イギリス帝国
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イギリス帝国(イギリスていこく、the British Empire)はイギリスが築いた植民地帝国の呼称である。「大英帝国」ともよばれることもあるが、現在ではより中立的なイギリス帝国という名が用いられることが多い(後述の呼称の節を参照)。アメリカ合衆国の独立以前の帝国を「旧帝国」、それ以降のインドに重心を移した帝国を「新帝国」と区別することもある。植民地が世界中に広がっていたことから「太陽の沈まない国」と呼ばれることもある。
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[編集] 概説
17世紀初頭よりアメリカ大陸への植民を開始し、途中フランスとの植民地戦争、アメリカ合衆国独立とそれに伴うインド重視へ転換などを経て、19世紀末に最盛期を迎える。20世紀初めには世界の地上面積の5分の2に当る3千万平方キロ、人口4億から5億を支配していた。公式の植民地のみならず、経済的従属下にあった周辺地域などの非公式帝国を含める考え方もある。
19世紀初頭までの帝国は強力な海軍によって支えられてはいたものの、利潤獲得手段自体は独占的な勅許会社に依存していた。一方で、階級の固定化されたイギリス本国社会の下層階級出身者に、多大な危険と引き換えに巨額の富と階級上昇の可能性をもたらす場として機能していた。
しかし19世紀半ばになると自由主義的思想から勅許会社が批判の的となり、また安全保障の必要から帝国の経営にイギリス政府が直接介入する様になった。これをきっかけに帝国の性質は変容し、階級上昇の可能性を提供する場から、増加する中流以上の人たちに名誉ある職を提供し、生活と身分を安堵する社会の安定化装置として機能するようになった。
[編集] 形成過程
[編集] アメリカ大陸
北アメリカ大陸に対する本格的な植民が始まったのは17世紀に入ってからで、1607年には最初の永続的植民地ジェームズタウンが設立され、1620年にはピルグリム・ファーザーズによってプリマス植民地が創設された。1643年にはニューイングランド連合植民地となっている。オランダが1624年に設立したニューアムステルダムは英蘭戦争中の1665年英軍に占領され、ニューヨークとなった。
その後も北米におけるイギリス植民地の拡大が続き、18世紀初頭のアン女王戦争(スペイン継承戦争)ではケベックに植民するフランスと衝突した。18世紀半ば、カナダのフランス人は南下してオハイオ植民地に拡大し、ミシシッピ川流域の広大な地域を占有した。七年戦争の局地戦である「フレンチ・インディアン」戦争が起こると英軍はフランス領カナダを征服し、パリ条約で英国は広大なカナダを割譲された。
この戦争で動員されたニューイングランド植民地の人々は次第に英国の圧政に不満を抱き、アメリカ独立戦争(1775年 - 1783年)を起こす。大陸軍総司令官ワシントンの善戦に加え、英帝国の弱体化を望み一般に植民地側に同情的だったヨーロッパ諸国や義勇軍が助力参戦し、イギリスは1783年のパリ講和条約でアメリカ合衆国の独立を承認せざるをえなくなった。独立後も原料供給地兼市場としてのアメリカの役割は変わらず、アメリカ経済のイギリス経済への従属は米英戦争まで継続することとなる。
アメリカ合衆国独立後、イギリスの植民者はカナダを西進して太平洋に達する。カナダは1848年に自治権を認められ、1867年にはオタワに連邦政府が置かれた。カナダは1926年に外交権を付与されて完全にイギリスから独立したが、イギリス君主を国家元首に戴き、コモンウェルスに残った。
[編集] アジア
イギリスは1600年に東インド会社を設立してアジアに進出し、ジャワ島東部のバンテンに拠点を置いて香辛料貿易への食い込みを図った。またマレー半島のパタニ王国やタイのアユタヤ、日本の平戸にも商館を置いて交易を行ったが、いずれもオランダ東インド会社との競合に敗れて敗退した。
このためイギリス東インド会社はインドに注力し、1612年にスラトに商館を設置したのを初め1639年マドラス、1668年ボンベイ、カルカッタにも商館を設置した。インド貿易は成功を収め、これらの商館は次第に要塞化して周辺のインド諸侯を影響下におくようになった。この頃フランスもインド東海岸のポンディシェリを拠点にインドに支配を拡大させており、英仏はインドで対立を深める。欧州で七年戦争(1756年~1763年)が起こるとインドでも英仏間の戦争が始まり、ロバート・クライブはプラッシーの戦いでフランス側のベンガル太守軍を破り、ベンガルの領域支配に乗り出した。七年戦争の結果、フランスはポンディシェリなどに非武装の商館を置くことは認められたが、政治的にはインドから敗退した。イギリスはさらにインド諸侯に対する支配を拡大し、ムガル皇帝まで傀儡化するようになった。1857年に起こったインド大反乱を契機に名目的な存在になっていたムガル帝国を1858年廃し、ヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国を成立させた。
19世紀初頭のナポレオン戦争はイギリスの覇権を樹立する契機となった。オランダが革命フランスの勢力下に置かれたため、イギリスは南アフリカのケープ植民地やセイロン、東インド(インドネシア)などオランダ植民地を続々に占領した。イギリス船はオランダ商館が置かれた長崎にまで来航し、フェートン号事件を起こしている。ウィーン条約によって東インドはオランダに返還されたが、セイロンやケープ植民地は返還されず、イギリスは1815年セイロン内陸部のカンディー王国を征服してセイロン植民地を成立させた。オランダの影響力が弱体化した東南アジアにも再び進出、1819年にシンガポール港を創設し、1826年にはペナン、マラッカを含む海峡植民地を成立させた。イギリスはさらにマレー半島のスルタン諸国を保護領化して19世紀末には英領マラヤを成立させた。また三次に及ぶ英緬戦争によってコンバウン王朝を破り、1886年にはビルマをインド帝国に併合した。
イギリスは中国の広東開港によって1711年には広州に商館を設立し、中国茶を輸入する広東貿易に従事しているが、本国での紅茶ブームにより貿易赤字が急増したためインドのアヘンを中国に売り込み清朝とアヘン戦争(1839年~1860年)を引き起こした。かつての大清帝国もイギリスの軍事力には勝てず、南京条約によって香港島を割譲したほか、上海・アモイなどの沿海5港を開港させられた。さらにアロー戦争(1856年~1860年)でイギリスは九龍半島に支配を拡大させ、さらに多くの中国諸港を開港させた。
[編集] アフリカ
イギリスはナポレオン戦争時に南アフリカのオランダ領ケープ植民地がフランスに占領されることを恐れて、1795年と1806年二度にわたってケープ植民地を占領し、ナポレオン戦争終結後も結局オランダに返還しなかった。しかし、オランダ時代(1652年~1806年)にケープに入植していたオランダ系住民ボーア人は約13,000人に達しており、彼らはイギリスの支配を嫌ってグレート・トレックと呼ばれる北方への大移動を行い、1837年ナタール共和国を建国した。これがイギリスに滅ぼされるとオレンジ川の上流にトランスバール共和国(1852年)とオレンジ自由国(1854年)を樹立した。しかしこの地域で金鉱が発見されると、ボーア人がドイツと結ぶ事を恐れたイギリスは二回に渡る南アフリカ戦争でボーア人国家を併合した。1910年にはケープ、ナタール、トランスバール、オレンジ自由州の4州を合わせて自治領南アフリカ連邦を創設した。
イギリスはこのほか東アフリカのケニア、タンザニア、西アフリカのナイジェリア、ガーナなどを次々と植民地化していった。北アフリカのエジプトはもともとオスマン帝国領で、後にオスマン帝国から独立したが、イギリスはエジプトに与えた膨大な借款を梃子にエジプトを事実上保護国化し、スーダンにも支配を伸ばした。
[編集] オセアニア
オーストラリア大陸は1606年にオランダ人ヴァン・ディーメンによって「発見」されたが、オランダ人が植民を行うこともなく、1770年イギリス人のジェームズ・クックが上陸、ボタニー湾と命名して領有宣言した。その後アメリカが独立したため、イギリスは流刑植民地をニューサウスウェールズに移すことを決め、1788年最初の流刑植民団が送り込まれシドニーを創設した。1801年にはオーストラリア大陸一周航海によって大陸の全貌が明らかになり、1828年大陸全土が英領と宣言された。内陸部への植民が進むなかで原住民アボリジニの大量虐殺がしばしば発生した。1851年金が発見されてゴールドラッシュが起きたため、一般の移民も増え流刑はやがて廃止された。1901年にはオーストラリア連邦が成立、自治領となった。
ニュージーランドは1642年にオランダ人タスマンが「発見」し、1840年イギリスが原住民マオリ族とワイタンギ条約を締結して植民地とした。1907年に自治領となり、1947年正式にイギリスから独立している。イギリスはこのほかサモア、トンガ、フィジー、ソロモン諸島など南太平洋の島々を領有した。
[編集] 大英帝国という呼称
現在の帝国史研究では「イギリス帝国」という表現が用いられ、文学的側面を重視するなど、特に意図した場合を除いて「大英帝国」とは呼ばれなくなってきている。「大英帝国」という表現は地理学的な名称である"Great Britain"と歴史学的な言葉である"the British Empire"が一緒になって生まれた訳語であり、"the British Empire"にはないヘゲモニー国家としての肯定的な価値判断を伴った用語となっている。またこの言葉はイギリスが植民地を失った後についても、やや大仰にイギリスを指す言葉として用いられることがある。
[編集] 地図
[編集] 関連項目
- アヘン戦争
- アロー戦争
- セポイの反乱
- ブーア戦争
- イギリス連邦
- イギリス東インド会社
- グレートブリテン王国
- グレートブリテンおよびアイルランド連合王国
- パックス・ブリタニカ
- ポルトガル海上帝国
- オランダ海上帝国
- フランス植民地帝国
- ドイツ植民地帝国
- アメリカ帝国
- ロシアの南下政策
- 海洋国家
- 列強
- 植民地
- 帝国
- P&O
- ユトレヒト条約
- 名誉ある孤立
- 日英関係
- アジア・アフリカ諸国の独立年表
- アメリカ大陸諸国の独立年表
- 大英帝国勲章
[編集] 外部リンク
- British Empire(英語)
- 古~い世界地図(日本語)
[編集] 関連書
- 長島伸一 『大英帝国』最盛期イギリスの社会史 講談社現代新書934 講談社ISBN 4061489348
- 長島伸一 『世紀末までの大英帝国』近代イギリス社会生活史素描 叢書/現代の社会科学 法政大学出版局 ISBN 4-588-60018-4
- 川北稔 『民衆の大英帝国』 近世イギリス社会とアメリカ移民 岩波書店 ISBN 4-00-002186-9
- 井野瀬久美惠 『女たちの大英帝国』講談社現代新書1407 講談社 ISBN 4061494074
- 細谷雄一 『大英帝国の外交官』 筑摩書房 ISBN 4-480-85779-6
- 横井勝彦 『アジアの海の大英帝国』19世紀海洋支配の構図 講談社学術文庫 講談社 ISBN 4061596411
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