大石大三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大石 大三郎(おおいし だいさぶろう、元禄15年7月5日1702年7月29日) - 明和7年2月14日1770年3月11日))は江戸時代中期の武士安芸国広島藩士。忠臣蔵で有名な大石内蔵助良雄の子。名は良行、のち良武。通称ものちに代三郎、さらに外衛と変えている。

目次

[編集] 誕生

元禄15年(1702年)7月5日、大石内蔵助良雄とその妻大石りくの三男としてりくの実家の但馬国豊岡藩石束源五兵衛毎公邸にて誕生。この頃、父大石内蔵助は山科にいたが、浅野家お家再興が挫折していよいよ吉良家討ち入り計画を進めようという時期にあり、妻りくや子らは罪が連座しないように絶縁されて山科から豊岡に戻されていた。このときにりくは身ごもっており、豊岡で出産することとなる。そして生まれたのがこの大三郎であった。

[編集] 広島藩仕官

その後、父内蔵助良雄や兄主税良金は見事吉良上野介の首級をあげて泉岳寺の主君浅野長矩の墓前に捧げ、お預かりの大名屋敷で切腹した(元禄赤穂事件)。この事件を契機に父大石内蔵助は英雄化したため、その遺児である大三郎を広島藩浅野本家が欲しがるようになり、大三郎が12歳になった正徳3年(1713年)9月に広島藩仕官が決まり、豊岡を出て広島へ移っていった。広島藩では父内蔵助と同じ1500石の知行と広島城二の丸の屋敷を与えられた。

[編集] 広島での大三郎

享保2年(1717年)12月12日に元服し、享保6年(1721年)9月19日には藩主浅野安芸守善吉長の命により浅野氏一族の浅野帯刀忠喬(広島藩家老・知行5000石)の娘と結婚した。なお姉の大石るりも先立つ正徳4年(1714年)にやはり吉長の命によって浅野一族の浅野監物長道と結婚させられている。大石内蔵助の子らを浅野一族に組み込もうという狙いがあったのだろう。しかしこの妻とはうまくいかず、離縁している。藩主の命令による家老の娘との縁組を破棄するのだからよほど気が合わなかったのだろう。そのあと広島藩士岡田助右衛門の娘を妻に迎えたが、やはりうまくいかず、享保19年に離縁。さらに延享2年には広島藩士浅野八郎左衛門の娘を妻に迎えたが、またしてもうまくいかず離縁。ほとんど芸能人なみの女遍歴である。ここまでくると大三郎に問題があったような気がしてならない。内蔵助の息子という金看板が周囲に過大な期待を抱かせた結果、実像とのギャップ、失望という悪影響を及ぼした可能性もある。 なお広島藩内においては旗奉行次席・番頭・奏者頭などの重職を歴任したが、「翁草」などには品行がよくなかったという記事が残る。三田村鳶魚の「横から見た赤穂義士」などでは大三郎が梅毒になって鼻欠けになっただとか、1500石の知行を減棒されたなどと書いているが、これらは俗説に過ぎず、確かな根拠はない。それにそんなものに番頭の地位はまわってはこないだろう。

[編集] 家督相続

明和5年(1768年)3月18日、67歳のときに隠居した。男子が二人あったが、いずれも妾腹であるため、小山孫六郎良至(大石良欽の次男小山良速の孫)の五男良尚を養子に迎えて大石家の家督を継がせた。明和7年(1770年)2月14日に広島にて死去した。享年69。広島の鳳来山国泰寺に葬られた。松巌院忠幹蒼栄。

先代:</dt>
大石良雄</dd>
広島藩士大石家初代当主</dt>
1713~1770</dd>
次代:</dt>
大石良尚</dd>
ことばこって?

「ことばこ」は、歴史の人物から最先端テクノロジーまで、なんでも調べられるオンライン百科事典です。ウィキペディア財団が運営を行なっているwikipedia.orgから引用をしています。

おススメサイト
トラブログ
アレどう?
アフィリエイトB