吉備国
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吉備国(きびのくに)は、現在の岡山県全域と広島県東部と香川県島嶼部および兵庫県西部(佐用郡佐用町の一部と赤穂市の一部)にまたがる古代有数の地方国家の一つであった(他には筑紫、出雲、ヤマト、毛野などがある)。
[編集] 概要
出雲征服を試みるも完遂寸前に出雲東部の意宇王の前に失敗。以後、ヤマト政権と同盟して列島の統一・治世に貢献し、古墳時代から飛鳥時代まで繁栄した地方として重視された。河内王朝時代には、ヤマト政権中央部に対抗するほどの勢力を誇ったが、これがヤマト政権の警戒を呼んだのか、後はヤマト政権の謀略などで勢力が削減されて行った。
古墳時代、吉備地方の現在の岡山平野南部は内海となっていた(吉備穴海、もしくは吉備内海と呼ばれる)。4世紀からこの内海の近くに多数の前方後円墳が造られた。この地方独特の特殊器台・特殊壺は、後に埴輪として古墳時代に全国に広まった。
5世紀にヤマト政権内で権力を掌握した大泊瀬幼武大王(諱名:雄略天皇)は地域国家連合体であった国家をヤマト王権に臣従させて中央集権を進めるために、最大の地域政権の一つ吉備に対して「反乱鎮圧」の名目で屈服を迫った。吉備下道臣前津屋の乱(463年)と吉備上道臣田狭の乱(463年)の「反乱鎮圧」を成功させてヤマト王権の優位を決定づけ、さらに雄略の死の直後の吉備稚媛(雄略妃)と星川稚宮皇子(雄略の息子)の乱(479年)でまたしても吉備の勢力を削減させている。 6世紀半ばからは巨大な石で構成した横穴式石室を持つ円墳が造られた。吉備は弥生時代からの塩の生産地であり、さらに6世紀後半には鉄生産が開始された。造山古墳、作山古墳は建造当時で全国最大級、日本全史を通じても全国4位・9位の巨大さを誇り、吉備地方の繁栄とこの地の豪族の力を示すものである。
これら古墳の前にあたる前方後円墳時代の吉備と、後にあたる7世紀の吉備地方には、複数の豪族が並び立っていたと考えられている。造山古墳・作山古墳を統一的な吉備政権の存在の証とする説と、この時代にも複数の有力豪族の連合政権であったとする説がある。『国造本紀』によれば、吉備地方には吉備氏のもとに大伯氏、上道氏、三野氏、下道氏、加夜氏(賀陽氏、賀夜氏、香屋氏)、笠臣氏、小田氏があった。この中の下道氏と笠氏は、後に朝臣の姓(かばね)を名乗る(吉備朝臣)。奈良時代に日本をリードした学者・政治家の吉備真備は下道氏である。
ヤマト政権は吉備国の強大さを警戒し、7世紀後半に備前国、備中国、備後国に分割、8世紀にさらに美作国を分立させた。
吉備大宰、吉備総領は、日本書紀、風土記に散見される官職で、吉備国分割の前後に設置されたらしい。職掌、管轄範囲、存続期間は伝わらない。大宰府の前身とおぼしき筑紫大宰とともに、中央から派遣され、管下の複数の国の外交と軍事を統括する任務を負ったものと推測される。史料に見える最後は、文武天皇4年 (700年) の吉備総領任命記事である。遅くとも大宝律令制定までに廃止された。

