大東亜共栄圏

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大東亜地図を示した1942年発行の10銭切手

大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん)とは、東アジア東南アジア日本を盟主とする欧米諸国に対抗するための共存共栄の新秩序(国際秩序)を建設し、欧米諸国(特にイギリス・アメリカ)の植民地支配から東アジア・東南アジアを解放するというスローガンである。大東亜戦争太平洋戦争十五年戦争)において日本が大義名分として掲げた。

日本・満州・中国を一つの経済共同体とし、東南アジアを資源の供給地域に、南太平洋を国防圏として位置づけるものと考えられていた。ドイツにおける「生存圏(Lebensraum)」という発想と密接に関連しており「大東亜が日本の生存圏」であると宣伝された。ただし、「大東亜」の範囲、「共栄」の字義など当初必ずしも明確化されてはいなかった。

用語としては岩畔豪雄と堀場一雄が作ったものともいわれ、1940年7月に近衛文麿内閣が決定した「基本国策要綱」に対する松岡洋右外務大臣の談話に使われてから流行語化した。公式文書としては翌1941年1月31日の「対仏印・泰施策要綱」が初出とされる。ただし、この語に先んじて1938年には「東亜新秩序」の語が近衛文麿によって用いられている。

目次

[編集] 大東亜会議

1943年11月5日11月6日東京で当時の日本の影響下にあるアジア諸国の国政最高責任者を招請して大東亜会議が行われた。そこでは、大東亜共栄圏の綱領ともいうべき大東亜宣言が採択された。

[編集] 参加した国政責任者

[編集] 代理参加

  • タイの総理大臣ピブーンソンクラームは、戦前よりそもそも独立国であったタイが、日本の傀儡政権であった満州国、南京政府、また日本軍占領下にあったフィリピン、ビルマと同列に扱われることに不満を表明、日本側の度重なる慫慂にもかかわらずワンワイタヤーコーンを代理参加させるにとどまった。公式には、健康上の理由によるとされた。

[編集] 陪席者(オブザーバー)としての参加

[編集] 参加できなかった主要な地域

  • マライ 1943年の「大東亜政略指導大綱」は、同地域を「(大日本)帝国領土」と位置づけていたため、いかなる民族代表も参加を許されなかった。
  • インドネシア 1943年の「大東亜政略指導大綱」は、同地域を「(大日本)帝国領土」と位置づけていたため、スカルノハッタが参加を熱望するも容れられなかった。
  • 仏領インドシナ この時期日本はヴィシー政権を承認しており、同地域はヴィシー政権の植民地統治機構を維持したまま日本軍が駐留するという微妙な関係にあった。このため、いかなる民族代表も参加を許されなかった。
  • 朝鮮および台湾 日本の領土であることは所与の事実であるとされ、いかなる民族代表も参加を許されなかった。

[編集] 会議の実際とその歴史的評価

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この会議は、史上初めて有色人種のみが一堂に会して行われたものであり、そのこと自体への歴史的評価は高いといえる。「それまでの植民地対宗主国の主従関係にとらわれたものでなかったため会議はきわめて和やかに進められ、一家族の集会のようであった」という回顧もある一方で、タイ代表ワンワイタヤーコーンがその演説にあって、大東亜宣言案への修正提案が拒絶されたことへの婉曲な批判を行い、またフィリピン大統領ホセ・ラウレルが、インドネシア代表が会議に参加できなかったことへの不満を述べるなど、一程度の緊張感を伴った国際会議であったとの分析もある。

戦後一般の認識としては「会議は東條首相による操り人形たちの集まり」とされている。一方で大東亜共栄圏スローガンを現在も支持する立場からは、大東亜宣言は米英が提唱した大西洋憲章に対抗する形で普遍的理想を高唱するものであったという評価もある。しかし、会議の内容について大東亜宣言を日本が単独で作成し一切の変更を許さないという態度、「大東亜共栄圏」を謳いながら参加国は日本の影響力が強い国々のみであったこと、また占領地域で軍票乱発による搾取などが多発したことから、実質的には日本の勢力圏の拡大を意図したものでしかなかったとの評価もある。

さらに大西洋憲章を提唱した連合国側がその内容の具現化をダンバートン=オークス会議などを通じて着々と進めていったのに対して自国の防衛に追われる日本は大東亜宣言の「高邁な」理想を実現する能力に全く欠けていた点を問題とする見方もある。

日本は第2回目の大東亜会議を開催する計画を持っていたが、戦局の悪化に伴って開催困難となり、1945年5月には代替として駐日代表による「大使会議」が開催されたが、その3か月後に日本は敗戦を迎え、大東亜共栄圏は崩壊した。

[編集] 大東亜共栄圏の実態と評価

上記の大東亜宣言を善解すれば、大東亜共栄圏の目的は、アジアの植民地群を列強の支配から解放、独立させ、EUのような対等な国家連合を実現させることであったとも理解できる。

しかし、東遊運動で日本の支援を求めたファン・ボイ・チャウが、フランスの圧力を受けた日本により国外退去にされ中国に落ち延びざるを得なかったように、日本軍占領下で独立を果たした国々(フィリピンベトナムラオスビルマカンボジア満州国)の政府と汪兆銘政権中華民国)は、いずれも日本政府や日本軍の絶対的指導の下に置かれた傀儡政権であり、ソ連に対する東欧諸国、アメリカ合衆国に対する中南米諸国のような、事実上の植民地衛星国)化を目指したに過ぎないという見方もある。

特にフィリピンとビルマには既に民選による自治政府が存在しており、日本軍の占領下に置かれたことで実質的な独立からはむしろ遠ざかったという見方もある。また、1943年5月31日に決定された*大東亜政略指導大綱ではイギリス領マラヤ、オランダ領東インドは日本領に編入することとなっていた(ただし、蘭領東インドについては、戦争末期にジャワ島のみ独立を認める方針に転じた)。日本の同盟国であったヴィシー・フランスの植民地インドシナ連邦では、日本軍占領下における植民地支配をフランス本国でヴィシー政権が崩壊したのちの1945年3月9日まで承認していた。

日本軍は占領地域に対して、実質的な独立を与えぬまま敗北し撤退したため、日本もまた、かつての宗主国と同じ侵略者に過ぎなかったという見方、一方で日本軍が宗主国勢力を排除したことが結果として独立に繋がったという評価や日本軍統治下で様々な施政の改善が行われたため旧宗主国に比すれば日本はよりましな統治者であったという評価もあり、その功罪に関しては今なお議論が続いている。

[編集] 関連

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