伊勢湾台風
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| 伊勢湾台風 | |
|---|---|
| 発生期間: | 1959年9月21日 21:00 ~9月27日 21:00 |
| 寿命 | 6日0時間 |
| 最低気圧: | 895 hPa |
| 最大風速: (気象庁解析) | 75 m/s |
| 最大風速: (米海軍解析) | 165 knot |
| 被害総額: | - |
| 死傷者数: | 死者4,697名、行方不明者401名、負傷者38,921名 |
| 被害地域: | 全国(九州を除く) |
伊勢湾台風(いせわんたいふう)とは、1959年9月26日に紀伊半島に上陸し、東海地方を中心に近畿から東海の広範囲で大きな被害を及ぼした台風である。
目次 |
[編集] 概説
死者・行方不明者は5,098人、負傷者39,000人にのぼり、明治以来最大の被害を出した。正式名称は台風195915号又は5915号、国際名はVERA。3,000人以上の犠牲者を出した台風として、室戸台風、枕崎台風とあわせて昭和の三大台風と呼ばれる。 この犠牲者の数は1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災まで戦後の自然災害で最多のものであった。
災害対策について定めた災害対策基本法は、この伊勢湾台風を教訓として成立したものである。
- 注)伊勢湾台風の犠牲者数については、5,041人、5,098人、5,101人の3種の数字が発表されている。
[編集] 発生から消滅までの経過
1959年9月20日にエニウェトック島付近で1008ミリバール(当時の単位。ヘクトパスカルに同じ)の弱い熱帯低気圧(当時の用語)が発生、西に進み、21日にはサイパン島の東を北上しながら次第に発達し、21日21時には1002ミリバールの台風第15号となって、再び西寄りに進路を変えて急激に発達した。すなわち、9月22日9時には996ミリバールであったものが同日15時には970ミリバール、翌23日9時には905ミリバールとなっているから、22日9時からの24時間で91ミリバールも気圧が降下した。発達はさらに続き、23日15時にはアメリカ軍の気象観測飛行機により894ミリバールが観測された。中心付近の最大風速は75メートル(アメリカ軍の観測では90メートル)、風速25メートル以上の暴風雨圏(暴風域に同じ)は半径300キロメートルであった。
台風第15号はその後も余り衰えることなく、9月25日昼頃まで900ミリバール前後の猛烈な勢力を保ち、進路を北西から次第に北に転じて26日9時には潮岬の南南西400キロメートルに達したが、その時でもなお中心気圧920ミリバール、最大風速60メートル、暴風雨圏は東側400キロメートル、西側300キロメートルという、非常に強い超大型の台風であった。
台風は26日18時過ぎ、930ミリバールの勢力を持って潮岬の西15キロメートル付近に上陸した。26日朝までの進行速度は毎時30キロメートル以下であったが次第に加速して、上陸後は60~70キロメートルで紀伊半島を縦断し、中部山岳地帯を経て27日0時過ぎに日本海に抜けた頃には90キロメートルにも達している。27日9時前後に東北地方を横断する際には、秋田沖に進んだ中心は次第に消滅し、青森県の東海上に新たな中心が生じて東北東進する「ジャンプ現象」を起こした。台風は同日21時に北海道の東で温帯低気圧に変わり、東太平洋にまで達して10月2日に消滅した。伊勢湾岸の高潮による大災害から、9月30日、気象庁により伊勢湾台風と命名された。
アメリカ海軍のレポートによれば中心付近の最大風速は165ノットを記録したという。(JTWC Typhoon Vera Reportp.110 )
| 気象庁命名台風 | ||
|---|---|---|
| 気象庁命名 | 正式名称 | 国際名 |
| 洞爺丸台風 | 台風195415号 | MARIE |
| 狩野川台風 | 台風195822号 | IDA |
| 宮古島台風 | 台風195914号 | SARAH |
| 伊勢湾台風 | 台風195915号 | VERA |
| 第2室戸台風 | 台風196118号 | NANCY |
| 第2宮古島台風 | 台風196618号 | CORA |
| 第3宮古島台風 | 台風196816号 | DELLA |
| 沖永良部台風 | 台風197709号 | BABE |
[編集] 観測値
- 最低気圧
- 潮岬 929.2ミリバール:26日18時13分
- 尾鷲 939.4ミリバール:26日19時40分
- 津 944.4ミリバール:26日20時37分
- 上野 946.3ミリバール:26日20時33分
- 彦根 949.2ミリバール:26日21時25分
- 最大風速 ( )は最大瞬間風速
- 伊良湖 45.4メートル:26日20時45分(55.3メートル)
- 洲本 42.3メートル:26日18時30分(49.2メートル)
- 名古屋 37.0メートル:26日22時00分(45.7メートル)
- 津 36.8メートル:26日19時35分(51.3メートル)
- 舞鶴 36.5メートル:26日20時40分(51.1メートル)
| 上陸時(直前)の中心気圧が低い台風 | |||||
|---|---|---|---|---|---|
| 順位 | 正式名称 | 国際名 | 中心気圧 (hPa) | 上陸日時 | 上陸地点 |
| 1 | 196118号 (第2室戸台風) | NANCY | 925 | 1961年9月16日 9時 | 室戸岬西方 |
| 2 | 195915号 (伊勢湾台風) | VERA | 929 | 1959年9月26日 18時 | 潮岬西方 |
| 3 | 199313号 | YANCY | 930 | 1993年9月3日 16時 | 薩摩半島南部 |
| 4 | 195115号 (ルース台風) | RUTH | 935 | 1951年10月14日 19時 | 串木野市付近 |
| 5 | 199119号 | MIREILLE | 940 | 1991年9月27日 16時 | 佐世保市南 |
| 5 | 197123号 | TRIX | 940 | 1971年8月29日 23時 | 大隅半島 |
| 5 | 196523号 | SHIRLEY | 940 | 1965年9月10日 8時 | 安芸市付近 |
| 5 | 196515号 | JEAN | 940 | 1965年8月6日 4時 | 牛深市付近 |
| 5 | 195522号 | LOUISE | 940 | 1955年9月29日 22時 | 薩摩半島 |
| 10 | 200418号 | SONGDA | 945 | 2004年9月7日 9時 | 長崎市付近 |
| 10 | 199019号 | FLO | 945 | 1990年9月19日 20時 | 白浜町南 |
| 10 | 197009号 | WILDA | 945 | 1970年8月14日 23時 | 長崎市付近 |
| 10 | 196420号 | WILDA | 945 | 1964年9月24日 17時 | 佐多岬 |
| (参考) | 室戸台風 | - | 911.6 | 1934年9月21日 | |
| 台風194516号 (枕崎台風) | - | 916.3 | 1945年9月17日 | | |
[編集] 伊勢湾台風の特徴と気象官署の対応
[編集] 特徴
- 急速に猛烈な台風に発達し、勢力が衰えないまま日本本土を直撃
アメリカ軍の飛行機観測により台風の中心気圧が正確に実測されていた1950年から1987年までの資料によれば、年平均1.3個弱の台風が900ミリバール以下に発達するが、いずれも海水温の高い北緯20度付近で、日本からは遠く離れた場所であり、日本付近に来た時には950ミリバール程度に衰弱している場合がほとんどである。伊勢湾台風は発生後2日足らずで猛烈な台風に成長し、最低気圧観測の3日後に上陸した時にも929.2ミリバールという、日本本土では史上3番目に低い気圧を観測するほどの勢力を保ち、紀伊半島や中部地方の急峻な山岳地帯を通過しても衰弱の度合いが小さく、暴風や高潮の被害を大きくする原因となった。記録的な風台風とされた1991年の台風第19号では、最大風速30メートル以上を観測した気象官署はわずか4箇所に過ぎなかったが伊勢湾台風では9箇所もあり、40メートル以上も2箇所あった(台風第19号では無し)。
- 非常に規模が大きい超大型の台風
伊勢湾台風以前の記録的な猛台風であった1934年9月21日の室戸台風と比較すると、上陸時の気圧は室戸台風が911.6ミリバールでかなり低いが、最盛期における最も外側の閉じた等圧線の直径は室戸台風がおよそ2000キロメートルであるのに対し伊勢湾台風はおよそ2500キロメートルに及び、暴風域も非常に広く、北日本と西日本の一部を除いて全国的に最大風速20メートル以上を記録した。
- 典型的な放物線形の経路を取り、進路予想がほぼ正確
この年の台風第14号(宮古島台風)も同様であったが、伊勢湾台風もほとんど蛇行せず、進路を急変することも無く、予報通りの経路をたどって上陸した。当時の台風の進路予報は予報円ではなく扇形を用いていたが、発生から上陸して本州東方海上に抜けるまでの経路はすべて扇形の範囲内に収まっており、予報がうまく当ったことを示している。
[編集] 気象台・気象庁の対応
台風第15号は早くから超大型の台風として日本本土をうかがっていたので、気象官署の対応も早期に実施された。名古屋地方気象台では次のような処置を取っている。
- 9月25日に海上強風警報を発令。
- 同日の予報検討会で以下の事項を決定した。
気象庁においても、25日午後に建設省・運輸省(いずれも当時の名称)・消防庁・報道関係などに対する説明会を持った。
こうした経緯に沿って愛知県では26日11時15分に、三重県でも11時30分に暴風雨・波浪・高潮の各警報が発令され、厳戒態勢に入ったが、それでも気象観測始まって以来の大災害が引き起こされたのであった。
[編集] 被害状況
- 死者・行方不明は5098人、うち愛知県で3351人(うち名古屋市1,909人)、三重県1211人と2県に集中。負傷者38921人。
- 全壊家屋36135棟・半壊家屋113052棟、流失家屋4703棟、床上浸水157858棟、船舶被害13759隻。
- 被災者数は全国で約153万人に及んだ。うち、愛知県は約79万人・三重県は約32万人と各県全人口の約2割が被災した。
- 南寄りの暴風で海水が伊勢湾・三河湾の最奥部に吹き寄せられ、三重県と愛知県の広い範囲で高潮による浸水が発生し、名古屋市南区付近は、2週間以上も水が引かなかった地域があった。名古屋市南部(南区、港区)、及び、隣接する海部郡南部(蟹江町、飛島村、弥富町(現弥富市)、十四山村(同)など)、知多郡北部(大高町(現名古屋市緑区)、上野町(現東海市)、横須賀町(同)など)は、江戸時代に遠浅の海を干拓してできた新田で、海面下2~3mの土地もあったため、高潮により一旦海岸堤防が破壊するとひとたまりもなく水没した。これら低地の復旧のためには、まず堤防を完全に作り直した上でポンプにより海水を排水しなければならなかったため、水没地域が完全になくなったのは被災から3ヶ月経った12月下旬であった。その間、多くの世帯の汲み取り便所の汚水があふれ出たままとなり、また孤立した人々の排泄物も停滞するなど、衛生状態が著しく悪化した。
- 台風の速度が非常に速く、雨の継続時間が比較的短かったので雨量は極端に多くはならなかったが、奈良県内で1時間雨量118ミリメートルを記録するなど豪雨となり、紀の川や櫛田川など大台ヶ原を水源とする河川で洪水被害が大きくなり、橋梁の流失4160箇所、堤防決壊5760箇所などがあったのをはじめ、山間部では土石流や鉄砲水による住家や耕地の流失・埋没の被害が大きかった。岐阜県養老郡養老町は、揖斐川の堤防が決壊し、ほとんど水につかってしまった。
- 暴風による被害も大きかった。最大風速は四国東部から関東南部の沿岸で30メートル以上、伊勢湾沿岸では45メートル以上、瞬間的には65メートルを越えた所もあった。このため建物の全半壊、送電線の切断、電柱・鉄塔の倒壊、風倒木が多く、塩風害も多発した。
- 半田競艇場は、この台風により選手控え室を除く全ての建物を損壊したため、閉鎖を余儀なくされた。なお同競艇場の主催者であった半田市は、その後現在に至るまで常滑競艇場において一部日程のレースを主催している。
[編集] 被害拡大の原因
伊勢湾台風は進路予想もかなり正確であり、早い時期から上陸が確実視され、充分な防災対策を講じる余裕があったにもかかわらず空前の大被害が発生した。
伊勢湾台風で最も顕著であったのは高潮の被害であった。台風の勢力が衰えず、熊野灘から知多湾・三河湾・伊勢湾では台風が西側を北上して非常に強い南寄りの暴風が持続する状況となり、各地の気象官署で過去の記録を更新、最低気圧の記録も同様であった。この強い風による吹き寄せと低気圧による吸い上げの効果により高潮が起こり、満潮時を外れていたにもかかわらず名古屋港では海水位が平均海面上3.89メートル(うち気象潮は3.45メートルで、それまでの最高であった室戸台風の3.1メートルを上回った)、工事基準面からの高さは5.31メートルに及ぶ、観測史上最高水位を記録した。名古屋地方気象台では、高潮警報は出したものの潮位は2メートル程度と予想していた。この記録破りの高潮に対し、伊勢湾奥の海岸堤防の高さは3.38メートルしかなかった。また、名古屋市やその周辺では急速な工業発展に伴う地下水のくみ上げで地盤沈下が激しく、高潮に対して非常に脆弱な土地が広がり、そこに無計画に市街化が進んでいたことも被害を大きくした。名古屋市南部を含む伊勢湾岸に多い干拓地の被害も激甚で、有名な鍋田干拓地では堤防のほとんどが破壊され、住宅地と耕地は全滅、314人の入植者のうち生存者は128人に過ぎなかった。
このような高潮で最も多くの人命が失われたのは名古屋市南西部の南区や港区であるが、これには名古屋港の貯木場から流出した20万トンに及ぶラワン材などによるところが大きい。直径1メートル、長さ10メートル、重量7~8トンにもなる木材の大群が高潮に乗って住宅地を壊滅させたものである。南区では、およそ1,500人の犠牲者の大部分がこうした流木によると考えられる。
また、一般住民に災害に対する認識が希薄で、行政側も効果的な避難誘導や防災体制が不充分であった点も指摘されている。被災・死亡した人々の多くが、自分たちが海抜高度の低い危険地帯に住んでいることを知らず、台風の接近により停電となって情報が入らなくなり、避難の機会を失った。行政による避難勧告も実施されなかった所が多かった。
- 注)伊勢湾台風の高潮が大規模であったのは、台風襲来時が満潮(さらに大潮)と重なったためであると、インターネット上の記事や一部マスコミ、2005年に出版された台風に関する書籍の中でも記されていたが、これは誤りである。当時の満潮時間は9月27日0時45分で、伊勢湾台風が名古屋市に最接近したのは26日21時30分頃であったから、3時間以上のずれがあり、また当時の月齢は24.0で、これは小潮に近いものである。伊勢湾台風の高潮が記録的であったのは、台風の勢力が強大であったことと、伊勢湾が奥行き深く遠浅であったことによる。なお、潮汐と月齢は中部日本新聞(現『中日新聞』)9月26日朝刊及び夕刊によった。
[編集] 伊勢湾台風からの復興
伊勢湾台風の大被害により、日本の防災対策は根本からの変更を迫られた。被災から2週間後の1959年10月9日には、当時の科学技術庁長官中曽根康弘を委員長とする臨時台風科学対策委員会が設けられ、現地を視察した中曽根委員長は防災のための立法措置を示唆している。そして1961年1月に「災害対策基本法」が公布された。防災対策を総合的かつ計画的に進めることとし、防災計画の作成、市外予防、災害発生時の対策や救援、復旧等の基本がまとめられたものである。
また東京をはじめとする全国各地の防潮堤・堤防の建設や改修も伊勢湾台風を基準とし、伊勢湾沿岸では特に国や県が協力して防潮堤を完成させた。高潮の被害にあった愛知県弥富市の鍋田干拓地の堤防は、伊勢湾台風級の高潮が来ても決壊しないように高く頑丈に造られた。
これに加え治水対策が強化された。従来進められていた治水計画を大幅に上回る洪水を記録した河川が多く、建設省や各地方自治体は河川改修を根本的に見直さざるを得なかった。この為揖斐川や紀の川、櫛田川、淀川などの水系で治水計画が改められ伊勢湾台風時の洪水に耐えうる治水計画・河川総合開発事業が計画された。これは宮川流域だけが宮川ダムの洪水調節によって浸水被害を最小限に食い止めたことなども影響している。伊勢湾台風を機に計画・建設されたダムとして徳山ダム・横山ダム(揖斐川)、大滝ダム(紀の川)などがある。
[編集] 逸話
- 名古屋市では、第二次世界大戦で焼失した名古屋城と金の鯱(しゃちほこ、金鯱)が伊勢湾台風襲来直前に再建されたが、名古屋の高潮災害は金の鯱のせいではないかと言う話が台風後に市民の間でささやかれた。もともと鯱(しゃち)は水を呼ぶ力があるとされ、それ故火除けのために城の屋根に付けられるようになったのであるが、伊勢湾台風の水害も金の鯱が呼んだのだ、と言うわけである。
- 多大の犠牲者が出たのは、暴風雨の最盛期に停電でラジオもテレビも機能しなくなって情報が途絶したためでもあることが一般にも認識され、トランジスタラジオの普及が進んだ。乾電池を電源に、当時最新の半導体技術を用いた小型の携帯ラジオで、これによりいつでもどこでも迅速な情報入手が可能になり、台風や地震の時に役立った。メディア時代の黎明を告げたと言えよう。
- 被害を受けた近畿日本鉄道の名古屋線はそれまで線路幅(軌間)が1067mm(狭軌)であり、大阪線・山田線の1435mm(標準軌)と異なっていたため名古屋~大阪・伊勢を結ぶ鉄道でありながら直通運転はできず、伊勢中川駅で乗り換えなければならなかった。この台風からの復旧工事と同時に、かねてから準備を進めていた、名古屋線の線路幅を狭軌から標準軌に改める工事を実施し、名古屋~大阪・伊勢間の直通特急などが走るようになって、輸送力の改善が進んだ。
[編集] 参考文献
- 「気象」1986年10月号 財団法人日本気象協会
- 「台風経路図30年集」1973年 財団法人日本気象協会
- 「'56~'65年天気図10年集成」1973年版 財団法人日本気象協会
- 「台風に備える」1972年 日本放送出版協会
- 「四季の天気予報と気象災害」1968年 気象庁予報技術研究会
- その他多数

