ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

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Painting by Barbara Krafft 1819
<tr valign="top"><th style="text-align:right;">没年</th> <td>12月5日, 1791年
ウイーン, オーストリア (aged 35)</td></tr>
Wolfgang Amadeus Mozart
生誕 1月27日, 1756年
ザルツブルク, オーストリア
(当時は神聖ローマ帝国ザルツブルク司教領)

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトWolfgang Amadeus Mozart, 1756年1月27日 - 1791年12月5日)は最も有名なクラシック音楽作曲家の一人であり、また、ハイドンベートーヴェンと並ぶウィーン古典派3巨匠の一人。オーストリアの都市であるザルツブルクに生まれ、ウィーンで没した。称号神聖ローマ帝国皇室宮廷室内作曲家、神聖ローマ帝国皇室クラヴィーア教師、ヴェローナのアカデミア・フィラルモニカ名誉楽長など。

目次

[編集] 人物

[編集] 家族

ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1789年の肖像画)

父親はザルツブルクの宮廷作曲家、ヴァイオリニストであったレオポルト・モーツァルト(Leopold Mozart, 1719年 アウクスブルク - 1787年ザルツブルク)、母親はアンナ・マリーア・ペルトル(Anna Maria Pertl, 1720年 ザンクト・ギルゲン - 1778年パリ)、姉はマリーア・アンナ(Maria Anna Mozart, 1751年 - 1829年)愛称ナンネル (Nannerl) である。なお、祖先の姓はモッツハルト(Motzhardt)。

モーツァルトは妻コンスタンツェ(Constanze, 1762年 - 1842年)との間に四男二女をもうけたが、当時は医学が発達した時代ではなかったため、そのうち成人したのはカール・トーマス(Karl Thomas, 1784年 - 1858年)とフランツ・クサーヴァー(Franz Xaver, 1791年 - 1844年)だけで、残りの4人は乳幼児のうちに死亡している。フランツ・クサーヴァーは職業音楽家となり、「モーツァルト2世」を名乗った。成人した2人の男子はどちらも子供を残さなかったため、モーツァルトの直系の子孫はいない。

[編集] 名前

モーツァルトの洗礼名はJohannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozartである。Theophilos(テオフィロス)はギリシア語で「神を愛する」または「神に愛された」の意で、Theophilusはラテン語形。当時はイタリア音楽家がもてはやされており、モーツァルトはTheophilosをラテン語で意訳したAmadeus(アマデウス)を通称として使用していた。また、"Johannes Chrysostomus"は4世紀の教会博士聖人ヨハネス・クリュソストモス にちなんでいる。

石井宏は、モーツァルトはAmadeusではなくイタリア語ふうのAmadeo(アマデーオ)を主に使っていたとしている。<ref>石井宏、前掲書、127頁</ref>フランス語ふうのAmadé(アマデ)、ドイツ語ふうのGottlieb(ゴットリープ) も用いたことがある。

[編集] 容姿

肖像画や銅像では、いずれも“神童”に相応しい端麗な顔や表情、体型をしており、子供の姿で描写されたものも多いが、実際の容姿に関しては諸説ある。有力なのは、「11歳の時に罹った天然痘の痕がいくつもあり、丸鼻で近眼」というものである。本当の顔立ちを知る手がかりとなるはずだったデスマスクは、葬儀の後の整理の際コンスタンツェがうっかり落として割ってしまった。体躯に関しても「小男である」「肥満が著しかった」という説がある。

[編集] 性格

モーツァルトが書いたとされる手紙は多く残されているが、手紙は最大5ヶ国語を使い分けて書かれており、モーツァルトが語学に長けていたことが伺える。実際、会話においては少年時代において、既に少なくとも14の言語を話す事ができたという[要出典]。また友人などに宛てた手紙の中においては、何の脈絡もなく世界の大洋や大陸の名前を列挙し始めたり、文面に何の関係もない物語を詳細に書き出したりするなど、彼のユーモラスな面を見る事ができる。

モーツァルトは従姉妹に排泄にまつわる駄洒落にあふれた手紙を送ったことがあり<ref>前掲『モーツァルトの手紙』上巻79頁。1777年のいわゆる「ベーズレ書簡」。「あなたの鼻に糞をします」などの記述がある。従姉妹はマリア・アンナ・テークラ・モーツァルトで、父レオポルトの弟の娘。メイナード・ソロモンは、前掲書第10章でモーツァルトがこの女性と肉体関係にあったとしている。</ref>、 『俺の尻をなめろ』(K.231、K.233)というカノンも作曲している。このことは、彼にスカトロジーの傾向があったとしばしば喧伝されるエピソードであるが、当時の南ドイツでは親しい者どうしでの尾ろうな話は日常的なものであり、タブーではなかった<ref>アインシュタイン、前掲書、47頁</ref>。 19世紀の伝記作者はスカトロジーの表現を無視したり破棄したりしてモーツァルトを美化したが、現在ではこうした表現は彼の快活な性格を表すものと普通に受け止められている。

冗談好きな一面もあり、ある貴族から依頼を受けて書いた曲を渡すときに手渡しせず、自分の家の床一面に譜面を並べ、その貴族に一枚一枚拾わせたというエピソードがある。他にも自身の音楽の中で、譜面において演奏者を困らせるためだけに金管楽器の音符を数小節ごとにインクの色を変えて書いていたという[要出典]

[編集] 私生活

ボウリングビリヤードを好み、賭博にもよく興じたという。高価な衣装を好み、立派な住居を求めて何度も引越しをした。モーツァルトの晩年の借金の原因として、浪費に加えて「ギャンブラー説」を唱える人もいるが、確かなことは不明である<ref>礒山雅『モーツァルト=二つの顔』講談社選書メチエ、37-40頁</ref>。

[編集] 生涯

ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトを描いた肖像画の中でも特に有名なこの一枚は、モーツァルト死後の1819年にバーバラ・クラフトによって描かれたものである

1756年、ザルツブルクに生まれる。父レオポルトは息子が天才であることを見出し、幼少時からモーツァルトに音楽教育を与えた。モーツァルトは父とともに音楽家としてザルツブルクの大司教ヒエロニュムス・コロレドの宮廷に仕えた。一方で、モーツァルト親子は何度もウィーン、パリ、ロンドン、およびイタリア各地に大旅行を行った。これは、神童の演奏を披露したり、よりよい就職先を求めたりするためであったが、どこの宮廷でも就職活動に失敗する。

1781年、25歳のモーツァルトはザルツブルクを出てウィーンに定住。フリーの音楽家として演奏会、オペラの作曲、レッスン、楽譜の出版などで生計を立てた。ウィーンではピアニストとして人気を誇ったが、晩年までの数年間は収入が減り、借金を求める手紙が残されている。1791年、ウィーンでレクイエムの作曲中に35歳の若さで没した。

[編集] 年譜

  • 1756年 - (0歳) 1月27日、ザルツブルクに生まれる。
  • 1759年 - (3歳) クラヴィーア(ピアノの前身)を弾き始める。
  • 1761年 - (5歳) 最初の作曲を行う(『アンダンテ ハ長調 K.1a』)。
  • 1762年 - (6歳)
  • 1763年1766年 - (7~10歳) パリ・ロンドン旅行。
  • 1767年1769年 - (11~13歳) 第2回ウィーン旅行。オペラ『ラ・フィンタ・センプリーチェ』上演。
  • 1769年1771年 - (13~15歳) 第1回イタリア旅行。父と共にミラノ、ボローニャを経てローマへ。システィーナ礼拝堂では、門外不出の秘曲とされていた、ドメニコ・アレグリ(Domenico Allegri, 1587年?-1629年)の9声部の『ミゼレーレ』を聴き、暗譜で書き記したという逸話が残されている。
  • 1771年 - (15歳) 第2回イタリア旅行。セレナード『アルバのアスカニオ』ミラノで上演。
  • 1772年1773年 - (16~17歳) 第3回イタリア旅行。ミラノでオペラ『ルチオ・シッラ』上演。
  • 1773年 - (17歳) 第3回ウィーン旅行。
  • 1774年1775年 - (18~19歳) 第4回ウィーン旅行。オペラ『偽りの女庭師』上演。
  • 1777年 - (21歳) ザルツブルクでの職を辞しミュンヘン、マンハイムへ就職旅行したが成果無し。マンハイムでは、マンハイム楽派の影響を受ける。
  • 1778年 - (22歳) マンハイム→パリ旅行。アロイジア・ヴェーバーに恋愛。パリでの就職も不首尾に終わる。
    • 7月3日、同行した母パリで死す。帰路ミュンヘンでアロイジアに失恋。
  • 1779年 - (23歳) ザルツブルクに帰郷。ザルツブルク宮廷にオルガニストとして復帰。
  • 1780年 - (24歳) オペラ『イドメネオ』の準備のためにミュンヘンに赴く。女帝マリア・テレジア崩御。
  • 1781年 - (25歳) 3月、ザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コロレドの命でミュンヘンからウィーンへ。6月、コロレドとの衝突、解雇。そのままウィーンに定住を決意。
  • 1782年 - (26歳) オペラ『後宮からの誘拐』をウィーンで初演(7月)。
  • 1783年 - (27歳) ザルツブルクに帰郷。『大ミサ曲ハ短調 K.427(417a)』を上演。
    • 6月長男誕生するもザルツブルク旅行中に死亡。
  • 1784年 - (28歳) 第2子カール・トーマス・モーツァルト1784年-1851年)誕生。
    • フリーメイソンに入会(書類上では12月5日)。以後その思想に影響を受けたとみられる。
  • 1785年 - (29歳) 弦楽四重奏曲集をハイドンに献呈(「ハイドン・セット」)。
    • 2月、父レオポルトがウィーン訪問。息子の演奏会が盛況なことを喜ぶ。レオポルトはハイドンから息子の才能について賛辞を受ける。
  • 1786年 - (30歳) オペラ『フィガロの結婚 K.492』をブルク劇場で初演。
  • 1787年 - (31歳) 「フィガロの結婚」がプラハで大ヒットしたため同地訪問。
    • 4月 - ベートーヴェンがモーツァルトを訪れる?(記録無し)。
    • 5月 - 父レオポルト死去。
    • 10月 - 新作の作曲依頼を受け、オペラ『ドン・ジョヴァンニ K.527』を作曲、初演。
    • このころから借金依頼が頻繁に行われる。
  • 1788年 - (32歳) “3大交響曲”(交響曲第39番~第41番)を作曲。
  • 1789年 - (33歳) ベルリン旅行。
  • 1790年 - (34歳) オペラ『コジ・ファン・トゥッテ K.588』初演(1月)。
    • 2月、皇帝ヨーゼフ2世が逝去し、レオポルト2世即位。フランクフルトで行われた戴冠式に同行。同地で私費を投じてコンサートを開催し、ピアノ協奏曲26番ニ長調「戴冠式」同19番ヘ長調「第2戴冠式」などを演奏するも、観客は不入りだった。
  • 1791年 - (35歳) 7月 第6子フランツ・クサーヴァー・モーツァルト(モーツァルト2世)(1791年-1844年)誕生。
    • 最後のピアノ協奏曲第27番K.595作曲(1月)。この曲を自ら初演した3月4日のコンサートが演奏家としてのモーツァルト最後のステージとなる。
    • 9月、プラハで行われたレオポルト2世のボヘミア王戴冠式でオペラ『皇帝ティートの慈悲』K.621初演。
    • 9月、シカネーダーの一座のためにジングシュピール『魔笛』K.620を作曲、初演。
    • 体調を崩し、11月から悪化。12月5日にウィーンにて永眠。(死と死因を参照)。遺体が埋葬された位置は不明である(#葬儀と墓を参照)。

[編集] 死と死因

1791年、モーツァルトは『皇帝ティートの慈悲』、『魔笛』、クラリネット協奏曲と作品を次々に書き上げ、精力的に仕事をこなしていたが、『皇帝ティートの慈悲』上演のためプラハに行った時にはすでに体調を崩し、薬を服用していたという。レクイエムに取り組んでいる最中の11月20日から病床に伏し、2週間後の12月5日午前0時55分に死亡した。症状としては全身の浮腫と高熱であったという。ウィーン市の公式記録では「急性粟粒疹熱」とされる。実際の死因は「リューマチ熱」(リューマチ性炎症熱)であったと考えられている。 <ref>ピーター・J・デイヴィーズは、モーツァルトは以前にかかった伝染病の影響で慢性的な腎臓病を患っており、11月に再び伝染病にかかったため、症状が急激に悪化して死に至ったとしている。ランドンの前掲書、268頁を参照。</ref>。また、医者が死の直前に行った瀉血が症状を悪化させたとも言われる。

実際の死因が「リューマチ熱」(リューマチ性炎症熱)であったと述べたが、これに関しては、幼少期の度重なる旅行が原因であったとする説も存在している。実際にモーツァルトは旅行先で病に伏すことが少なくなかった事が、手紙や記録に残されている。これは当時の医療技術が未熟であったがために幼児の死亡率が高かった事と、道路の舗装が不完全であったがために馬車の振動が健康を脅かしていった事が背景にある。そして、モーツァルトはこのとき罹患したリューマチに終生悩まされる事となる。このリューマチを持病としたためにモーツァルトの体格は小柄になり、さらには直接の死因にまでなってしまった、とも考えられた。

モーツァルトは病に伏す前に、妻コンスタンツェに「自分は毒を盛られた」と語ったことがある。実際妻の手紙に「私を嫉妬する敵がポークカツレツに毒を入れ、その毒が体中を回り、体が膨れ、体全体が痛み苦しい」とまでもらしていたと言う。2002年のイギリスのモーツアルト研究家はモーツアルトはポークカツレツの豚肉の寄生虫によって死んだとさえ説いた。これは現在証明は困難であるが、実際、当時の売れなかった二流の音楽家達は彼を非常に敵対視していたため、可能性が再浮上している。また、死の後にウィーンの新聞は「毒殺されたのではないか」と報じた。しかし、当時モーツァルトの周囲の人間で毒殺を信じていていた者はいない。1820年ごろになると、ウィーンではロッシーニを担ぐイタリア派とウェーバーを担ぐドイツ派の論争・対立の中で、「サリエリがモーツァルトを毒殺した」という噂が流行した。老いたサリエリは、1825年に死ぬまでこの噂に悩まされることとなる。この噂をアイデアとして、『モーツァルトとサリエリ』(プーシキン)や『アマデウス』などの作品が作られた。

[編集] 葬儀と墓

葬儀の日取りは「12月6日説」と「12月7日説」の2つがある <ref>寺院に残された台帳によれば葬儀は6日に行われた。[[ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)|]]の勅令で、死人は死後48時間経たないと埋葬できない規定があったため、6日の深夜から7日の朝に埋葬されたと思われる。葬儀の日は嵐だったとする報告があり、6日は穏やかな天候であったため、葬儀は7日に行われたとする説がある。しかし、実際には7日にも降水はなく、強風が吹き始めたのは7日の深夜になってからであった。ソロモンの前掲書、749頁参照。</ref>。 最低料金(あくまで庶民扱いであった)の葬儀後、遺体はウィーン郊外のサンクト・マルクス墓地の共同墓穴に埋葬された。誰も霊柩車に同行せず、墓碑もないため、実際に埋葬された位置は不明である <ref>葬儀の簡素化はヨーゼフ2世の合理主義的政策の1つであり、家族や知人が葬列に同行しないことは当時の慣習となっていた。ソロモンの前掲書、751頁参照。</ref>。

没後100年の1891年、中央墓地(ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスら著名音楽家が多数眠る墓地)に当時サンクト・マルクス墓地にあった「モーツァルトの墓とされるもの」が記念碑として移動した際、またもや位置が分からなくなってしまった。現在サンクト・マルクス墓地にある「モーツァルトの墓とされるもの」は、移転後に墓地の看守が打ち捨てられた他人の墓の一部などを拾い集めて、適当な場所に適当に作ったものである。もちろん、「墓とされるもの」の下に骨があるわけではない。

なお、サンクト・マルクス墓地は1874年に新たな中央墓地が建設されたことをもって新規の受け入れを停止している。ヨハン・シュトラウス2世の弟、ヨーゼフ・シュトラウスも最初はここに埋葬されていた(1909年に中央墓地に移設)。

現在、国際モーツァルテウム財団(ザルツブルグ)にはモーツァルトのものとされる頭蓋骨が保管されている。頭蓋骨に記された由来によれば、埋葬後10年目にモーツァルトを埋葬した墓地は再利用のため整理され遺骨は散逸してしまったという。この時、頭蓋骨だけが保管され、以来、複数の所有者の手を経て1902年に同財団によって収蔵された。遺骨の真贋については、その存在が知られた当初から否定的な見方が多いが、2004年、ウィーン医科大学の研究チームがモーツァルトの父レオポルドほか親族の遺骨の発掘許可を得て、問題の頭蓋骨とのDNA鑑定を行うと発表した。鑑定結果はモーツァルト生誕250年目の2006年1月8日にオーストリア国営放送のドキュメンタリー番組として公表された。これによると、調査の試料となったのは頭蓋骨の2本の歯と、モーツァルト一族の墓地から発掘した伯母と姪のものとされる遺骨から採取されたDNAであった。検査の結果、頭蓋骨は伯母、姪の遺骨のいずれとも縁戚関係を認められなかったが、伯母と姪とされる遺骨同士もまた縁戚関係にないことが判明し、遺骨をめぐる謎は解決されなかった。

[編集] 作品

詳細はモーツァルトの楽曲一覧およびCategory:モーツァルトの楽曲を参照。

作品総数は、断片も含め700曲以上に及ぶ。作品はあらゆるジャンルにわたり、声楽曲(オペラ、教会用の宗教音楽歌曲など)と器楽曲(交響曲協奏曲室内楽曲ピアノソナタなど)のどちらにも多数の作品が残されている。

作品を識別するには、音楽家のルートヴィヒ・フォン・ケッヘルが分類した作曲順の目録であるケッヘル番号(K.+数字)が使われる。ケッヘル番号は何度か改訂されており、最新のものは第8版である。モーツァルト自身は、1784年以降に自作の作品目録を付けている。1784年より前の作品や、モーツァルト自身の作品目録に載っていない作品には、作曲の時期がはっきりしないものもある。

代表的な作品

[編集] 作風

クラシック音楽
作曲家
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音楽史
古代 - 中世
ルネサンス - バロック
古典派 - ロマン派
近代 - 現代
楽器
鍵盤楽器 - 弦楽器
木管楽器 - 金管楽器
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音楽理論/用語
音楽理論 - 演奏記号
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宗教音楽
メタ
ポータル - プロジェクト
カテゴリ

</div> 古典派音楽の代表であり、ハイドンベートーヴェンと並んでウィーン古典派三大巨匠の一人である。最初は父経由でヨハン・ショーベルトなどの当時のヨーロッパで流行した作曲家たちの様式を、クラヴサン曲を中心に学んだ。その後ヨハン・クリスティアン・バッハの影響をピアノ・管弦楽曲の双方で受けた。後期に入るとハイドンとヨハン・ゼバスティアン・バッハの影響が強い。

モーツァルトの作品はほとんどが長調で、装飾音の多い軽快で優美な曲が多い。これは、当時の音楽の流行を反映したもので、ロココ様式あるいはギャラント様式と呼ばれる。晩年に向かうにつれて、長調の作品であっても深い哀しみを帯びた作品が増え、しばしば「天国的」と形容される。また、短調作品は非常に少ないながら悲壮かつ哀愁あふれる曲調で、交響曲第40番ト短調のように人気が高い。

モーツァルトの時代には、ポリフォニー音楽が流行遅れになり、ホモフォニー音楽が支配的になっていた。しかしモーツァルトはバッハやヘンデルの作品を研究し、交響曲第41番の終楽章のように対位法を活用する手腕もあった。

「下書きをしない天才」と言われることがある。モーツァルトが非凡な記憶力を持っていたのは多くの記録からも確かめられているが、自筆譜の中には完成・未完成曲含めて草稿及び修正の跡が多く発見されているというのが事実である。人気の高いピアノ協奏曲23番においては、数年前に書かれた草稿が発見されている。ただし作曲するのが早かったのは事実であり、例えば交響曲第36番はモーツァルトがリンツを訪れている間に作曲されたものであるが、父親との手紙のやり取りから彼が3日でこれを書き上げた事が分かっている。交響曲第39番から41番までの三つの交響曲は6週間で完成させている。また別の手紙からは、彼が頭の中で交響曲の第1楽章を作曲したあと、それを譜面に書き起こしながら同時に第2楽章を頭の中で作曲し、今度は第2楽章を書き起こしている間に第3楽章を頭の中で作曲した、という手順を踏んでいたという事が分かっている。

モーツァルトの作品の多くは、手紙や各種の資料で確認できるように生計を立てるために注文を受けて書かれた。モーツァルトの時代は作曲家がのちの時代のように「自己表現の方法として作曲し、聴衆にもそれが理解される」という状態には至っておらず、モーツァルトも芸術家というよりあくまで「音楽の職人」だった。彼が子供の頃から各地を旅行して廻った理由のひとつが就職活動であり、ベートーヴェンのようにフリーランスとして生きていくことは非常に困難な時代だった。従って、モーツァルトの作品はその時代に要求された内容であり、たとえば長調の曲が多いのは、それだけ当時はその注文が多かった(したがって人気があった)事の証でもある。モーツァルトの作品はベートーヴェンの作品と比較してその差異を論じられることもあるが、決定的に異なっているのはふたりがおかれていた社会的状況の差であると言える。

[編集] 関連項目

[編集] モーツァルトを扱った作品

[編集] 参考文献と脚注

[編集] 参考文献

  • NEUE MOZART-AUSGABE (新モーツァルト全集)
    • ベーレンライター社・パックスアーレン社のソフトカバー版が入手できる。
  • アルフレート・アインシュタイン『モーツァルト-その人間と作品』浅井真男訳、白水社、1961年(原著1945年) 1997年の新版:ISBN 4-560-03732-9
  • 『モーツァルトの手紙』(上下巻)柴田治三郎編訳、岩波書店(文庫)、1980年 ISBN 4-00-335041-3 ISBN 4-00-335042-1
  • H.C.ロビンズ・ランドン『モーツァルト最後の年』海老澤敏訳、中央公論社、2001年(原著1988年) ISBN 4-12-003114-4
  • メイナード・ソロモン『モーツァルト』石井宏訳、新書館、1999年(原著1995年) ISBN 4-403-12006-7
  • 石井宏『反音楽史-さらば、ベートーヴェン』新潮社、2004年 ISBN 4-10-390303-1

[編集] 脚注

<references/>

[編集] 外部リンク

ウィキクォートヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトに関する引用句集があります。

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