多聞山城
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多聞山城(たもんやまじょう)は、奈良県奈良市にあった松永氏の居城となった平山城。多聞城とも呼ばれる。
[編集] 概要
松永久秀によって眉間寺山と呼ばれていた山に築城された。城には多聞天が祀られてたため多聞山城と呼ばれ、現在でも城跡の山は多聞山と呼ばれている。東に奈良への入り口である奈良坂を、更に南東に東大寺、南に興福寺をそれぞれ眼下に見る要地に位置し、大和国支配の拠点となった。城内には御殿などの豪華な建築が建ち並んでいたが、中でも四層の多聞櫓は、安土城をはじめとする近代城郭における天守閣の先駆けとなった。その豪華絢爛さは、宣教師ルイス・フロイスによってヨーロッパにも伝えられた。
1562年には松永久秀が入城した。1573年、久秀は将軍足利義昭と同盟し織田信長に反旗を翻したが、圧倒され信貴山城に立て篭り、ほどなく降伏。多聞山城には明智光秀、次いで柴田勝家が入った。翌1574年、信長が検分のため多聞山城に入城。信長が正倉院に伝わる名香「蘭麝待」を切り取ったのはこの折である。1577年(天正5年)、久秀は再び反旗を翻したが信貴山城で爆死。それまでに、多聞山城は筒井順慶によって破却された。石材の多くは筒井城に用いられ、更に郡山城にも移されたという。
現在の城跡は奈良市立若草中学校になっている。周辺には多聞山城の石垣として使われた石仏が幾つか残っている。
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