循環型社会

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目次

[編集] 法的な解釈

循環型社会形成推進基本法第2条によれば、「循環型社会とは、製品等が廃棄物となることが抑制され、並びに製品等が循環資源となった場合においてはこれについて適正に循環的な利用が行われることが促進され、及び循環的な利用が行われない循環資源については適正な処分が確保され、もって天然資源の消費を抑制し、環境への負荷ができる限り低減される社会をいう」である。

[編集] 基本的な概念

「循環」とは、物事が一ヶ所に留まらずに巡る状態や、姿を変えながらも本質は存在し続けるという考え方を示しているが、特に循環型社会と言った場合は、主に経済活動の途中における資源エネルギーの損失がないことを理想状態として、(消費>ゴミの生成/汚染物質の排出)という流れで一連の経済活動が終わる状態から、(資源の利用>結果として次の活用資源を生成)となるような、社会システムを構築することを指す。

つまり、この場合の「循環型」とは主に天然資源について、「人間が有効に活用出来る状態を保ちつつ状態を遷移させうる、連続的な資源利用システムを成立させること」を意味しており、人的資源や文化的要素の循環状態は概念に含めない。

たとえば、アルミニウム製錬には原料となる鉱物資源ボーキサイト)と共に大きなエネルギーを必要とする。一旦アルミニウムとして製錬した資源(飲料缶など)については、次のアルミ製品の原料素材として再利用(循環利用)することで、精錬や新たなボーキサイトの採掘にかかるエネルギーを節約することができ、さらなるエネルギーを費やして焼却したり埋め立て資材として廃棄してしまうよりも総合的な環境負荷をはるかに小さくできる。

もちろん、リサイクル素材の再製錬にも相応のエネルギーが必要である。しかし原料鉱石からの製錬作業と原産地から消費地までの運搬に費やすエネルギーを含めて考えると、圧倒的に低エネルギー・低環境負荷で済ますことができる。

仮に、これを満遍なく完璧に繰り返していける社会システムを確立したとすると、腐食や破損による不可避の損失は除いて、多くのアルミニウムが常に再利用されることになり、アルミニウムという資源は、社会を循環し続けていると見なすことができるようになる、という考え方である。

それが、どのレベルまで実現可能かはさておき、社会に必要な様々な天然資源において、こうした循環を可能にし、再利用の度合いをより高めていこうとする考え方が「循環型社会」という概念であり、鉱物資源のみならず、農・・水産資源の有効活用から、風力太陽光などの自然エネルギーの活用まで、幅広い分野にわたる概念である。

つまるところ、循環型社会とは資源の枯渇による破局を回避し、永続性の有る社会を実現するための概念の一つであり、省資源/省エネルギー3R活動(リデュースリユースリサイクル)、など個々の意識的な活動を背景として、経済活動におけるこれからの方向性を示す考え方(ビジョン)だと言える。

「持続可能な発展」や「低エントロピー社会」、「ゼロエミッション社会」など、視点の違いによって幾つかの異なる表現が有る。

[編集] 批判の存在

熱力学におけるエントロピーの増大(熱力学第二法則)を例にとり、「完全な循環型社会の実現は原理的に不可能である」といった主張もある。しかし「循環型社会」という概念は「大量消費社会」という概念に対するアンチテーゼとして生み出された哲学的なものであり、物理的/定量的に定義できるものではなく、自然科学の尺度で論ずべきテーマでない。

その他に良く見られる循環型社会及びリサイクル全般に対する反対意見としては、製品のグローバルな運搬や原料の採掘・採集等にかかるエネルギーを除外したり、殆どの工業生産物が、その廃棄や環境復元にかかる最終処理コストを負担しないで価格決定がなされていること(負担を将来に先送りしていること)を考慮せずに、リサイクルのコスト効率の議論をしているものがある。仮にコスト的にリサイクルが不利だったとしても、最低コスト=長期維持ではないので、循環型社会の実現目的が仮に『現在の最低コストによる生産活動』であるならばともかく、『将来に渡って破綻の無い社会の構築』である以上、これらの言説の有効性は乏しいと言える。(『そもそも社会の長期維持に取り組む必要などない』という主張は別として)

また、『全てのコストは市場価格に反映されて(織込まれて)いるはずなので、コストの低い方が環境負荷が低いはずだ。』と言った、証券市場における株価理論の流用による誤解を論拠にしてリサイクルの有効性を否定するという、批判もある。しかし市場価格は基本的に需要と供給のバランスによって決まる物であり、価格決定は人間の欲望の影響を受けるので、往々にして、その重要性よりも希少性が価格を左右する。例えば、食料のように生存に不可欠であっても普遍的に存在する物は、生命維持には全く不要な金やダイヤモンドよりも市場価格が低い。

特に、ビョルン・ロンボルグの著書『環境危機をあおってはいけない』の出版以降、この本の主張をなぞり、環境負荷を単純にコスト換算して論じて見せることが流行した。原本を始めとして、これらの言説の殆どは経済的な現在価値だけで物事を論じており、その論拠に従うならば種の保存も、美しい景観も、汚染されていない水や空気も、全て原材料や観光資源などとしての経済的な価値しか認められないことになる。

全ての要素を市場価格に変換して論じるということは(現実には不可能であるが、仮にそれが可能だとしても)、質的には比較が不可能な物を同列に並べて論じるということにほかならない。そして、『精神的な幸福感』や『美』のように主観的な物、金額として算出不可能な要素は、全て考慮すべき対象から除外されることになる。

この考え方は、上述の『環境危機をあおってはいけない』に一例として上げられているように、『仮に温暖化による海面上昇で水没する国が現れるとしても、地球全体の温暖化を防止する費用と水没しそうな国に堤防を造ってあげる費用を比較すれば、堤防を造る方が安いはずだから、温暖化防止にお金を使うのは合理的ではない。』という一面的な主張に代表される。これを解りやすく言えば、健康を維持するためのコストと病気になってから治療するコストを比較して、平均的な治療費と病気によって失う生産性を合計した損失の方が安ければ、健康維持のために資金を使うべきではない、という考え方であり、個人の幸福を無視して経済的な価値だけを重視するならば正論だと言えるだろう。

[編集] 生態系の視点から

生態系の考えに立てば、物質は元来から循環しているものである。これまでの人間社会では、この点について配慮されたことがなかった。不要物は単純に廃棄され、それは自然の循環システム、あるいは自然の浄化作用に任された。人間の活動量がさほど大きくないあいだは、これでなんとかなったわけであるが、現在ではそれが大きく環境を圧迫するようになった。これを、改めて人間の視野に収め、物質循環を助ける事を考えようというのが循環型社会であるとも言える。

[編集] 関連項目

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