徳川家斉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| ||||
| 時代 | 江戸時代後期 | |||
| 生誕 | 安永2年10月5日(1773年11月18日) | |||
| 死没 | 天保12年閏1月30日(1841年3月22日) | |||
| 別名 | 豊千代(幼名) | |||
| 諡号 | 文恭院 | |||
| 墓所 | 東叡山寛永寺 | |||
| 官位 | 従二位権大納言、正二位内大臣、 右近衛大将、征夷大将軍、右大臣、 従一位左大臣、左近衛大将、太政大臣、 贈正一位 | |||
| 氏族 | 徳川氏(一橋徳川家→徳川将軍家) | |||
| 父母 | 徳川治済、慈徳院、徳川家治 | |||
| 兄弟 | 家斉、治国、斉隆、雄之助、斉匡、斉敦、 義居、久之助、本之丞 | |||
| 妻 | 島津重豪の娘・近衛寔子、他側室多数 | |||
| 子 | 家慶、敦之助、斉順、斉明、斉荘、斉民、 斉温、斉彊、斉善、斉裕、斉宣、他多数 | |||
徳川 家斉(とくがわ いえなり、安永2年10月5日(1773年11月18日) - 天保12年閏1月30日(1841年3月22日)、将軍在職1787年~1837年)は、日本の武士・徳川幕府第11代将軍。
御三卿の一橋家2代当主徳川治済の長子。母は側室の慈徳院。幼名は豊千代。第8代将軍徳川吉宗の曾孫。乳母は大崎局。正室は近衛経熙養女・近衛寔子(実父・島津重豪)、側室多数。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 11代将軍へ
幼少期から異様な性癖があったと伝えられている。蟹や鶏を相手にして踏み潰したり殴り殺したという残虐な逸話がある。しかし、安永8年(1779年)に家治の世嗣・徳川家基が急死したため、父と意次の裏工作、並びに家治に他に男子がいなかったため、第10代将軍・徳川家治の養嗣子になり、さらに天明6年(1786年)に家治が50歳で急死すると、翌年15歳で将軍職に就任した。治世の初期、田沼意次を廃して白河藩で名君の誉れ高かった松平定信を老中に登用して寛政の改革を推進、綱紀の粛正を図った。
[編集] 大御所時代の到来
定信は積極的に幕府財政を建て直しを図った。しかし、寛政の改革は厳格に過ぎたため次第に嫌気がさし、尊号事件のあった寛政5年(1793年)、父治済と協力して定信を罷免した。その後、寛政の遺老と言われた松平信明が文化14年(1817年)病死すると、政治を老中首座の水野忠成に任せて自らは豪奢な生活を送り、その結果政治は腐敗した。その治世は文化文政時代と言われる。官位は従一位太政大臣にまで昇任しているが、これは2代将軍徳川秀忠以来である。
[編集] 家斉時代の末期
天保5年(1834年)の水野忠成死後、寺社奉行・京都所司代から西丸老中となった水野忠邦がその後任となる。末期は幕末の老中となった間部詮勝や堀田正睦や田沼意正(意次の四男)等を重用した。天保8年(1837年)に子の徳川家慶に将軍職を譲っても実権は握り続けたが、天保12年(1841年)に69歳で薨去した。このように栄華を極めた家斉であったが、その最期は誰ひとり気づかぬうちに息を引き取ったと伝えられ、侍医長吉田成方院は責任を問われ処罰された(井関隆子日記)。やがて側近政治は忠邦に否定されて、旗本・若年寄、大奥等数人が罷免・左遷される。そうして詮勝や正睦などの側近は忠邦と対立し、老中や幕府の役職を辞任する事態となった。
[編集] 官職位階履歴
※日付=旧暦
- 1781年(天明元)閏5月18日、将軍後継者となる。
- 1782年(天明2)4月3日、元服し、家斉と名乗る。従二位権大納言に叙任。
- 1787年(天明7)4月15日、正二位内大臣に昇叙転任し、右近衛大将を兼任。併せて征夷大将軍・源氏長者宣下。
- 1816年(文化13)4月2日、右大臣に転任。右近衛大将の兼任如元。
- 1822年(文政5)3月5日、従一位左大臣に昇叙転任し、左近衛大将を兼任。
- 1827年(文政10)3月18日、太政大臣に転任。
- 1837年(天保8)4月2日、征夷大将軍辞職
- 1841年(天保12)閏1月30日、薨去。2月17日贈正一位。
※平清盛以来、内大臣、右大臣、左大臣、太政大臣を順番に歴任した武家は徳川家斉だけである。また、徳川将軍家で左近衛大将を兼任したのは徳川家光以来の出来事である。
[編集] 家斉の子・妻妾
- 特定されるだけで40人の妻妾を持ち、男子26人・女子27人の子をもうけ、その息子たちの養子先に選ばれた諸国の大名の中には家督を横領されたものもあった。また、家斉にはそのほかにも妾がいたとも伝えられており、御落胤は数知れず、それら膨大な子供たちの養育費が、逼迫していた幕府の財政を更に圧迫することとなり、やがて幕府財政は破綻へ向かうこととなった。
- 一方で、下記のように、子供の多くは大藩の大名に関係することから、血縁関係による大名統制を行っていたとも考えられる。また、将軍の子を迎える大名に、それに伴う儀礼などによる経済的負担を課していたとも考えられる。ただし、彼の娘を娶った鍋島直正や毛利斉広の養子・毛利敬親が倒幕に関係したことからすると、血縁関係による大名統制は失敗に終わったと言えるだろう。
- 家斉の時代は、最も大奥が活用された時代である。
- 子供達と母親
- 正室:近衛寔子(広大院) - 島津重豪娘、近衛経熙養女
- 側室:お万の方(勢真院) - 平塚為喜娘
- 側室:お楽の方(香琳院) - 押田勝敏娘
- 次男:家慶(1793-1853) 12代将軍
- 側室:お梅の方(真性院) - 水野忠芳娘
- 三男:端正院(1794)
- 側室:お歌の方 - 水野忠直娘
- 側室:お志賀の方(慧明院) - 能勢頼能娘
- 四女:総姫(1796-1797)
- 側室:お里尾の方(超操院) - 朝比奈矩春娘
- 五女:格姫(1798-1799)
- 側室:お登勢の方(妙操院) - 梶勝俊娘
- 側室:お蝶の方(速成院) - 曽根重辰娘
- 側室:お美尾の方(芳心院) - 木村重勇娘
- 側室:お屋知の方(清昇院) - 大岩盛英娘、諸星信邦養女
- 側室:お袖の方(本性院) - 吉江政福娘
- 側室:お八重の方(皆春院) - 牧野忠克娘、土屋知光養女
- 側室:お美代の方(専行院) - 内藤就相娘、中野清茂養女
- 側室:お八百の方(智照院) - 阿部正芳娘
- 十四男:奥五郎(1813-1814)
- 側室:お以登の方 - 高木広允娘
- 側室:お瑠璃の方(青蓮院) - 戸田政方娘
上記の他、生まれる前に流産した子供も4人いる。
[編集] 人物
- 大樹寺にある位牌からすると、身長は156.6センチである。
- 非常に多くの子を作ったのは15歳で将軍職を継ぐ際に実家の一橋家より子女を多くもうけるように訓戒をうけたためである。
- 壮年時代は毎晩のように晩酌をし、浴びるように飲んでも乱れなかったという。晩年になると節酒に転じた。
- 非常に身体壮健であり、在職した50年間の中で病臥したのは数回の感冒のみであった。
- 「白牛酪」(はくぎゅうらく)という乳製品を大変好んだ。
[編集] 関連項目
| 江戸幕府将軍 | |
|---|---|
| 家康 | 秀忠 | 家光 | 家綱 | 綱吉 | 家宣 | 家継 | 吉宗 | 家重 | 家治 | 家斉 | 家慶 | 家定 | 家茂 | 慶喜 徳川氏 - 将軍家 | |

