠が伏見城に到着したのは11月10日で、江戸から伏見まで17日間で到着するという強行軍を重ねた。このため、秀忠軍の将兵は疲労困憊し、とても戦えるような状況ではなかった。
  • このときのことを、『当代記』では、次のように記している。
    「廿六日三島。廿七日清水。廿八日掛川。廿九日吉田御着。路次依急給、供衆一円不相続、況哉武具・荷物己下曾て無持参」(供廻衆を置き去りにして、武具や荷物も持たずに駆けに駆け、清水に着いたときには徒士240人、騎馬34人ほどだった)。
  • これを知った家康は激怒し、秀忠に軍勢を休ませて徐行して進軍するように命じている。当代記では11月1日に秀忠が岡崎に着いたとき、「揃人数、急度上洛可有儀を、路次中急給故、供奉輩不相揃、軽々敷上給事、不可然」と叱責する使者を出したとまで言われている。ところが秀忠は家康の命令を無視して11月2日には名古屋、5日には佐和山にまで到着するという強行軍を続けた。このため家康は「大軍数里の行程然るべからざる由、甚だ御腹立」であったと『駿府記』には記されている。(葵徳川三代では家康が『たわけうつけ間抜け!』と秀忠を叱責しているが、これらの史料をうまくまとめていると言えよう)
  • 徳川秀忠の人物を、『徳川実紀』では次のように評価している。
    「東照公(家康)の公達あまたおはしましける中に。岡崎三郎君(松平信康)はじめ、越前黄門(結城秀康)、薩摩中将(松平忠吉)等は、おづれも父君の神武の御性を稟させられ。御武功雄略おおしく世にいちじるしかりし中に。独り台徳院(秀忠)殿には、御幼齢より仁孝恭謙の徳備はらせ給ひ。何事も父君の御庭訓をかしこみ守らせられ。萬ず御旨に露違はせ給はで。いささかも縦覗の御挙動おはしまさざりき」
  • このように、兄の信康や秀康、弟の忠吉などは、武勇や知略に恵まれた名将と評価されている。事実、信康は武勇に優れ、秀康も豊臣秀吉にその人物を評価され、忠吉も関ヶ原の本戦で島津豊久を討つという武功を挙げている。それに対して秀忠には、武勇や知略での評価は全く無い。ただし、秀忠は2代将軍だったため、後半部分で秀忠は温厚な人物だったと弁護している。しかし、当の徳川氏による史書でさえ、秀忠の武将としての評価は低かったということである。
  • 家康が秀忠を後継者として指名したのは、秀忠が将器に乏しい凡庸、暗愚な男だったからだという説がある。1605年に家康が秀忠に将軍職を譲ったのは、今後は徳川氏が将軍職を世襲することを満天下に示すためだったと言われている。しかし家康は、政治の実権まで秀忠に譲るつもりは無かった。だが、もしこのとき、才能のある結城秀康が後継者だったら、自分に実権が回ってこないことに不満を覚えて、家康の言いなりにはならない可能性があった。しかし秀忠なら、凡庸な男だから自分の言いなりになるだろうと考えて、あえて後継者に指名したという説である。事実、家康は将軍職は譲ったが、源氏長者の座を秀忠には譲らなかった。ちなみに家康の死後、源氏長者になるのは孫の家光である。
  • 一方で公家諸法度、武家諸法度などの法を整備し、徳川幕府の基礎を固めた為政者としての手腕を、高く評価する意見もある。秀忠に将軍職を譲った後の家康がそうであったように、家光に将軍職を譲った後の秀忠も、大御所として全面的に政務を見ている。海音寺潮五郎は、「家康は全て自分で決めた。秀忠はそれには及ばなかったが半分は自分で決めた。家光は全て重臣任せであった。」と評している。
  • 秀忠は恐妻家であり、正室の於江与の方には頭が上がらなかったとされている。気性の荒い妻の影響で側室を持つことが許されなかったという俗説が一般的だが、秀忠は於江与の方を愛し敬い、彼女もそれだけの魅力のある女性ではあったようだ。一度だけ江戸城の女中だったお静の方に手を出した際も、正室からの追求を恐れて、お静を正式の側室にはしなかった。生まれた子供(保科正之)にも一切面会せず、そのまま保科家に養子に出し、於江与の存命中は正之を実子として認知することもなかった。

[編集] 秀忠の子

於江与の方(崇源院):正室
お静の方(浄光院):側室
名前不明:家女

[編集] 関連項目

江戸幕府将軍
家康 | 秀忠 | 家光 | 家綱 | 綱吉 | 家宣 | 家継 | 吉宗 | 家重 | 家治 | 家斉 | 家慶 | 家定 | 家茂 | 慶喜

徳川氏 - 将軍家

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