ボルツァーノ自治県
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- ボルツァーノ自治県</dt>
- Provincia autonoma di Bolzano - Alto Adige
Autonome Provinz Bozen Südtirol
Provinzia Autonòma de Balsan Südtirol</dt> - Provincia autonoma di Bolzano - Alto Adige
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</tr><tr></th><th style="width:auto"></tr><tr></td><td>ボルツァーノの県章
</dd>
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国 イタリア共和国 </tr><tr></th><th>州</td><td> トレンティーノ=アルト・アディジェ</tr><tr></th><th>県都</td><td>ボルツァーノ</tr><tr></th><th>面積</td><td>7,400 km²</tr><tr></th><th>人口
- 総計
- 人口密度</td><td>2005年
482,500 人
62.83 人/km²</tr><tr></th><th>コムーネ数</td><td>116 (50音順一覧)</tr><tr></th><th>主なコムーネ</td><td>メラーノ、ブレッサノーネ、ライヴェス、ブルーニコ、アッピアーノ・スッラ・ストラーダ・デル・ヴィーノ</tr><tr></th><th>略記号</td><td>BZ</tr><tr></th><th>CAP</td><td>39100</tr><tr></th><th>市外局番</td><td>0471 - 0474</tr><tr></th><th>ISTATコード</td><td>021</tr><tr></th><th>県知事</td><td>ルイス・ドゥルンヴァルダー
(Luis Durnwalder)</tr><tr></th><th>県公式ウェブサイト</td><td>[1]</dd>
</dd></dl> ボルツァーノ自治県 (Autonome Provinz Bozen - Südtirol / Provincia autonoma di Bolzano - Alto Adige) は、イタリア共和国トレンティーノ=アルト・アディジェ特別自治州に属する2つの県のうちの北側の県である。県都ボルツァーノを中心とするこの県域は、イタリア語で「アディジェ川上流」を意味するアルト・アディジェ (Alto Adige) 、または、ドイツ語およびラディン語で南ティロル (Südtirol) とも呼ばれる。
南にトレント自治県、東南にはヴェネト州ベッルーノ県、西南にロンバルディア州ソンドリオ県と接し、北と東にオーストリアのティロル州、北東にザルツブルク州、西ではスイスのグラウビュンデン州と接する。
イタリアでは唯一、3つの公用語を併用する県である。県民の母語は、最も多いのがドイツ語 (69.15%) で、イタリア語 (26.47%) がそれに続き、レト・ロマンス語群のラディン語 (4.37%) が山間部に分布する。
[編集] 歴史
県域は、中世には神聖ローマ帝国のティロル伯領の一部であった。伯位は、1363年にハプスブルク家のルドルフ4世の手に渡って以来、1918年までハプスブルク家の歴代当主に継承され、ティロル地方はドイツ語圏の一部として支配された。しかし、県域となる南ティロルはイタリア語圏との交錯地域であり、イタリア語を母語とする少数派住民もいた。
1861年にイタリア王国が成立した後も、オーストリア領にはイタリア語を母語とする人々が居住する地域があり、イタリア政府はこれらの地域をも王国に統合することを目標とした。ヴェネツィアを中心とするヴェネト州は、1866年の普墺戦争の賠償としてオーストリアから割譲させることに成功したが、その後、残りの地域は「未回収のイタリア」と呼ばれ併合の機会をうかがった。この「未回収地」には、南ティロル地方もその南に隣接するトレンティーノ地方と一体のものとして含まれていた。しかし、イタリアはフランスと敵対するようになると、ドイツやオーストリアとの友好関係を築かざるを得ず、1882年に両国と三国同盟を締結すると、未回収地問題は封印された。
第一次世界大戦においてイタリアは、当初は中立を宣言したが、1915年4月にロンドンにおいて協商国側との間でオーストリアからの「未回収地」の割譲を条件として参戦する旨の秘密協定を締結し、5月24日に参戦した。1918年11月3日の休戦協定以降、イタリアは軍を南ティロルに駐留させ、1919年9月10日調印のサン=ジェルマン条約で正式にイタリア領となった。
1922年にムッソリーニ政権が誕生すると、ボルツァーノ県ではイタリア化政策が推進され、ドイツ語の使用は禁止され、人名、地名はすべてイタリア語に変えられ、教育もイタリア語で行われるようになった。さらに、イタリア南部からの移住も推奨され、徐々にイタリア語系住民の比率が高まった。1939年、ムッソリーニはアドルフ・ヒトラーから、ドイツ語系住民に、ドイツへの移住か、イタリアに留まりイタリア人との同化政策を受け容れるかの選択をさせることを提案され、同意した。住民は、故郷を捨てるか、母語を捨てるかという苦渋の選択を迫られた。
第二次世界大戦で1943年にイタリアが連合国に降伏すると直ちにドイツ軍はボルツァーノ県を占拠し、大ドイツ帝国に併合した。しかし、1945年5月のドイツ降伏に先立ち、4月27日にオーストリアは1938年の独墺合邦の無効を宣言し、ティロルもオーストリア領に復した。ボルツァーノ県の住民もオーストリアへの復帰を望んだが国際情勢がそれを許さなかった。1946年9月5日、パリにおいてイタリアのデ・ガスペリ首相兼外相とオーストリアのグルーパー外相との間で会談が行われ、同県のイタリア領有およびドイツ語系住民への自治権の付与について合意に達した。1948年1月の法律で自治が保障されたが、パリでの合意に及ぶものではなく、ドイツ語系住民にとっては不十分な内容であった。また、中央政府が南イタリアからの移住を推進したことに対しても不満があった。このため、完全自治あるいはティロル再統一を要求する組織が作られ、1950年代半ば以降テロ活動が続き、1960年代には激しさを増した。1960年には国際連合でも議題にあげられ、国連総会決議1497号で平和的解決が求められた。その後、1969年11月に政府はオーストリアとの合意に基づいて自治権の拡大、ドイツ語の地位引き上げ等の解決策を示し、それらの施策は徐々に実行に移さた。
[編集] コムーネと地区
ボルツァーノ県内地図(ドイツ語)116のコムーネがあり、これらは8地区に分かれている。以下は、地区のイタリア語名 / ドイツ語名、県内の位置、所属するコムーネの例と数を示している。地図はリンクされているイタリア語版とドイツ語版にある。リンクがないのは記事未作成。
- ヴァル・ヴェノスタ (Val Venosta) / ヴィンシュガオ (Vinschgau) : 最西部。シランドロなど13コムーネ。
- ブルグラヴィアート (Burgraviato) / ブルクグラーフェナムト (Burggrafenamt) : 中西部。メラーノなど26コムーネ。
- オルトラディジェ=バッサ・アテシーナ (Oltradige-Bassa Atesina) / ユーベレチュ=ジュードティロラー・ウンターラント (Überetsch-Südtiroler Unterland) : 南部。エーニャなど18コムーネ。
- ボルツァーノ : 1コムーネ単独。
- サルト=シリアル (Salto-Sciliar) / ザルテン=シュレルン (Salten-Schlern) : 中部。オルティゼーイなど13コムーネ。
- ヴァッレ・イザルコ (Valle Isarco) / アイザックタール (Eisacktal) : 中東部。ブレッサノーネなど13コムーネ。
- アルタ・ヴァッレ・イザルコ (Alta Valle Isarco) / ヴィップタール (Wipptal) : 北部。ヴィピテーノなど6コムーネ。
- ヴァル・プステリア (Val Pusteria) / プステルタール (Pustertal) : 東部。ブルーニコなど26コムーネ。
- トレンティーノ=アルト・アディジェ州の県</dt>
ボルツァーノ | トレント </dd>
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この「ボルツァーノ自治県」は、イタリアに関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています。(ポータル イタリア/ウィキプロジェクト イタリア) - </dd>

