史的イエス
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史的イエス(してきイエス)とは、いわゆるイエス・キリストを、史的面で学術追求した人物像である。信仰上のイエス像等は、他の観点からみたイエス像の項を参照のこと。
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[編集] 史的イエスをめぐる議論の経緯
史的イエスの実像の探求においては、近代の新約聖書学がキリスト教会によってイエスの事績を記したとされてきた福音書を歴史学的にどう評価してきたのかという問題と、大きな関連を持っている。
マタイ、マルコ、ルカの共観福音書のうち、最初に書かれたのが素朴なマルコによる福音書であると言う「マルコ優先説」をカール・ラハマンが提出(1835年)すると、マルコ福音書の分析に基づけばイエスの歴史的実像にたどり着けると言うのが当時の学者の大方の見方となった。ホルツマンはこの学説に基づき、福音書は救い主(メシア)であるイエスが自己を啓示する過程の記述であるとの見解を提出した(1886年)。
しかしこの見解はヴレーデが提出した「メシア秘密」の研究によって深刻な打撃をこうむることになる。つまり、福音書の中にイエスが弟子や人々に対し自分をメシアであることを言いふらすることを禁じる命令をしている(メシア秘密)のはイエス自身がそもそもメシアとしての自覚を持っていなかったためで、そのような記述は当時の教会神学が生んだものであると断じたのである(1901年)。これに対してアルベルト・シュバイツァーは「イエス伝研究史」を著わし、これまでのイエス研究そのものが研究者の思想的背景の単なる投影に過ぎないことを明らかにし、イエスは終末論的世界観の中に生きておりメシアとしての自覚を持っていたと言う見解を表明した(1906年-1913年)。
その後、J・ヴァイスはこのような教会神学の所産である福音記者の編集部分を取り除くことでイエスの歴史像を解明しようと、マルコの分析を行なった。しかし、伝承の編集は予想以上に複雑な過程を経ていると判断した(1903年)。またユリウス・ヴェルハウゼンは、マタイとルカから再構成される仮説上のイエスの言葉資料であるQ資料が形作られる過程においても、マタイとルカにおけるQ資料の編集においてすらも、教会神学が作用していると主張している(1905年-1909年)。つまり批判的立場に立った場合、すべての福音書に編集の手が加わっていると考えられるため、福音書成立の順序に基づく研究のみでは歴史的なイエス像はわからないばかりか、後代成立の福音書の部分であると言う理由で重要な伝承が切り捨てられてきた可能性すら出てきた。
ここで、すでに編集されて福音書を形作っている個々のイエスの言葉や物語それぞれの編集の過程と歴史的な位置付けをしようとする「様式史研究」と言う試みがM・ディベリウス(1919年)やルドルフ・カール・ブルトマン(1921年)らの一群の学者によって始められた。この研究方法では、イエス伝承の形成者としての原始教団と言う集団は固有の「文体」、「様式」、「文学類型」を生み出したと想定し、個々の伝承がどのようにして生まれ、どのように個々の福音書の現在見られるような位置に編集されるに至ったか、歴史的経緯を明らかにすることを目的としている。したがって、物語の中のどの言葉が編集のために福音記者が補った言葉(編集句)であるか特定をすることで伝承を洗い出すことが行なわれ、「論争」、「奇跡行為」、「伝説」などの教団の「生活の座(Sitz im Leben)」のどこにその伝承が位置付けられるかを明らかにすることで、イエスの歴史的実像に関する諸伝承の成文化以前の歴史的価値を決定しようとする。
この「様式史研究」をさらに発展させた新たな試みがH・コンツェルマン(1960年)らによって始められた。この研究を「編集史研究」と呼び、それぞれの福音書がどのように編集されたか(編集句)を想定することで、それぞれの福音書の著者の思想的傾向や文書成立の歴史的背景による文書の特性や編集方法の特異性が明らかとなると主張、それらの福音書ごとの特性を傍証にして、歴史的なイエスの実像にさらに迫れる足がかりとしようとする。日本でも荒井献、田川建三らによって進められている。
これらの議論の経緯からもわかるとおり、史的イエス研究は、主たる歴史資料となる福音書そのものの歴史的な価値をどう評価するかという学説に大きく左右されている。また同じ研究方法を採用しても個々の語句の歴史的評価が学者によって違うため、学者によって結論が大きく異なる場合が日常茶飯事である。さらに日本における編集史研究の流行のなかでは学説で想定された資料であるQ資料の存在による二資料仮説を前提とした議論が大きくなされているのとは対照的に、欧米においてはマルコ福音書の先行性を否定したりQ資料の存在に強く反対する史的イエス研究も根強く存在していることには、特に注意が必要である(Q資料および福音書の「共観福音書の問題」の項参照)。
史的イエスの問題をめぐって、聖書学界全般の「定説」とできるような研究法や学説は意外に少ないといえよう。
(参考文献)
ブルトマン,ルドルフ「共観福音書伝承史 Ⅰ」加山宏路訳 新教出版社 1983年 p.7-16「課題と方法」
シュヴァイツアー,アルベルト「わが生活と思想より」竹山道雄訳 白水社 1959年 p.37-62「四:聖餐研究とイエス伝」「五:大学教授、イエス伝研究史」「六:史実のイエスと現代キリスト教」
田川建三「原始キリスト教史の一断面 福音書文学の成立」勁草書房 1968年 p.8-23「序論第二章 方法論」
ボルンカム,ギュンター「ナザレのイエス」善野碩之助訳 新教出版社 1961年 p.299-316「補説」
[編集] 史的イエス研究によるイエス像
[編集] イエスの生年
一般に、イエスの生年は紀元前7年 - 紀元前4年頃とされているが、これはマタイによる福音書の、イエスがヘロデ大王の治世(紀元前37年 - 紀元前4年)の末期に生まれたからという記述から推定されているものである(2章。しかし、マタイのこの伝承を事実とする積極的な根拠はない。キリストの降誕参照)。父はヨセフ、母はミリアム(マリア)という名前であったことは、エルサレム教団にイエスの親族であるヤコブ(イエスの兄弟姉妹はヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの4人の男子と女子2人がいたとされる)がいたとされることを思えば、信用しても良いのかもしれない。イエスの幼少時代はルカのみが伝えるが、これは史実としては認められていない。イエスは、アラム語の話者であったと言われている。
[編集] 洗礼者ヨハネとの関係
四福音書のいずれにも、洗礼者ヨハネに洗礼(バプテスマ)を受けたことが記述され、また何度もヨハネに対する優位が強調されていることから、イエスは当初ヨハネの運動に参加しており、その弟子であった可能性は高い。ヨハネは世捨て人のような存在で、その隠者的な生活から、エッセネ派との関係が指摘される。異なるのは、エッセネ派が完全に民衆から離れた生活を送っていたのに対し、ヨハネは民衆に説教をしていたということである。
イエスはヨハネともさらに異なる。エッセネ派の出身と考える学者もいるが、賛同は得られていない。ヨハネはヨルダン川のほとりに留まり、そこを訪れたものに対して説教をしたが、イエスは自分の足で方々を歩き回り、教えと癒しをしてまわったのである。加えて、生前のイエスのおこないに対する悪評を伝えている可能性のある一句、「大食で大酒飲」(マタイ 11:19)はエッセネ派の厳格主義と大きく異なっているといえる。
[編集] イエスの没年
イエスの没年は、当時のユダヤ総督ポンテオ・ピラト(ポンティウス・ピラトゥス)の在位が、紀元26年 - 36年であること、それに前述したイエスの生年の上限が紀元前4年であること、またイエスが30歳ごろに宣教を始めたというルカの記述(3章 23節)等から総合的に判断して、紀元30年前後と考えられる。伝道の期間は、四福音書に記録されている祭りの回数などから、1 - 3年ほどという非常に短い期間だったと思われる。十字架刑であったことも、四福音書内の伝承の性格から見て、極めて確度が高いといえるようである。
[編集] イエスの思想
史的イエスの思想を考えるには、福音書中に記述されているイエスが語ったとされる言葉から、真正なイエス語録を抜き出す作業が必要である。19世紀にはマルコによる福音書に基づいて復元が可能であるとも期待されたが、研究の進展は、福音書がイエス語録と筆者の神学的立場の容易にほどきがたい統合であることを示した。とくにイエス語録と発言の状況の組み合わせは、実際の状況より多く福音書著述時の状況を反映しているといわれる。したがって真正なイエス語録の復元は難しく、復元の試みはいずれも推量の域を出ない状態にある。
比較的近年までは、イエスの思想の核を当時のユダヤ教批判ならびに終末論と捉える解釈が多数派であった。即ち、次のようなものである ── いまや、神の国の到来は近い。(マタイ 4:17)その時、人は裁かれ、善人は神の国に入り、悪人はゲヘナ(地獄)に処される。(マタイ 10:28)お前たちは神の国に入れるよう、善く生きよ ── この場合、イエスの「敵を愛せ」(マタイ 5:44)であるとか「人を裁くな」(ルカ 6:37)といった倫理的な教えは、この天の国へ入ることを目的とする、その具体的方法・手段と考えられ、またファリサイ派に代表される既成宗教としてのユダヤ教はこの教えから逸れたものとしてイエスの教えと対置される。
一方、1980年代以降、福音書の原資料として想定されるQ資料仮説に基づき、終末論をイエスの思想の核とは考えず、イエスをキュニコス派(犬儒学派)的な知恵の教師とみなす研究者も現れ(バートン・L・マック他)、ある程度の数を占めるようになった。
[編集] 史的イエスの課題
[編集] 「イエス」と「キリスト」概念
「イエス」と「キリスト」は、キリスト教成立以前の時代には、別個の概念であった。
日本語の「イエス」(「イエズス」「イイスス」とも)に相当するギリシア語のイエースース(Ιησους Iēsous)は当時のユダヤ社会では普通に見られた固有名である。イエースースはアラム語イェーシュア(ישוע Yeshua')(ヘブライ語のイェホーシューア יהושע Yehoshua'。日本ではヨシュアと訳す)のギリシア語音訳である。旧約聖書にも「ヌンの子ヨシュア」および「シラの子イエス」などの名前が見え、また同時代資料にもナザレのイエス以外の何人かの「イエス」についての言及がある。
これに対し、「キリスト」(Χριστος Christos)はユダヤ教の王・祭司、転じて救済者を表すメシア(原義・油注がれた者)をギリシア語に意訳した語で、本来称号である。(詳細は「イエス・キリスト」「キリスト」の項参照)。
従って、両者が結合した「イエス・キリスト」とは「救済者としてのイエス」を意味することとなる。これは厳密にはキリストの救済を信じる信者にのみ意味をなす言葉である。しかしながらキリスト教の成立と並行して「キリスト」は「イエス」の別称として用いられており、キリスト教徒だけでなく、非キリスト教徒であるタキトゥスやスエトニウスら古代ローマの歴史家たちは、「キリスト」に相当するラテン語名をナザレのイエスと同義の固有名として用いている。
なお西方教会ではイエスの神性が強く意識されたためか、イエスおよびキリストが個人名に用いられることは少ない。これに対して東方教会、特に地中海世界に属するギリシア、シリアなどでは「イエースース」(イーサー)や「クリストス」はごく普通に個人名として用いられる。
[編集] イエスの実在性に関する議論
19世紀に行われた史的イエスを福音書の言行から復元する試みは、20世紀前半にかけて、聖書内に描かれているイエス像が現実性を欠くことや、また、福音書や外典のイエス伝が、大部分で相互に矛盾するといったことを理由に、一旦はイエスの実在を否定するまでに到った。
一方で初期キリスト教の形成は、数々の殉教者を出した教団活動のその始点に、教団指導者への深い帰依を想定しなければ理解し難い。このため今日の初期キリスト教学・古典文献学・歴史学などでは、ほぼ誰もが一次史料を欠くにもかかわらずイエスの実在に高い蓋然性を認めている。
新約聖書および他のキリスト教文書から復元されるイエス像は
- 「ナザレのイエス」と呼ばれるユダヤ教徒の男性であり、洗礼者ヨハネの教団となんらかの関わりがあった
- ガリラヤ周辺で、少なくとも1年弱、長くても3年弱の期間、宗教活動をおこなった
- ローマ皇帝ティベリウス治下、ポンティウス・ピラトゥスがユダヤ属州の総督だった時(26-36年)に処刑された
などである。
[編集] 史料上の課題
イエスの実在を確証する同時代のキリスト教文書以外の一次史料は、現在も未発見である。
イエスの事績を記述するキリスト教文書(聖書)についても、現在残されているイエスに言及する最古の史料は新約聖書内のパウロの真正書簡であるが、この筆者のパウロは生前のイエスと直接には会っていない。パウロが会ったのは死して「復活」後のキリストという。他の新約の全文書については、古来イエスの直弟子たち、使徒マタイ、使徒ヨハネ、使徒ペテロなどに帰せられていた文書群は、より後の1世紀後半以降に成立したと推定されるため、これらの文書の筆者もイエスを直接には知らないはずである。
キリスト教外の文書では、フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』やタキトゥスの『年代記』等のごく一部にイエスに関する記述があるが、前者は後代の加筆を疑われており、後者は同時代史料でないばかりか、キリスト教徒(「クレストス」を開祖とする宗教)に言及したものであり、イエスの実在性の史料とするには問題を含む。
[編集] 他の観点からみたイエス像
歴史的観点からみた信仰のイエス像と歴史的受容は、
信仰の対象として、ナザレのイエスがいかに信じられ、描写されてきたかのイエス像は、
[編集] 関連項目

