令制国

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令制国(りょうせいこく)とは、律令制に基づいて設置された日本の地方行政区分である。奈良時代から明治初期まで、日本の地理的区分の基本単位であった。律令国(りつりょうこく)ともいう。琉球国蝦夷国の国は江戸時代以前は外国の国で、ここには含まない。ただし琉球国は明治維新時に令制国として設置され、1871年鹿児島県(後沖縄県)に編入。(世界大百科事典参考。)

令制国の行政機関を国衙(こくが)または国庁(こくちょう)といい、国衙の所在地や国衙を中心とする都市域を国府(こくふ)といった。国府は府中と呼ばれることもあった。

目次

[編集] 用語

令制国が行政・地理の基本単位として用いられていた時代には、正式にも慣用的にも「国」とだけ呼ばれていた。後代の20世紀には「旧国」「旧国名」とも呼んだ。「令制国」という語は、20世紀末に用いられ始めた歴史学の用語である。律令のうち、令によって規定される制度を令制というので、令制の国を令制国と呼ぶ。

[編集] 令制国の成立

日本の古代には、令制国が成立する前に、土着の豪族である国造(くにのみやつこ)が治める国と、県主(あがたぬし)が治める県(あがた)が並立した段階があった。それに対して、令制国は、中央から派遣された国司が治める国である。

日本書紀』には、645年大化の改新の際に、東国に国司を派遣したという記事があり、最近までこれが令制国の設置を表すと考えられていた。ところが、出土した木簡などの資料から、書紀の編者が、古い時代の官衙や官職の呼称を、編纂当時の呼称に置き換えて記述している事が判って来た。この発見により、書紀の地方官制の記述の信頼性が低落したため、現在は令制国成立について確定的な説がない。

令制国が確実に成立したと言えるのは、701年大宝元年)に制定された大宝律令からである。故に、令制国の成立時期は早ければ645年、遅ければ701年となる。この間の段階的な制度変化の結果であった可能性も高い。

[編集] 令制国成立に伴い分割された国

[編集] 律令制下

奈良時代初期の713年に、平城京奈良)の元明天皇は、令制国毎に「風土記」という地誌を編纂させた。現在、出雲国常陸国播磨国肥前国豊後国の物が、一部残存している。

同年に施行された諸国郡郷名著好字令によって、全国の国名が漢字2文字に統一されている。

740年代に聖武天皇が政権に就いた時期には、平城京では疫病が蔓延し、社会不安が広がっていた。これを払拭すべく、妻たる光明皇后の意見も有って、令制国には国分寺国分尼寺が建立された。

800年頃に出された延喜式には、各令制国におけるの個数が記載された。

[編集] 中近世

律令制が事実上崩壊してからも、鎌倉時代においては、依然として各国に国衙が置かれ、国を支配していた。南北朝時代に戦乱が全国に及ぶと、守護大名の力が増大し、国衙も支配するようになった。それにともない室町時代には守護による領国支配が進行した。

戦国時代になると、律令時代からの行政単位としての国は消滅した。国司は、完全に名目だけの官職となり、戦国大名が領国支配の正当性を主張するために欲するようになる。天正時代江戸時代には、地方統治は大小多様の大名と、大名に準ずる領主、江戸幕府の直轄領に分割された。領有が細分化した地方に特別な機関を置く場合を除いて、国を単位とする行政はなかった。(ただし国司を任じていたことから、名目のみ行政区分としての令制国は存在していた。)しかし、地理的な区分には、依然として律令国が用いられた。

[編集] 明治以後

地理的な区分としてのみ国を残した点では、明治時代も変わらなかった。江戸時代までとの違いは国司を廃止したことであり、国司廃止によって名実共に地理的な区分にすぎなくなった。明治政府は、陸奥国を5国に、出羽国を2国に分割し、北海道に11国を新設し、さらに琉球国を置いて85国としたが、国単位での行政機関を置かなかった。1871年廃藩置県は藩を廃止したもので、国はその後も府県と併用された。1885年までは北海道において令制国の範囲改定が行われたりしていたことから少なくともこの年までは制度上存在していたが、台湾・朝鮮など1895年以降の新領土に新たな令制国は設定されなかった。国の使用は次第に廃れていったので、法令による廃止はされていない。その後も現在まで、同じ地名を呼び分けたり、旧国の知名度を借用したりするために、旧国名が利用されている。また、北海道条例・国法においては「法務局及び地方法務局の支局及び出張所設置規則」において、支庁や法務局およびその下部組織の所管区域を示す規定中に令制国が示されているものもある。

[編集] 令制国の数

令制国は、奈良時代までと明治時代に大きな改廃がなされたが、その間の平安時代から江戸時代までの長期にわたって変更がなかった。その数は68であるが、66とされることも多かった。(この場合、対馬・壱岐が「嶋」としてはずれる)例えば11か国を守護領国とした山名氏は、全国の六分の一の国を領したという意味で「六分一殿」と呼ばれた。「全国一宮一覧」など全ての国を列挙するような場合には、実際の国の数と合わないので、備前・備中・備後をまとめて吉備とする(ただし、備前から分かれた美作はそのまま)など無理に2国減らして66にすることも行われた。「六十余州」と表現することもあった。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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