大河内傳次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大河内 傳次郎(大河内伝次郎、おおこうち・でんじろう。本名・大辺 男(おおべ・ますお)、1898年2月5日1962年7月18日)は、大正・昭和期の俳優。戦前から活躍した時代劇スターである。特に、当たり役の「丹下左膳」の名せりふ、「シェーハタンゲ、ナハシャゼン(姓は丹下、名は左膳)」は多くの芸人に物まねされるなどあまりにも有名。

目次

[編集] 略歴

福岡県築上郡岩屋村(豊前市)大河内に、医者の息子として生まれる。実業家を目指し、大阪に出て、大阪商業学校(現・大商学園高等学校)を卒業後、兄の会社に入るが、関東大震災の影響で会社が倒産してしまう。

その後、劇作家を目指し、大阪府堺市にあった倉橋仙太郎主宰の新民衆劇学校を経て、「第二新国劇」に入る。そこで「室町次郎」の芸名で舞台に立つ。澤田正二郎を敬愛する彼は、映画でその流儀を試みようと、連合映画芸術家協会に入る。

[編集] 時代劇の大スターとして

1925年日活に移り、芸名も「大河内傳次郎」と改める。そこで伊藤大輔監督に見出され、『長恨』、『忠次旅日記』に相次いで主演する。その風格は他の追随を許さず、トップスターに登りつめる。その後も山中貞雄マキノ雅弘らと組み、次々とヒットを飛ばす。

特に伊藤大輔監督・唐沢弘光撮影・大河内傳次郎主演という名トリオのサイレント映画は、昭和始めの不安な世相を打ち払うような、エネルギッシュで斬新な作品であった。「新版大岡政談」のラスト近く、丹下左膳と櫛巻お藤、黒装束の一団とが刀をボールに見たててラグビーさながらの争奪戦が始まると、映画館は興奮した客の叫び声に覆われたと言う。

往時は、バンツマこと阪東妻三郎と並び称されるほどの大スターであった。とくに昭和1ケタ年代には「最高給俳優」と称された。また大戦前・戦中は、阪東妻三郎・嵐寛寿郎片岡千恵蔵市川右太衛門長谷川一夫と共に時代劇六大スタアと称された。

[編集] 晩年

その後、東宝新東宝大映東映と移り、『ハワイ・マレー沖海戦』や『わが青春に悔なし』などの現代劇にも出演するなど、芸域を広げた。往年はバンツマと並び称されるほどの大スターであった彼も、還暦が近づくにつれて自分が主演では客が入らなくなってきたことを自覚しだし、東映入りを決意する。東映時代劇では、片岡千恵蔵市川右太衛門とも共演して貫禄を示した。東映入社時には「過去の栄光は忘れてください」と言われて、以後は脇役に徹することになった。往年のファンは悔しい思いをしたという。

[編集] 山荘造営への情熱

また、儒学者の娘であった母の影響で、敬虔な仏教信者としても有名で、1931年に洛西の藤原定家小倉百人一首の選歌をした小倉山の山麓に「持仏堂」を建てた。後に、広大な和式庭園を自ら設計し、そこで仏教書をひもとき、「南無阿弥陀仏」を唱えてすごした。東映時代劇など晩年の多数の脇役出演によって稼いだ多額のギャラは、その大半が山荘造営に注ぎ込まれたという。現在では、大河内山荘として一般公開されている

[編集] 現存する戦前の出演フィルム

戦前の大スター時代の出演フィルムは、残念ながらその多くが散逸し、かろうじて「御誂次郎吉格子」がほぼ完全な形で残っているに過ぎない。だが1991年春、広島県で「忠次旅日記」三部作の一部が発見され、大河内傳次郎全盛期の演技が多少とも窺われることができようになったのはうれしい限りである。

[編集] 代表作

大河内山荘 大乗閣

[編集] 関連書籍

  • 「日本映画興亡史Ⅱ 日活時代劇」(石割平・編著、円尾敏郎/横山幸則・編。ワイズ出版
  • 「中野シネマ」(中野翠著。新潮社

[編集] 切手になった大河内傳次郎

平成18年(2006年)10月10日、日本郵政公社が発行した特殊切手 「日本映画I」(懐かしの名作) において、大河内演じる『丹下左膳』が「懐かしの名作」10作品(うち時代劇は5作品)の一つに選定され、80円切手になった。

[編集] 外部リンク

ことばこって?

「ことばこ」は、歴史の人物から最先端テクノロジーまで、なんでも調べられるオンライン百科事典です。ウィキペディア財団が運営を行なっているwikipedia.orgから引用をしています。

おススメサイト
トラブログ
アレどう?
アフィリエイトB