大和 (戦艦)
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1941年10月30日撮影 | |
| 艦歴 | |
|---|---|
| 起工 | 1937年11月4日 |
| 進水 | 1940年8月8日 |
| 就役 | 1941年12月16日 |
| 除籍 | 1945年8月31日 |
| 性能諸元 | |
| 基準排水量 | 64,000トン(完成時) |
| 満載排水量 | 72,808トン(完成時) |
| 全長 | 263.0m |
| 全幅 | 38.9m |
| 平均吃水 | 10.58m |
| 速力 | 28.5ノット(実測) |
| 航続距離 | 16ノットで11,000浬(実測) |
| 乗員 | 竣工時:2,500名 最終時:3,300名 |
| 軸馬力 | 167,310馬力(軸数4。実測) |
| 装甲 | 舷側 410mm 甲板 200mm~230mm 主砲防盾 650mm |
| 兵装 | |
| 新造時 | 3連装45口径46cm砲塔:3基 3連装60口径15.5cm砲塔:4基 40口径12.7cm連装高角砲:6基 25mm3連装機銃:8基 13mm連装機銃:2基 |
| 最終時 | 3連装45口径46cm砲塔:3基 3連装60口径15.5cm砲:2基 40口径12.7cm連装高角砲:12基 25mm3連装機銃:52基 25mm単装機銃:6基 13mm連装機銃:2基 |
大和(やまと)は、大日本帝国海軍が建造した大和型戦艦の一番艦。艦名は、奈良県の旧国名である大和国にちなんで命名された。しばしば大艦巨砲主義の象徴とされる。
太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直後に竣工・就役した。その後、連合艦隊旗艦任務を務め、これは司令部設備に改良が施された同型艦 武蔵が就役するまで継続された。
目次 |
[編集] 沿革
[編集] 建造
大和(計画名A140F5)は1937年11月4日、広島県呉市の呉海軍工廠の造船ドック〔造船船渠〕で起工された(※第4ドック〔第4船渠〕は整備・補修・艤装用ドックで建造用ではなかった)。その乾ドックは大和建造の為に拡張されて、長さが314m、幅45m、深さ11mとなった。米国に本型を超越する戦艦を作らせぬ為に、それは秘密裏に建造され、当初は海軍の中でも一部に知らされているだけだったと言われている。機密保持のため造船所を見下ろせる所には板塀が設けられ、ドックには艦の長さがわからないよう半分に屋根、周囲には干した和棕櫚(わじゅろ。干した物は主に「ほうき」に使われる。ちなみに、そのドックの近所「全ての」干した和棕櫚の葉が無くなり、大騒ぎになったという愉快な話が残っている)がかけられた。建造に携わる者は厳しい身元調査が行われ、造船所自体が厳しい機密保持のために管制下におかれた。
そして1940年8月8日進水、「天皇陛下進水式御臨席」の噂も飛び交う中、結局は海軍大臣代理より、それまで仮称「一号艦」と呼ばれていたこの巨艦は、あえて臨席している面々に聞こえないように小声で“大和”と命名された(なお軍艦の艦名に関しては海軍省の提出した二つの候補から天皇が選定した一つをその艦に命名するのが慣例である)。もっとも、進水といっても、武蔵の様に陸の船台から文字通り進水させるのではなく、大和の場合はただドックに注水するだけであった。しかも、機密保持からその進水式は公表されることもなく、世界一の戦艦の進水式としては非常に寂しいものに思われたという。1941年12月7日公試終了、同年12月16日就役。
なお、大和とは奈良県の旧国名(大和)というばかりでなく、“日本”そのものを象徴する意味合いも含まれており、海軍の本艦にかける期待の度合いが見て取れる(同様の名称として扶桑がある)。正式な呼称は“軍艦大和”である。
また、大和には当時の最新技術が多数使用されていた。球状艦首(バルバス・バウ)による速度の増加、煙突などにおける蜂の巣状の装甲などである。その他、観測用の望遠鏡や測距儀も非常に巨大なものが採用され、レーダー技術などをのぞけば日本としては最高の艦艇となるはずだったのである。
[編集] 戦役
1942年2月12日、連合艦隊旗艦となる。同5月29日、ミッドウェー作戦により柱島泊地を出航したが、後方にいたため海戦には参加せず(機動部隊と同行せずに後方にいた原因として、それなりの巡航速度を持たなかったことがある。ちなみに米側は、その様な戦艦でも、敵機が自艦隊に来襲した際は、戦艦が敵機の多くを引き受けるような戦術を編み出していた)。同6月14日柱島に帰投。
1942年8月17日、ソロモン方面の支援のため柱島を出航。同8月28日、トラック入港。1943年2月11日、連合艦隊旗艦任務を大和の運用経験を踏まえて通信、旗艦設備が改良された大和型2番艦「武蔵」に移揚。5月8日トラック出航、柱島へ向かう。呉では対空兵器を増強し、再びトラックに向かったのは8月16日。3ヶ月前より戦局は悪化し、ソロモン諸島では激戦が行われていた(この頃、トラック島の泊地に停泊していた大和へ「陸軍の高級将校」が海軍の高級将校と戦局を打開する共同の作戦を打ち合わせるために訪れた際、ベッドがありクーラーが効く上に豪華な食事が出て、ソロモン戦線で陸軍の兵士達が、暑い中で野営し粗末な食事をしている事を思い「大和ホテルだ!」と海軍側の高級将校に向かって怒鳴った上、激怒したという話が残っている)。10月中旬マーシャル群島への出撃命令が下る。米機動部隊がマーシャルに向かう公算ありとの情報を得たからである。旗艦武蔵以下、大和、長門などの主力部隊は決戦の覚悟でトラックを出撃した。しかし、4日間米機動部隊を待ち伏せしても敵は来ず、10月26日にトラック島に帰港。
1943年12月25日、トラック島西方180海里で米潜水艦「スケート」より攻撃を受け、3番砲塔右舷に1本被雷する。速力を18ノットに増速した。破口はバルジのみであったにもかかわらず、爆発の衝撃で舷側鋼板の下端部が内側に押し込まれ、装甲鈑構造の支持ブラケットが内側に動いて弾片防御縦壁を突き破り、機械室と火薬庫に想定外の浸水被害を受けた。これは敵弾の命中の衝撃のみで浸水をきたす恐れがあるという致命的な欠陥であった。この支持部の欠陥について、大和は修理時に補強されたが(武蔵は不明)、設計上に起因する部分であり、抜本的改善は困難であった。このことは、米国で大和と同様の構造をしたサウスダコタ級戦艦の防御構造を、モンタナ級戦艦の設計において見直していることからも裏付けられる。 しかし大和は巨艦のため被雷に気づかない者もいた。当時大和には多数の陸兵が乗っていたが、誰一人起きた者はいなかった。乗員は「被雷しても速力を増すとはさすが大和」と不沈戦艦への信頼を強めたという(この話から、書物などによっては「大和は被雷したが装甲が少しへこんだだけ」という物も有る)。
1944年6月15日、マリアナ沖海戦に出撃。機動部隊同士による決戦が繰り広げられる中、米軍攻撃隊に向けて三式弾27発を放った。大和が実戦で主砲を発射したのはこれが最初である。しかし同じ海戦において、周囲艦艇とともに日本側第一次攻撃隊をアメリカ軍機と誤認し高角砲などで射撃、数機を撃墜するという失態も犯している。
同10月22日、レイテ沖海戦に参加。第二艦隊第一戦隊として米軍上陸船団の撃破を目指し出撃。23日早朝に旗艦愛宕が潜水艦に撃沈されたため、大和座乗の第一戦隊司令官の宇垣纒中将が一時指揮を執った。夕方に栗田健男中将が移乗し第二艦隊旗艦となった。24日、シブヤン海で空襲を受け、僚艦武蔵を失う。25日、サマール島沖にて米護衛空母艦隊と交戦、主砲弾を104発発射。大和に突入しようとした駆逐艦ジョンストンを副砲の射撃により撃沈。
但しこれには異説もあり、米側の被害状況と照合すると、まず大和は護衛空母に対して夾叉を得たものの、命中弾は出していない。よく言われる護衛空母ガンビア・ベイに対する砲撃についても、同艦の最初の被弾が0801で、重巡の20.3センチ砲弾を受けたという記録が残っている。大和が空母を砲撃したのは0709までの間であり、大和主砲弾が命中した可能性はほとんどない。
さらにもう一つの異説として、米の護衛空母ガンビア・ベイに大和の主砲弾一発が命中して大火災を起こし、沈没はしなかったが大破したという説である。ただこれは主に当時、乗員であった者からの言葉や日記などから世間に広まったという傾向が強い。
諸説が有るにせよ、米側には0725-0730頃、米駆逐艦「ホール」「ジョンストン」が戦艦からの主砲・副砲弾を受けるという記録が残っている。米側が両艦を砲撃した戦艦としている金剛は、0725にスコールに入ったために射撃を中止しており、同型艦の榛名もこの時刻には射撃していないことから、0727に主砲射撃で「巡洋艦轟沈」を報じた大和の射撃が命中した可能性もある。ただし、この時期には、七戦隊の日本重巡各艦も「ホール」「ジョンストン」を砲撃していたため、これも確実なものとは言えない。
いずれにせよ、この砲撃で米駆逐艦が致命傷を負った形跡はないことから、命中弾があったとしても「戦艦の主砲弾で」艦橋上のMk37射撃指揮装置を吹き飛ばされた「ホール」ではないかと言われている。
また大和が副砲弾を命中させた「ジョンストン」(副砲は「ホエール」にも命中弾を与えたとされている)も、十戦隊の軽巡「矢矧」以下が止めを刺しているため、大和が敵艦を直接葬った可能性はない。なおこの海戦で、大和が電測射撃で重巡鳥海を味方撃ちしたという説もあるが、鳥海及び筑摩が損傷した時期には、日本戦艦がこの両艦を誤射するような射撃機会を得ていないため、これは誤解である。
レイテ沖海戦では往復の航程で米軍の爆撃により第一砲塔と前甲板に4発の爆弾が命中、約4000トンもの浸水を受けるも、戦闘継続に支障は無かった。特に砲塔を直撃した爆弾は、大和の装甲があまりにも厚かったため全く打撃を与えることができずに砲塔の塗装をはがしただけに終わった(ただし、第二砲塔長であった奥田特務少佐の手記によると、爆弾が命中した衝撃で第二砲塔員の大半が脳震盪を起こし倒れたと云う)。
レイテ湾の入り口まで来たが、結局栗田長官は近隣に米機動部隊が存在するとの誤報を受けて反転を命じ、突入することなく引き返している。 引き返す途中、ブルネイ付近でアメリカ陸軍機が攻撃にきた。(残弾が少ないため)近距離に引き付け対空攻撃をし、数機を撃墜した。
[編集] 最期
呉に帰港した後の1945年3月19日、呉軍港が空襲を受けた際、敵機と交戦した。目立った被害はなかった。
同年3月28日、「次期作戦」に向け大和(艦長:有賀幸作大佐、副長:能村次郎大佐、砲術長:黒田吉郎中佐)を旗艦とする第二艦隊(司令長官:伊藤整一中将、参謀長:森下信衛少将)は佐世保への回航を命じられたが、米軍機の空襲が予期されたので回航を中止した。
同年4月6日、第二艦隊は天一号作戦(菊水作戦)により山口県徳山湾沖から沖縄へ向けて出撃する。この作戦は「光輝有ル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揚スルト共ニ、其ノ栄光ヲ後昆ニ伝ヘ」る為にと神重徳大佐(終戦直後、飛行機事故で水死)の発案が唐突に実施されたものであった。一般には片道分の燃料で特攻したとされるが、燃料タンクの底にあった油や、南号作戦で必死に持ち帰った重油などをかき集めて三往復半分の燃料を積んでいたともされている(下記も参照)。
第二艦隊は大和以下、第二水雷戦隊(司令官:古村啓蔵少将、旗艦軽巡洋艦矢矧、第四十一駆逐隊(冬月、涼月(防空駆逐艦))、第十七駆逐隊(磯風、浜風、雪風)、第二十一駆逐隊(朝霜、初霜、霞))で編成されていた。先導した対潜掃討隊の第三十一戦隊(花月、榧(カヤ)、槙(マキ))の3隻は豊後水道で呉に引き返させた。
なお、米軍偵察機 (F-13) により上空から撮影された出撃直後の大和の写真が2006年7月米国にて発見された。当時の大和の兵装状態は未だ確定的な証拠のある資料はなく、この写真が大和最終時兵装状態の確定に繋がると期待されている。
菊水作戦(坊ノ岬沖海戦も参照のこと)の概要は、アメリカ軍に上陸された沖縄防衛の支援、つまり、その航程で主にアメリカ海軍の邀撃戦闘機を大和攻撃隊随伴に振り向けさせ、日本側特攻機への邀撃を緩和し、もし、沖縄にたどり着ければ東シナ海北西方向から沖縄島残波岬に突入、自力座礁し大量の砲弾を発射できる砲台として陸上戦を支援し乗員は陸戦隊として敵陣突入させるというものであった。アメリカ軍の制海権・制空権下を突破して沖縄に到達するのは不可能にちかく、作戦の意義はまさに、一億総特攻の魁(さきがけ)であった。しかも戦争末期には日本軍の暗号はアメリカ軍にほとんど解読されており、出撃は通信諜報からも確認され、豊後水道付近では米潜水艦スレッドフィンに行動を察知され、特に暗号も組まれずに「ヤマト」と名指しで連絡されたという。
当初、第5艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将は戦艦による迎撃を考えていたが、「大和」が西進し続けたため日本海側に退避すると思い航空攻撃を命じた。偽装進路をとらず沖縄に直進していたら、世界最後の戦艦同士の砲撃戦になっていた可能性はあった。
しかし、第5艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンスは戦艦によって大和を沈めようとしたがマーク・ミッチャー中将の指揮する機動部隊がさっさと攻撃してしまった。という説がある。
4月7日12時32分、鹿児島県坊ノ岬沖90海里(1海里は1,852m)の地点でアメリカ海軍艦上機を50キロ遠方に認め、射撃を開始した。8分後、艦爆数機が急降下、1機撃墜、中型爆弾2発を被弾。後部射撃指揮所、2番副砲、対空レーダーが損壊した。以後14時17分まで、米軍航空隊386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)による往復波状攻撃を受ける。主な被害状況は以下のとおり。
- 12時45分 左舷前部に魚雷1本命中。
- 13時37分 左舷(ひだりげん)中央部に魚雷3本命中、副舵が取舵(とりかじ)のまま故障(1345中央に復元固定)。
- 13時44分 左舷中部に魚雷2本命中。
- 14時00分 中型爆弾3発命中。
- 14時07分 右舷中央部に魚雷1本命中。
- 14時12分 左舷中部、後部に魚雷各1本命中。機械右舷機のみで12ノット。傾斜左舷へ6度。
- 14時17分 左舷中部に魚雷1本命中、傾斜増す。
- 14時20分 傾斜左舷へ20度、傾斜復旧見込みなし。総員上甲板(総員退去)を発令。
大和は爆弾の直撃を受け、艦内では火災をおこし艦上では対空兵器が破壊された。米軍の高性能爆薬を搭載した魚雷による効果的な左舷集中攻撃の結果、復元性の喪失と操艦不能を起こした。後部注排水制御室の破壊により、注排水が困難となった。また副舵が故障し、舵を切った状態で固定され、直進乃至左旋回のみしか出来なくなった。この事は傾斜を食い止めるために意図的に左旋回ばかりしていたと勘違いする生存者もいる。これより容易に米軍は大和に魚雷を命中させ得た。傾斜復旧の為に、右舷の外側機械室と3つのボイラー室に、注水命令が出されているが、機械室、ボイラー室は、それぞれの床下にあるキングストン弁を人力で開く必要があり、実際に操作されたかどうかは、生存者もいないため不明である。しかしながら14時過ぎには艦の傾斜はおおむね復旧されていたのも事実である。大和への最後のとどめになった攻撃は、右舷後部からの魚雷攻撃で、大和の艦底を攻撃するために、意図的に深度を深く調節された魚雷が使用された。そのためこの魚雷が命中した時は、艦橋でも今の魚雷は見えなかった、という士官の報告がある。また今までの魚雷命中に無いような 下から突き上げられた後に、艦全体がブルブル振動して、グッグッと沈下したという証言もある。
最後に魚雷が命中してからは20度、30度、50度と急激に傾斜が増し、3分後に総員退去が命ぜられた。しかし、艦内の大半のものに「総員上甲板」は知られず、総員上甲板(総員退去)の発令3分後には大傾斜赤い艦腹があらわになる。艦橋トップの測距所からは、煙突に轟々と海水が流れ込み、そこに兵員も吸い込まれるのが見られた。14時23分横転し海中に没する(転覆が正しいかもしれない)。第2主砲塔 第3主砲塔の弾薬庫が大爆発(機関部が水蒸気爆発を起こしたという説もある)、艦体はバラバラになり海に沈んだ。そのときに発した火柱やキノコ雲は、遙か鹿児島でも確認できたという。爆発は沈没してからという意見と、沈没前という意見と両方あるが、転覆後という点では一致している。大和沈没により古村啓蔵少将は一時は作戦続行を図って暗号を組んでいたものの、結局は作戦中止を司令部に要求し、生存者を救助のうえ帰途についた。
同型艦の「武蔵」が魚雷20本以上・爆弾20発近くを被弾し、炎上しながら9時間程耐えたのに比べ「大和」はいささか早く沈んだ印象があるが、これは被弾魚雷の内1本(日本側記録では7本目)を除いては全て左舷に集中したためと、低い雲に視界を遮られて大和側から敵機の視認が困難を極めたからであり、大和の操艦や性能が武蔵に劣っていたわけではない。米軍航空隊は「武蔵」一隻を撃沈するのに5時間以上もかかり手間取った点を重視し、大和型の攻略法を考えていた。その方法とは片舷の対空装備をロケット弾や急降下爆撃、機銃掃射でなぎ払った後、その側に魚雷を集中させて横転させようという物で、実際に第一波攻撃では「大和」は魚雷を被弾していない。しかしながら、米軍側と日本側の戦闘記録による命中数と被弾数には大きな食い違いがあり、魚雷に至っては米軍側は一説では30本以上の命中を主張しており、その戦闘の激しさを物語っている。
また、大和も武蔵も設計上防弾と浸水防御を重点的に施した(いわゆる集中防御方式)部分(主砲、機関部)には被害がなく、それに浮力を与える前後の非防弾区画に水雷や爆弾を集中的に受けた結果として浮力を失って沈没していたので、その部分への水密鋼管の充填、防水隔壁の強化をしていれば「一度の航空攻撃では、大和も武蔵も沈まなかった」との意見が戦後旧海軍関係者に存在した。しかし大和型戦艦は、バイタルパート以外の非防御区画がすべて破壊され浸水しても、バイタルパートのみの浮力で、艦弦を水面上に保つことができるように設計されており、この意見は誤りである。また、主砲は傾斜5度、副砲は10度、高角砲は15度以上になると射撃不能となるため沈まずとも戦力となったかどうかは疑問である。
なお、菊水作戦時、沖縄までの片道分の燃料しか積んでいなかったとされていたが、実際には約4,000(満載6,500)トンの重油を積んでいた。重油タンクの底にある計量不能の重油を各所からかき集めたもの、及び海上護衛総隊割り当て分7,000トンの内4,000トンを第2艦隊向けに割り振ったためで、実際にはその量だと全速力でも3往復はできたという。とはいえ、空襲への回避運動や敵艦隊との水上戦が発生したなら、長時間に及ぶ高速での迂回航行を想定する必要があったし、また戦術的な擬装航路の実行なども合わせて考えるなら、決して余裕のある燃料量ではなかったとも言われている。 なお、うまく沖縄本島に上陸できれば乗組員の給料や物資買い入れ金なども必要とされるため、現金51万805円3銭が用意されていた(2006年の価値に換算して9億3000万円分ほど)。また出撃に先立ち(5日午後)、傷病者と若干の老兵、兵学校卒業直後の53名の士官候補生が退艦させられた。
戦死者は伊藤整一第二艦隊司令長官(戦死後大将)、有賀幸作艦長(同中将)以下2,740名、生存269名。
戦艦大和の沈没によって、連合艦隊は引導を渡されることになった。1945年4月25日、連合艦隊だけでなく海上護衛総隊及び各鎮守府をも指揮する海軍総隊が設けられ、終戦まで海上護衛及び各特攻作戦の指揮を執る。
[編集] 海上特攻の経緯
『戦艦大和』(児島襄著)によると、4月2日矢矧での幕僚会議では次の3案が検討された。
- 航空作戦、地上作戦の成否如何にかかわらず突入戦を強行、水上部隊最後の海戦を実施する。
- 好機到来まで、極力日本海朝鮮南部方面に避退する。
- 揚陸可能の兵器、弾薬、人員を揚陸して陸上防衛兵力とし、残りを浮き砲台とする。
この3案に対し古村少将、山本大佐、伊藤中将ら幕僚は3.の案にまとまっていた。 しかし突然4月4日神重徳大佐から電話により特攻作戦が伝えられた。 この命令は連合艦隊司令長官と軍令部総長の決裁後に軍令部、連合艦隊の幹部に通告されたため反論しようがなかった。
特攻命令を伝達に来た聯合艦隊参謀長草鹿龍之介中将に対し伊藤中将が納得せず、無駄死にとの反論を続けた。自身も作戦に疑問を持っていた草鹿少将が黙り込んでしまうと、たまりかねた三上中佐が口を開いた「要するに、一億総特攻のさきがけになっていただきたい、これが本作戦の眼目であります」その言葉に伊藤中将もついに頷いたという。
『戦藻録』(宇垣纏中将日誌)によれば、及川古志郎軍令部総長が「菊水一号作戦」を天皇に上奏したとき、「航空部隊丈の総攻撃なるや」との御下問があり、「水上部隊を含めた全海軍兵力で総攻撃を行う」と奉答したので第二艦隊の海上特攻も実施されることになったということである。
[編集] 現在
現在の大和は、北緯30度43分、東経128度04分、長崎県男女群島女島南方176キロ、水深345mの地点に沈没している。艦体は1番副砲を境に前後二つに分かれ、艦首は北西(方位310度)に、艦尾部は東(方位90度)方向を向いている。右舷を下にした艦首部より1番副砲までの原型をとどめた部分、転覆した状態の3番主砲塔基部付近より艦尾までの原型をとどめた後部が約170メートルの間に、原型をとどめぬ艦中央部は一つの起伏となり艦尾艦首の70メートル南に転覆した状態で、根元から折れた艦橋は艦首の下敷きとなり、各々半分泥に埋まった状態で沈んでいる。3つの主砲はすべて転覆時に脱落しており、砲塔の天井をしたにして海底に塔のように主砲構造物が直立している。主砲砲身自体は泥に埋もれており観察できていない。また2番砲塔のみ酷く破損しており、沈没時に2番砲塔の弾薬庫が爆発したことを示す証拠といわれている。1番と3番主砲には著しい損壊は認められていない。2つの副砲も同様に転覆した状態で海底にあるが、こちらは砲身が指認されている。(NHK特集『海底の大和、巨大戦艦四十年目の鎮魂』にて放送)。
4つのスクリューのうち 3つは船体に無傷で付いているが、1本は脱落して、海底に突き刺さっている。沈没時の爆発でスクリュー軸が折れて、脱落したものと思われる。舵には損傷はない。艦首部分には 左右に貫通している魚雷命中穴があり、その他にも多数の破孔があるようだが、詳細な位置は一般には公開されていない。
[編集] 歴代艦長
(階級はいずれも大佐)
- 宮里秀徳:1941年9月5日~(艤装委員長)
- 高柳儀八:1941年11月1日~
- 松田千秋:1942年12月17日~
- 大野竹二:1943年9月7日~
- 森下信衛:1944年1月25日~
- 有賀幸作:1944年11月25日~
[編集] フィクションの中の大和
詳細は大和型戦艦に関連する作品の一覧を参照
[編集] 主要参考文献
[編集] 通史
- 児島襄『戦艦大和』(文春文庫、1986年)上巻 ISBN 4167141051 下巻 ISBN 416714106X
- 渡部真一『戦艦大和 びっくりデータ99の謎』(二見文庫、1994年) ISBN 4576941178
- 平間洋一 編『戦艦大和』(講談社選書メチエ、2003年) ISBN 4062582694
- 原勝洋『戦艦大和のすべて』(インデックス・コミュニケーションズ、2005年) ISBN 4757302894
[編集] 建造記録
- 原勝洋 編『戦艦大和建造秘録 完全復刻 資料・写真集』(KKベストセラーズ、1999年) ISBN 4584170762
- 御田重宝『戦艦大和の建造』(徳間文庫、1999年) ISBN 4198911525
- 前間孝則『戦艦大和誕生』(講談社+α文庫、1999年)上巻 ISBN 4062564017 下巻 ISBN 4062564025
[編集] 図面集
- 日本造船学会 編『昭和造船史 別冊 日本海軍艦艇図面集』(原書房明治百年史叢書第242巻、1978年) ISBN 4562003367
- 岡本好司『スーパーイラストレーション 戦艦大和』(モデルアート社1993年9月号臨時増刊 No.414)
- ヤヌス・シコルスキー 著\原勝洋 訳、監修『戦艦大和図面集』(光人社、1998年) ISBN 4769808453
[編集] 写真集
- 原勝洋 編『戦艦「大和」 永遠なれ!』(KKベストセラーズ、2005年) ISBN 45844170975
[編集] 戦記
- 吉田満『戦艦大和』(角川文庫、1968年) ISBN 4041281016
- 吉田満『戦艦大和ノ最期』(講談社文芸文庫、1994年) ISBN 4061962876
- ノンフィクション、戦争文学の古典と位置付けられている。しかしその内容の真実性については一部疑問も投げかけられている(駆逐艦の短艇指揮官の行動など)。
- 吉田満・原勝洋 編『ドキュメント戦艦大和』(文春文庫新装版、2005年)ISBN 4167349043
- 原勝洋『日米全調査 決戦戦艦大和の全貌』(アリアドネ企画、2004年) ISBN 4384033893
- レイテ沖海戦における大和艦隊の実態、巻末付九四式四十糎砲塔兵器学教科書。
- 阿部三郎『特攻大和艦隊 帝国海軍の栄光をかけた十隻の明暗』(光人社NF文庫、2005年) ISBN 4769824580
- 原勝洋『真相・戦艦大和ノ最期 写真と新資料で解明!』(KKベストセラーズ、2003年) ISBN 4584187576
- 辺見じゅん『決定版 男たちの大和』(角川春樹事務所ハルキ文庫、2004年)上巻 ISBN 4758431248 下巻 ISBN 4758431256
[編集] 証言集
- 原勝洋 編『伝承・戦艦大和』(光人社、1993年)上巻 ISBN 4769806663 下巻 ISBN 4769806671
[編集] 海底探査記録
- 辺見じゅん・原勝洋 編『戦艦大和発見』(角川春樹事務所ハルキ文庫、2004年) ISBN 475843123X
- テレビ朝日出版部 編『戦艦大和 海底探査全記録』(テレビ朝日事業局出版部、1999年) ISBN 4881312367
[編集] 関連項目
- 愛称“大和ミュージアム”、1/10スケールの戦艦大和が再現されている。
[編集] 外部リンク
- 呉市海事歴史科学館 (愛称:大和ミュージアム)
- 戦艦大和の世界
- Naval Historical Center (英語)
- 戦艦大和の海上特攻の真相(鳥飼行博研究室)
| 大日本帝国海軍の戦艦・巡洋戦艦 |
| 創設から日露戦争終結まで |
| 富士型: 富士 | 八島 敷島型: 敷島 | 朝日 | 初瀬 | 三笠 |
| 日露戦争後からド級戦艦まで |
| 香取型: 香取 | 鹿島 薩摩型: 薩摩 | 安芸 筑波型: 筑波 | 生駒 鞍馬型: 鞍馬 | 伊吹 |
| ド級戦艦建造から第一次世界大戦まで |
| 河内型: 河内 | 摂津 金剛型:金剛 | 比叡 | 榛名 | 霧島 扶桑型: 扶桑 | 山城 伊勢型: 伊勢 | 日向 |
| 八八艦隊計画 |
| 長門型: 長門 | 陸奥 加賀型: 加賀 | 土佐 天城型: 天城 | 赤城 | 愛宕 | 高雄 紀伊型: 紀伊 | 尾張 | (駿河) | (近江) 十三号型巡洋戦艦: 十三号艦 | 十四号艦 | 十五号艦 | 十六号艦 |
| 太平洋戦争 |
| 大和型: 大和 | 武蔵 | 信濃 | 百十一号艦 超大和型: 第七九七号艦 |
| 戦利艦 |
| 日清戦争戦利艦: 鎮遠 日露戦争戦利艦: 石見 | 肥前 | 丹後 | 壱岐 | 周防 | 相模 第一次世界大戦戦利艦: トゥルグット・レイス | ナッソー | オルデンブルク </div> ■テンプレート/■ノート
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