台北市
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| 台湾台北市 | |
| 地理 | |
| 位置 | 東経121°3' 北緯25°2' |
| 面積 | 271.7997km² |
| 人口 | |
| 戸口(2006年8月) | 939,492戸 |
| 人口(2006年8月) | 2,626,291人 |
| 政治 | |
| 行政区分 | 直轄市 |
| 市長 | 郝龍斌 |
| 地方自治期間 | 台北市議会 |
| 下部行政区画 | 12区 |
| その他 | |
| 市外局番 | 02 |
| 市花 | ツツジ |
| 市鳥 | 台湾藍鵲 |
| 市木 | ガジュマル |
| 略称,別称 | 北、北市、首都 |
| 台北市政府 | |
| 所在地 | 11008</br>台北市信義区市府路1号 |
| 電話番号 | +886-2-27208889 |
| 外部リンク | 台北市政府 |
臺北市章 | |
台北市の位置 | |
台北市(たいほくし、タイペイし、繁体字(正体字): 臺北市)は、中華民国(台湾)の直轄市の一で、262万5千人超(2006年7月)が住む中華民国の実効統治区域中最大の都市である。1949年以来、中華民国の臨時首都としての機能を果たす、政治、商業、大衆文化、物流の中心地である。面積は約272平方キロメートルで四方を台北県に囲まれている。
なお、日本統治時代 はタイホクと日本語読みしており、いまでもNHKのニュース番組ではタイホクと読んでいる。また、タイペイ(拼音: Táiběi, 注音: ㄊㄞˊ ㄅㄟˇ)は中華人民共和国標準中国語(Mandarin Chinese)とほぼ同義の中華民国國語(普通語:putonghua)の発音であり台湾語仮名ではタイパク(Tâi-pak)、英語ではTaipei Cityとなる。
目次 |
[編集] 歴史
台北はもともと平埔族と呼ばれる原住民(ケタガラン族)の住む土地であったが、明代の初め頃より漢民族が居住するようになった。また大航海時代になると台北市郊外にある淡水にスペイン人が城を作り、欧州人の活動拠点の一つとなった。清朝になると、当初清政府は「化外の地」として台湾島への渡航自体を制限していたが、やがてなし崩し的に制限は解除され、漢民族の移住は活発化し、台北は「一府二鹿三艋舺」と三大都市の一つに数えられるほど栄えるようになった。「府」とは清朝統治の中心であった台南、「鹿」とは台湾中部の鹿港、艋舺とは台北(厳密には現在の万華地区周辺の古称)のことである。字が示すように、元々台北は水運から発達した。
台南と比べると都市形成の点で遅れをとっていた台北は、こうして清末には立派な都市となり、1875年、清政府はここに台北府を設置し台北城の建設が始まった。1882年に方形の城壁が張り巡らされ、1885年には台湾省が設置されて台北はその省都となるなど台北は中国的近代都市として成長を遂げた。巡撫として派遣された劉銘伝は電灯、電報、鉄道などのインフラを整備し、また都市整備のため大陸の商人資本を集めて興市公司を設立するなどの政策を次々と遂行し、ここに「中国人の都市としての」台北は着々と発展していった。
しかしながら日清戦争敗北によって清国が台湾割譲を余儀なくされるとこうした流れは一転し、台北は日本的近代都市として新たな成長期を迎えることとなった。1895年に日本統治が始まると、日本は独立派の勢力が強く、日本からも遠い台南を嫌って台北に総督府を設置、台北の本格的発展はこの時点から始まった。初代民政長官に就任した後藤新平は、清朝が築いた市街の城壁を撤去、街路を建設し、また上下水道を整備するなど近代都市建設を進めた。1901年に台風被害があり、在来建造物が壊滅的被害を被ると、それを期に中国式建築が一掃されて代わりにレンガ造り・石造りで三階建ての官庁・学校・銀行・会社などが林立し、市街の光景を一変させた。その後も市域の拡大や周辺農地の治水・開墾が進められ、日本本土からの移住者も多数にのぼった。さらに経済的にも軽工業や農産物の生産などにより次第に影響力を強めた。このような中、市民生活も豊かになり西門町では数多くの映画館が立ち並び、また台北郊外の北投温泉は、日本有数の温泉地として整備され台湾の内外から多くの湯治客・観光客を集め、1923年には裕仁皇太子(のちの昭和天皇)も行啓した(天皇が来訪した温泉場も現存する)。このように日本統治下において台北は台湾の政治・経済・観光・軍事の中心地として栄えた。
戦争が始まると、台湾は南進基地として利用され、台北には本土からの軍隊が往来するようになった。それを狙って米軍による空爆も開始され、市民は疎開を余儀なくされた。
戦後は日本人は引き上げ、代わりに蒋介石率いる中国国民党軍が駐留するようになった。国民党は兵士やその家族を引き連れて居留したため、台北の人口は一気に跳ね上がった。国民党は中華文化を称揚する政策をとり、台北の日本建築は中華式のものに立て替えられたり、中正紀念堂や故宮博物院、円山大飯店などの中華様式のモニュメント的建築が建てられた。栄町・旭町などの日本式の名前を持っていた町や通りも、中山路・民族路などの中華式のものに改められた。
国民党政府は開発独裁をしき、軍事や経済発展を優先したため、台湾経済は飛躍的に発展し、中心地である台北も人口増が相次いだが、民生は後回しにされていたため、台北の交通渋滞や公害問題は悪化していった。それを解決するために台北駅の地下化、地下鉄建設、排気規制などが計画されたが、ほとんど実行されなかった。
これらの政策が実行に移されるようになったのは、民主化の進んだ1990年代前後からであり、台北の都市環境は飛躍的に整備されるようになった。
[編集] 現在
IT経済化、さらにバイオなどの知識集約経済化を進める台湾では、台北を中心とした地域の重要性がさらに高まっている。台北市内には余地がないため、台北都市圏は周辺に拡大を続けている。特に台北から板橋、台湾桃園国際空港へ至る回廊は人口が密集し、新交通システムの建設も予定されている。2006年まで、台北大都市全区 (台北市、台北県、基隆市)の人口は676万人を数え、香港と同程度である。
また南部には台湾に出稼ぎにきたフィリピン・ラオス・ミャンマー人らの居住地がある。これらの地域は従来交通不便地であったが、鉄道が開通したことによって急速にベッドタウン化が進んでいる。
2006年には高雄との高速鉄道も完成し、高雄都市圏の人口をさらに吸引するのではないかと予測されている。工業都市・高雄は台湾経済の脱工業化により、地盤沈下が著しいからである。
台湾は台北をアメリカと中国の中継基地として発展させる構想を持っており、既に中国人のアメリカ向け職業訓練が台湾で行われたり、アメリカから受注し、上海や福建で生産させる方式が盛んである。
[編集] 歴代市長
[編集] 日本統治時代
[編集] 台北弁務署長(1897年)
[編集] 台北市尹(1920年)
- 武藤針五郎
- 太田吾一
- 田端幸三郎
- 増田秀吉
- 内忠海司
- 西沢義徴
- 松崗一衛
- 石井龍猪
- 木原円次
[編集] 台北市長(1940年)
- 木原円次
- 藤村寬太
- 広谷致員
- 土居美水
[編集] 中華民国時代
[編集] 官選省轄市長
- 黃朝琴 1945年11月-1946年2月28日
- 游彌堅 1946年3月1日-1950年2月5日
- 吳三連 1950年2月6日-1950年11月
- 項昌權 1950年11月-1951年1月31日(代理市長)
[編集] 民選省轄市長
- 吳三連 1951-1954
- 高玉樹 1954-1957
- 黃啟瑞 1957-1964
- 周百鍊 1961-1963(代理市長)
[編集] 官選直轄市長
- 高玉樹 1964-1972(1967年から台北直轄市長に升格)
- 張豐緒 1972-1976
- 林洋港 1976-1978(後に司法院長)
- 李登輝 1978-1981(後に総統)
- 邵恩新 1981-1982
- 楊金欉 1982-1985
- 許水德 1985-1988
- 吳伯雄 1988-1990(現中国国民党代理主席)
- 黃大洲 1990-1994
[編集] 民選直轄市長
[編集] 地理
台北市は急速な人口増加のため、台北盆地の山際にまで都市化が進展している。北部は夜市で有名な士林、山の手高級住宅地の天母、温泉で有名な北投から、外港として栄えた淡水にいたる。中心部は古くから栄えた地域であり、日本時代の建築や清時代の遺構が多い。総統府、台湾最古の寺、龍山寺もここにある。南部には茶の産地である木柵を擁する。
[編集] 地形
台北市は台北盆地に位置し、大屯火山群(休火山)が市北部北部に位置し、市南部の円山、大直、内湖に向かって緩やかな傾斜を生み出している。最高海抜は七星山の1,120mであり、続いて大屯山の1092mが続いている。山間部の中心は北投の外延に広がる火山地帯である。市東部の内湖、南港及び南部の木柵では丘陵地帯となっており、標高約300mの南港山系(拇指山系)が広がっている。
[編集] 水系
台北市内は淡水河の流域に分類される。淡水河は主流以外に支流の新店渓が大同区(大龍峒、大稲埕)、万華、公館、景美などの地域を流れている。
基隆河は関渡一帯にて淡水河より分岐し,社子、士林、大直、内湖、松山、南港を経た後に台北県汐止、基隆市暖暖などへと流れている。河道が湾曲していることから、かつては大雨ごとに水害が発生していたが、現在は士林、内湖、南港の河道を修正する工事を行い水害被害を防ぐ治水事業が完成している。
これ以外には景美渓は景美にて新店渓より分岐し、景美、木柵を経て台北県深坑郷へと流れている。双渓は士林、北投境界一帯より基隆河が分岐したものであり、磺渓はその双渓より分岐している。双渓は芝山岩、外双渓谷(故宮博物院附近)を流れ、鉱渓は石牌、天母などを流域に含んでいる。
[編集] 気候
台北市は北緯25度付近の東アジア大陸と太平洋の間に位置し、モンゴル高気圧と温暖湿潤な太平洋高気圧の影響を受けた亜熱帯気候が特徴である。台湾では四季の変化が顕著な地域であり、一般に3~5月を春、6~8月を夏、9~11月を秋、12~翌年2月を冬としている。
[編集] 行政区分
台北に府が初めて設置されたのは1875年であり、当時の台北盆地は台北府淡水県に属し、台北市は設置されていなかった。日本統治時代の1920年に行政区域改革が実施され。艋舺、大稲埕、城内の3市街を基礎に台北市が設置され台北州に帰属するようになった。1938年には松山地区が台北市に併合された。
1945年、国民党政府が台湾を接収後、台北市は省轄市となり台湾省に帰属するようになった。1967年7月1日、省轄市より直轄市に昇格し、翌年には近隣の台北県と陽明山管理局の6郷が台北市の管轄に変更された。1990年、台北市の行政区域調整が実施され、16区を12区に統合し現在に至っている。
[編集] 現在の下部行政区
[編集] 交通
[編集] 空港
台北市内には松山空港が設けられ、1978年に桃園県大園郷に台湾桃園国際空港が開港するまでは国際空港の地位を有していた。現在は国内線専用空港として運用されており、台湾の主要都市及び離島とを連絡している。尚、将来は松山空港と桃園空港を捷運路線にて連絡する計画が存在している。
[編集] 鉄道
台北は台湾鉄道の発祥の地であり、清代には大稲埕から基隆及び新竹駅区間での運行がされていた。日本統治時代には清代の鉄道路線を変更し、万華駅を経由した他、旧台北後より分岐した淡水線及び万華駅より分歧する新店線が建設された。前者は1988年に廃止され、その後捷運淡水線として復活したが、後者は巨額の累積赤字に加え道路拡張工事の必要性から1965年に廃止されている。
現在、台湾鉄路管理局の西部幹線(縦貫線は南港駅、松山駅、台北駅、万華駅の4駅が市内に設けられており、その中でも台北駅は台湾交通の中心地となっている。市内の鉄道は現在松山駅および以東の南港駅を含む区間を除き地下化が完了している。
[編集] 台北捷運(Metro Taipei)
台北は全台湾で初めて捷運システム(MRT,Mass Rapid Transit)が整備された。運行形態は高架、地下、平面等の複合となっており。連絡台北市と台北県を連絡し、台湾経済圏を形成する交通動脈となっている。現在開通している路線は下記の通り:
- 木柵線(棕線,1996年開通)
- 淡水線(紅線,新北投支線含む,1997年開通)
- 中和線(橘線,1998年開通)
- 新店線(緑線,1999年開通,2000年開通の小南門線及び2004年開通の小碧潭支線を含む)
- 南港線(藍線,2000年開通)
- 板橋線(藍線,2000年開通)
- 土城線(藍線,2006年開通)
建設中及び計画路線は下記の通り
上記以外にも数線が計画されている。
[編集] バス
バス路線は台北市内を網羅し、市内交通の毛細血管としての役割を担う重要な交通機関である。渋滞の影響を避け定時運行を実現する為、市内の主要道路である松江路、信義路、仁愛路、新生南路、民権東西路、南京東西路、羅斯福路、忠孝東西路(未供用)及び敦化南北路(一方のみの設置)にはバス専用レーンが設置されている。市内を走るバスは大きく下記の3種類に分類することができる。
- 聯営公車
- 台北市聯営公車管理処は1977年に成立し、台北市及び台北県内で運行される聯営公車路線を一元管理している。旧台北市公共汽車管理処が会社として再編され、大都会客運等の15業者が共同或いは個別に路線を経営している。また一部市内バス路線は台北縣交通局により管理されており、こちらは「県管公車」と称されている。台北市民の足として利用され、また捷運交通を補完する役割も担っている。
- 地方客運
- 聯営公車に加盟している事業者が運行する一部路線は交通部公路総局の管理とされている。また聯営公車に加盟していない皇家客運の路線もこのように称されている。
- 国道客運
- 国光客運や統聯客運など約30事業主からなる高速バス事業主は全て台北に運行拠点を有している。主な運行拠点は市民大道と重慶北路の交差点の「国道客運総站」に集中しており、国光客運は台北駅に隣接するバスターミナルを有している。
[編集] 道路
人口が集中している台北では密度の高い道路網が構築されている。1900年代から1980年代にかけて中華路、忠孝東路、仁愛路、羅斯福路、基隆路等の高規格道路が建設されたが、それを補完すべき補助道路の整備が遅れ、特に旧市内では極めて狭隘な道路が出現し、交通動線を阻害するものとなっていた。1970年代後半より路地に駐車しやすいスクーターが市民の足として活用されるようになると、車道をスクーターが占める特殊な景観を生み出す原因となっている。スクーターに乗っていると口回りが真っ黒くなるためマスクをして乗っている人が多い。
台北市内の主要な道路は中国の地名(ウルムチの漢名にちなむ迪化街、長安西路)、政治上の人名(孫文にちなむ中山北路、フランクリン・ルーズベルトにちなむ羅斯福路など)、古典(四維八徳)により命名されるのが原則となっている。しかし新しく建設された道路ではその地域の名称、美雅字、自然景観や建築物の名称により命名されている。この他、信義区の再開発地域では、以前は松山区に属していたことから「松」を冠した道路名や、文山区の景美地区では、以前は景美区に属したことから「景」を冠した道路名が使用されている。
2004年より、台北市政府は国際化と外国人観光客の利便を考慮し東西南北に漢字名とは無関係に番号による道路表記を開始し、同時に東西南北を付す事で表記を行っている。この方法によれば南北に第1大道から第10大道、東西に第1大街から第14街と表記することが定められたが、台湾人の間で定着しているとは言えない状態となっている。
[編集] 高速道路
台北市は現在国道1号(中山高速公路)及びその高架支線(汐止—五股間)、そして国道3号(第二高速公路)及びその支線である国道3号甲線(台北聯絡線)が台北市を貫いて建設されている。また信義快速道路は国道三甲と信義再開発区を連絡する主要動脈となっている。
これ以外に新生高架道路、建国高架道路、環河南北快速道路、水源快速道路、東西向快速道路(市民大道)、天母快速道路(堤頂大道平面段)、環東大道(国道3号 福高連結)及び洲美快速道路が台北市内で供用されている。
[編集] 橋梁
台北市は淡水河に囲まれている立地から台北県との交通には橋梁に依拠した交通となっている。橋梁の名称は道路名、人名、古典、河川、地名によりつけられている。市内より台北県へ移動する際には道路名に加え橋梁名により経路を示すことが一般的であり、タクシーなどでも橋梁を指定することが多い
[編集] 水運
20世紀中まで淡水河を利用した水運が発達していた台北であるが、時代の経過と共に水運は衰退し、現在では淡水河と基隆河に「藍色公路(ブルーラインバス)」と称される観光路線が残るのみである。
[編集] 交通関連リンク
[編集] 経済
台北市は台湾経済の中で金融、メディア、通信の中心地としての地位を占めている。産業方面では経済の急速な発展により市民の所得が増大し、高い消費能力とそれに付随する産業の発展が特徴であり、サービス業などの第三次産業が台北経済の9割を占めるようになっている。その中には卸売り、小売、貿易、飲食、金融サービス、物流サービス、通信事業、インターネット関連、そしてSOHOを含んでおり、特に小売業では人口当たりのコンビニの店舗数が世界一となってる。また台北市のテクノロジー関連でも整備が進み情報ハイウェイ(資訊高速公路、 Information Infrastructure)を目指す台湾のコンピューター通信網は世界でも先端の設備率を有している。
[編集] 労働市場
2006年3月現在、15歲以上の民間人口は約213万,実質労働人口は118万6千である。就業者数は114万,失業者数は4万7千であり、失業率は3.9%である。また外国人労働者は所謂ホワイトカラーが約2万9千人、ブルーカラーが4万3千人就業している。
[編集] 観光
観光地
[編集] 教育
台北市に本部を置く大学
[編集] 国立大学
[編集] 公立大学
[編集] 私立大学
[編集] 科技大学/技術学院
[編集] 軍事、警察関係大学
[編集] その他学校
各区の教育欄を参照の事
[編集] 姉妹都市
[編集] アメリカ
[編集] 中・南アメリカ
[編集] アジア・ヨーロッパ
[編集] アフリカ
[編集] 出身有名人
[編集] 関連項目
- 台湾の行政区分
- 中華民国の政治
- 中華民国
- 台北市の国民中学一覧
- 台北市の国民小学一覧
- Wikipedia:ウィキプロジェクト 台湾の行政区分
[編集] 外部リンク
- 台北市政府公式サイト(中国語)
- 台北の旅行のウェブサイト(日本語)
- 旅々台北.com(日本語)

