中御門宣胤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中御門 宣胤なかのみかど のぶたね嘉吉2年(1442年) - 大永5年11月17日1525年12月1日))は、室町時代中期から戦国時代にかけての公卿である。藤原北家勧修寺流中御門家当主。出家後の法名は乗光。

[編集] 生涯

嘉吉2年(1442年)、権大納言中御門明豊の子として生まれる。翌年数え2歳にして叙爵。文安5年(1448年)従五位上・右衛門佐に任ぜられる。康正元年(1455年)正五位上左少弁蔵人、翌年に右中弁に進み、以後朝廷の実務に携わる。寛正2年(1461年)には後花園天皇の蔵人頭、同5年(1464年後土御門天皇の蔵人頭となっている。やはり実務派官僚である甘露寺親長の娘を娶った。文正元年(1466年従三位参議となり公卿に列する。

応仁元年(1467年)に勃発した応仁の乱以来、朝廷儀式の荒廃・形骸化は著しく、これを嘆いた宣胤は復興を目指して公卿の長老で有職故実に詳しい一条兼良らから教えを請い、先例を学んで若い公卿らに指導した。また、宣胤は書道和歌にも巧みで、しばしば揮毫を依頼されている。長享2年(1488年)には権大納言に昇進。永正8年(1511年)には従一位に昇るが、その後まもなく出家し、乗光と号する。大永5年(1525年)に死去。享年84。日記として『宣胤卿記』がある。

子に中御門宣秀、四条隆永らがおり、また娘の寿桂尼は、今川氏親に嫁ぎ、氏輝義元などを生み、孫の今川氏真の後見役を務めるなど影響力が強く、駿河の女大名と呼ばれた人物である。

[編集] 官職位階履歴

[編集] 関連項目

ことばこって?

「ことばこ」は、歴史の人物から最先端テクノロジーまで、なんでも調べられるオンライン百科事典です。ウィキペディア財団が運営を行なっているwikipedia.orgから引用をしています。

おススメサイト
トラブログ
アレどう?
アフィリエイトB