古代イスラエル

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古代イスラエル(こだいイスラエル)は伝説的な太祖アブラハムの時代からユダヤ戦争終結までのイスラエル古代史を概説する。古代イスラエルの歴史に関する資料は旧約聖書による部分が多いが、研究や発掘などによって史実としての裏づけが取れている部分もある。

目次

[編集] 伝説から史実へ

[編集] イスラエル人の祖先アブラハム放浪の背景

紀元前5000年頃、カルデア人がウルに王朝を建てる。紀元前4000年頃、メソポタミアの平原一帯に大規模な洪水が起こる。その後、二つの民族があらたにウルに侵入し新しい王朝を建てる。紀元前3千年代、シュメール朝が興る。この都が「創世記」で言われるカルデア人のウルである。紀元前2100年頃、ウル第三王朝のウル・ナンムは支配下においたバビロン(バベル)にジグラッドを建てる。このような建造物の存在が創世記のバベルの塔の物語の背景にあるとも考えられる。

紀元前2000年、ウルは古バビロニアハムラビ王によって滅ぼされる。紀元前1800年頃、ウルからハランへと北上してゆく半放牧のセム諸部族たちのなかに、テラ、アブラハム一家もあったと推定される。やがてアブラハムはハランの南方カナンの地に半定住する。これは旧約のなかでアブラハムの放浪として描かれてある。

紀元前1760年頃、バビロンとハランの間に位置するマリの大帝国がハムラビ王によって滅ぼされる。

[編集] イスラエル十二部族

旧約の「創世記」には、アブラハムの子のイサク、イサクの子ヤコブが後の古代イスラエル人の直系であるとある。 ヤコブは後にイスラエルと改名、このイスラエルの十二人の子供の子孫がイスラエル十二部族と呼ばれる。ところで、「創世記」ではおもにヘブライ人という呼びが主だが、「出エジプト記」以降ではイスラエル人という呼び名が主となっているため、二つの異なる物語が混成したのではないかという説もある。そのイスラエルの子の一人であるヨセフが族長の時代は、前1700年~1600年頃であった。

[編集] 出エジプト

古代パレスチナに定着したセム系の遊牧民であるヒクソス(エジプトの言葉で、よその土地の王の意)が、紀元前1730年頃から紀元前1580年までエジプトを支配。この頃にヨセフの一族がエジプトに移住する。だが前1580年ヒクソスが倒され、エジプトはアーモセス第十八王朝となる。このときから外国人であるヨセフ族(ユダヤ人)の奴隷時代がはじまる。

紀元前1230年頃(諸説がある)、エジプトのユダヤ人たちはモーセを中心にしてエジプトを脱出しカナンに向かう。その人数は多くても5千~6千人だったのではないかと推定されている。これが出エジプト(エクソダス)である。その後40年にわたってシナイ半島、ネゲブの砂漠をさまよう。この頃の部族の戒律がモーセの十戒である。

モーセの後継者ヨシュアのときに、カナンに散っていたイスラエル諸支族らを連合させてカナンの土地を落とし、ここに一応の定住をみた。 この一派がヤーウェを神とする宗教的な共同体を形成したはじめてのユダヤ民族の起こりとされる。だが当時カナンの地で有力な信仰はフェニキア系のバアル神であったためヤーウェ信仰はこれと混交した。

紀元前1300年頃から、鉄器をもつペリシテ人が地中海側からカナンに侵入しイスラエル人と敵対した。

以上が旧約聖書(ヘブライ聖書)の創世記からヨシュア記までの内容を基にした「歴史」記述であるが、神話的または伝説的な要素が強く、聖書記述の内容自身矛盾しているところもかなりあることから(たとえばヨシュアのカナン征服と士師記のカナン征服の「やり直し」など)史料としてどの程度価値があるが議論されている。また、旧約聖書のこの部分が最終的な編集段階を経て現在の形の書物にまとまったのも、後世の捕囚期かペルシャ時代という説が強い。

[編集] イスラエル王国の誕生

[編集] 士師の時代から王政へ

士師記の記述によるとヨシュアの後の指導者はイスラエル人の神ヤーウェによって任される「士師」であったという。これが士師の時代である。「士師」という概念は、部族間や個人の争いを軍事的または法的に調停する裁判官の役目と、対外軍事や防衛を指導する指揮官を兼ねたような地位で、王権のように世襲制ではなく、部族間の内政や対外的な問題が起こるごとにヤーウェに任命されたという。このような一時しのぎ的で不安定な士師制から王政へ移行せよとの欲求が部族間から出てくる。サムエル記によると、紀元前1080年ごろペリシテ人が北部のガリラヤを制圧し、その地域のイスラエル人が奴隷となると、最後の士師で預言者でもあったサムエルは、サウルをはじめてのイスラエルの王として任じた。この王はペリシテ人との戦いの必要からでた軍事的な指導者であった。

サウル王の死後、サムエルに見出されたダビデは南部のユダ族をまとめて王となり、都ヘブロンを中心とした王国を建てる。これに対して北部イスラエルの11部族はサウルの死後、その子イシュバールを王とし、都マハナイムを中心に王国を建てた(サムエル下2:9-11)。これら二王国の内紛は7年以上続くが、イシュバールの死後、両国はダビデを王として認めることで和解した。

紀元前995年頃、ダビデは両王国の中心に位置するエルサレムのエブス人を倒し、以後、ここを拠点にペリシテ人らを退け、イスラエル王国(統一王国)を築いた。

ダビデの死後、紀元前963年にその子の一人ソロモンが国王を継ぐ。ソロモンは引き続き国の体制を整え諸外国との交易を盛んにし、またエルサレムに大きな神殿(エルサレム神殿)を建てた。この神殿は後世、第一神殿と呼ばれることになる。

ソロモン王の死後、部族間の抗争により統一体制は崩れ、やがて10部族がイスラエル王国(北王国)として独立し、南のエルサレムを中心とするユダ王国(南王国)と分離することになる。以後両国は盛んに争ったが、この戦争によって国力が衰えた。

北王国の首都サマリア紀元前721年にはアッシリアによって陥落した。アッシリアのサルゴン2世はサマリアのイスラエル人指導層などを奴隷として連れ去りまたは追放して、その土地にメソポタミアなどからの異民族を移住させた。ここにイスラエル王国は滅亡する。このとき故地から引き離されたイスラエル人たちは後に「失われた十部族」と呼ばれている。またサマリアにはアッシリア支配下の各地からの移民が移り住み、イスラエル王国の故地に残ったイスラエル人と移民との間に生まれた人々がサマリア人と呼ばれるようになった。サマリア人は、混血したことや移民たちの信仰をユダヤ教に混交させたことから後に差別される存在となった。

[編集] 属国としてのユダ王国

一方の南部のユダ王国はアッシリアの属国として延命した。ヒゼキヤ(前715?-686年)が王のときに独立戦争を起こすが、前701年にはエルサレムが包囲され陥落されそうになった。その後再び属国として自治を続けた。 前612年にアッシリアが新バビロニアに滅ぼされたため、旧北王国の領土が解放された。これを受けてヨシヤ(前647-609年)は国内の宗教改革に取りかかった。前622年に祭壇から発見されたとする「申命記」の記述に従って、国内の祭儀と司祭制度を中央集権化した。(申命記改革)

前597年、新バビロニアのネブカドネザルがエルサレムに侵攻し、ヨヤキン王を含めた1万ほどのイスラエル人をバビロンに連れ去り捕虜とした。これは第一回の捕囚と呼ばれる。その後ユダ王国は新バビロニアの属国となったが、10年後にゼデキア王が独立を試みる。だが紀元前586年にはネブカドネザルによってエルサレム城壁が崩され神殿は破壊された。ここにユダ王国は滅亡。このときもバビロンに多くが捕虜とされて連れて行かれたが、これは第二回の捕囚と呼ばれる。捕囚されたユダヤ人たちのバビロンでの生活はかなり自由であった。

[編集] ユダヤ人のエルサレム帰還

新バビロニアを滅ぼしたペルシア大キュロス(前600年頃-前529年)は、紀元前538年にイスラエル人を解放する。だがバビロニアでの生活を捨ててエルサレムに帰還したユダヤ人は2~3割と言われている。それ以外の多くは自由意志でバビロニアに残留した。 ペルシア王ダレイオス1世治下の紀元前515年、ゼルバベルの指導でエルサレム神殿が再建された。これは第二神殿と呼ばれている。紀元前458年にエズラの指導のもとで二度目の集団帰還が行われた。またネヘミヤとエズラとがこの時期、国の整備とユダヤ教の形式とを固め、これが現代のユダヤ教またはユダヤ文化へ直接に影響している。ユダヤ人の民族外結婚を禁じたのもこの時であり、これによってユダヤ民族の独自性が今日にまで保たれている。

[編集] ヘレニズム時代

紀元前333年マケドニア王国アレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)がペルシアのダレイオス3世を打倒すると、ユダヤ地方もギリシアの支配下に入った。ヘレニズム国家支配時代の始まりである。

ヘレニズム国家による支配は紀元前143年まで続くが、ギリシアの自由政策のもとユダヤ人による自治と宗教の自由は守られ国内の商業も盛んとなった。同時にユダヤ地方がギリシャ風のヘレニズム文化の影響を受けていくことになる。

[編集] プトレマイオス朝の支配

アレクサンドロス大王が逝去すると、その領土は将軍たち(ディアドコイ)によって分割され、その支配をめぐる争いがおきた(ディアドコイ戦争)。ユダヤを含むシリア地方南部ははじめエジプトを領したプトレマイオス朝の支配を受けたが、この地方に触手を伸ばすセレウコス朝シリアとの間で何度も戦いが繰り返された。

この時代、紀元前3世紀の中ごろ、エジプトのアレクサンドリアにおいて聖書がギリシャ語に翻訳された。これを「七十人訳聖書」という。

[編集] セレウコス朝の支配

セレウコス朝シリアは数次にわたる戦いのすえ、ついに紀元前198年にユダヤ地方を含む地域の支配権を獲得した。

紀元前175年にはセレウコス朝のアンティオコス4世エピファネスがプトレマイオス朝を圧迫し、アレクサンドリアも陥落寸前となった。ここにおいて急速に勢力を伸ばしていた共和制ローマが中東における巨大勢力の誕生を危惧して、中東情勢に介入したため、プトレマイオス朝は滅亡を免れた。このアンティオコス4世はユダヤにおいてもヘレニズム化政策を強引に押し進め、エルサレム神殿での異教崇拝などを強要したため、ユダヤ人の反感は高まっていった。

[編集] マカバイ戦争とハスモン朝

紀元前167年になると祭司マタティアとその息子たち(マカバイ家)をリーダーとする反乱が勃発した。マタティアがなくなると息子のユダ・マカバイ(ユダス・マカバイオス)をリーダーとして戦闘が継続され、紀元前164年にエルサレム神殿を奪回した。ユダの死後は兄弟のヨナタンが指揮をとった。

この一連の戦いをマカバイ戦争といい、この戦争のユダヤ人側の観点による記録が「マカバイ記」である。ヨナタンとその兄弟シモンは諸勢力との合従連衡をたくみに繰り返し、紀元前143年にはセレウコス朝の影響を脱してマカバイ家による支配を確立させた。ここに実に数百年ぶりにユダヤ人による独立国家が回復した。

この国家は紀元前130年ごろ、シリアの支配力の増大によって、一度は独立を失ったが、シリアの内紛によって再び独立を獲得した。シモンの息子ヨハネ・ヒルカノス1世は父の死後、父の保持していた大祭司にして首長というユダヤ神権政治の権威を世襲した。このマカバイ家の世襲支配によるユダヤ独立国家を、祭司マタティアの曽祖父ハスモンの名からハスモン朝という。

ヨハネ・ヒルカノス1世は軍事的才能と傭兵の力によって支配領土を拡大することに成功した。ハスモン朝のやり方は伝統的なユダヤ人の反感を買うこともあった。この時期にユダヤ教敬虔主義からエッセネ派ファリサイ派サドカイ派が起こり、特にエルサレム神殿祭司層を中心としたサドカイ派と在家で民間基盤のファリサイ派の対立が激しくなる。

ヨハネの子で親サドカイ派のアリストブロス1世がはじめて「王」の称号を名乗った。以後、弟アレクサンドロス・ヤンナイオス、さらにその死後、親ファリサイ派の妻サロメ・アレクサンドラは息子ヨハネ・ヒルカノス2世を大祭司にたてて統治した。

サロメが死ぬと、ヨハネ・ヒルカノス2世が王位を継いだが、弟アリストブロス2世は武力にものを言わせてこれを奪取。王位についた。

[編集] ローマ支配時代

[編集] ハスモン朝の内紛とヘロデ大王の時代 

紀元前63年にはローマのポンペイウスが中東へ遠征してきてセレウコス朝を滅ぼした。当時のハスモン朝はヨハネ・ヒルカノス2世とアリストブロス2世の争いが続いていた。両勢力はローマへの接近を図るが、ローマは無能なヒルカノス2世のほうが傀儡にふさわしいと考え、支援したため、アリストブロス2世は死に追い込まれた。

ユダヤはこうしてある程度の自治を認められながら、ローマの属州シリアの一部となった。この時期、ローマに取り入ってユダヤの実権を握ったのはヒルカノス2世の武将でイドマヤ出身のアンティパトロスであった。その後、ユリウス・カエサル暗殺後の混乱の中で、アリストブロスは紀元前43年に殺害された。代わって息子のヘロデ(ヘロデ大王)が兄パサエロスと共にユダヤを支配した。先の王アリストブロス2世の息子アンティゴノスが隙に乗じてヒルカノス2世とパサエロスを捕らえると、ヘロデはからくも脱出。ローマにわたって支援を要請した。

ヘロデはユダヤの王という称号を認められ、エルサレムに帰還してアンティゴノスを撃破。紀元前37年にハスモン朝が終焉し、ヘロデ大王の時代になった。ヘロデ大王は純粋なユダヤ人でなかったので、ヒルカノス2世の孫マリアンメ1世を妻にするなどハスモン朝の血統を利用しながら、自らの正当性を確立していった。そして不要となるとハスモン朝の血を引く人々をすべて殺害していった。ナザレのイエス(イエス・キリスト)が生まれたのはこのヘロデ大王の治世の最晩年であったらしい。

猜疑心にとりつかれたヘロデ大王が紀元前4年に血にまみれた生涯を終えると、その息子たちによってユダヤは分割統治された。ローマはユダヤ王の称号をヘロデの息子たちに与えず、エルサレム、サマリアを含むユダヤをヘロデ・アルケラオスが、ペレヤとガリラヤをヘロデ・アンティパスが、ゴランとヨルダン川東岸をヘロデ・フィリポスがそれぞれ統治する。結局アルケラオスの失政のため、ユダヤはローマの総督による直轄支配となった。ちなみにイエスの出身地とされるナザレはガリラヤの寒村である。

[編集] ユダヤ戦争 

ローマ帝国はユダヤでサンヘドリン(最高法院)に宗教的権威を認めながらも政治的権威を与えなかった。ユダヤは総督の支配におかれたが、総督たちがユダヤ文化を軽蔑し、失政を繰り返したこともユダヤ人の反感を募らせた。その間、ヘロデ大王の孫アグリッパ1世がユダヤの統治をしたこともあったが、死後はまた総督直轄に戻された。

紀元66年、ついにユダヤ人の不満が爆発し、ここに独立を目指してユダヤ戦争(第1次ユダヤ戦争)が勃発。しかし70年にはローマ軍が半年にわたってエルサレムを包囲し兵糧攻めにしてついに陥落させ、神殿も破られた。(この間の事情はフラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ戦記』にくわしい。)

132年にもバル・コクバに率いられた反乱(バル・コクバの乱、第2次ユダヤ戦争)がおきた。大きな反乱が続発し、ユダヤ人の統治の困難さに手を焼いたローマ人はユダヤ地方からユダヤ色を一掃しようと考え、ユダヤ人が忌み嫌っていたペリシテ人の名前をとり、この地方をパレスチナと名づけた。ユダヤ人たちはこれ以前にもすでに広くローマ帝国内や各地に離散していたが、ここに再び多くのユダヤ人が離散を余儀なくされ、長いディアスポラの時代が始まった。ローマによるエルサレム神殿破壊の結果、神殿祭儀中心の古代ユダヤ教は終焉し、以後ユダヤ教の学問の中心はガリラヤ地方に移り、ファリサイ派の伝統を下地に、今日の現代ユダヤ教にまで発展するユダヤ教の原型ができた。一方、ナザレのイエスの活動から、普遍的な教義を受け入れたグループは初期キリスト教に発展することになる。


[編集] 関連項目

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