土肥実平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

土肥次郎実平 から転送)

土肥 実平といの さねひら、生没年不詳)は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将桓武平氏良文流中村宗平の次男。弟に土屋宗遠がいる。通称:次郎。

土肥の椙山の「しとどの窟」。真鶴にも「しとどの窟」跡がある。

実平は相模国の有力豪族中村氏の出で、足柄郡土肥郷を本拠とし早川庄預所を勤めた。現在のJR湯河原駅から城願寺の辺りが居館であったと言われている。

治承4年(1180年)、源頼朝が挙兵すると嫡男の遠平ら中村一族を率いて参じている。石橋山の戦いで敗北すると、軍勢を分散させ七~八騎で頼朝と共に落ちのびた。頼朝主従が「しとどの窟」に隠れていたのを梶原景時が見逃した逸話はこの時のこと。この後、実平の用意で真鶴から房総半島安房国へ脱出した。

頼朝は千葉氏上総氏らの参陣をえて反攻。関東から大庭景親平家勢力を駆逐しすることに成功する。以後、実平は富士川の戦い常陸国志田義広討伐などに従軍。

寿永3年(1184年)1月、源義仲討伐に従軍し(宇治川の戦い)、合戦後、大江山に派遣されの入口を守った。同年2月の一ノ谷の戦いでは源義経の軍に属して戦う。三草山の戦い後、義経は一万騎を二手に分け、実平は七千余騎を引きつれ、一の谷の西の手に進んだ。合戦後、吉備三国(備前備中備後)の惣追捕使(守護)に任ぜられた。山陽道を守り、源範頼の進軍を支援する。

文治5年(1189年)、奥州合戦に参加。

建久2年(1191年)7月18日、厩の上棟(『吾妻鏡』)の記述を最後に、実平は史料から姿を消している。

法名:實渓大眞 また、通玄院仁山義公  墓所:神奈川県湯河原町の万年山城願寺

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

ことばこって?

「ことばこ」は、歴史の人物から最先端テクノロジーまで、なんでも調べられるオンライン百科事典です。ウィキペディア財団が運営を行なっているwikipedia.orgから引用をしています。

おススメサイト
トラブログ
アレどう?
アフィリエイトB