ロナルド・レーガン
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| ロナルド・レーガン Ronald Wilson Reagan | |
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| アメリカ合衆国40代大統領
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| 任期: | 1981年1月20日 – 1989年1月20日 |
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| 副大統領: | ジョージ・H・W・ブッシュ |
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| 出生: | 1911年2月6日 イリノイ州タンピコ |
| 死去: | 2004年6月5日 カリフォルニア州ベルエア |
| 政党: | 共和党 |
| 配偶: | ナンシー・レーガン |
| サイン: | |
ロナルド・ウィルソン・レーガン (Ronald Wilson Reagan, 1911年2月6日 - 2004年6月5日) は、第40代アメリカ合衆国大統領。彼は最年長で選出された大統領 (69歳349日) および大統領に選ばれた最初の (そして現在唯一の) 離婚経験者。ベルリンの壁およびソ連の崩壊に関し大きな役割を演じた。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 生い立ち
イリノイ州タンピコで、父ジョン・レーガンと母ネル・ウィルソンの間の2人の息子の2番目として生まれた。レーガン家はアイルランド系の家系である。数年間にわたり町から町へ引っ越した後、1920年に一家はイリノイ州ディクソンに定住した。11歳のときにレーガンはディクソンのディサイプル教会で洗礼を受けている。
1924年にディクソンのディクソン高校に入学した。1926年、ディクソンの北5kmにあるローウェル公園に沿って流れるロックリバーでのライフセーバーが初めての仕事だった。7年間の夏季勤務中、77人を溺死から救ったとのことである。 後年レーガンは、「(救助した)彼らのうち9人は私に有難うを言わなかった。」とジョークを話したという。
イリノイ州のユーレカ大学に1928年に入学し、経済学と社会学を専攻し、1932年に卒業した。
[編集] 俳優歴
幼い頃より話術と演技に才能があり、後にそれをさらに発展させ、シカゴの大リーグチーム・シカゴ・カブスのラジオアナウンサーになった。ティッカー(ニュースなどを紙テープに印字する自動受信機)の紙テープからわかる試合の輪郭だけをもとに、自らの想像と話し方の才能をつかって実況放送を行った。1934年のセントルイス・カーディナルス戦において、カブスの9回の攻撃時に放送回線が故障したが、機器が回復するまで架空の実況放送を即興で滑らかに行った。
レーガンはハリウッドで中堅の二線級主役男優として成功した経歴を持っている。彼の映画初出演は1937年の映画"Love is On the Air"であった。1939年末までに、彼は19本の映画に出演した。1940年には、映画"Knute Rockne All American"でジョージ「Gipper」ギップの役を演じ、そこから彼はギッパーという愛称を得た。後に自身最良の作品は"Kings Row"(1942年)であるとしている。他には、"Hellcats of the Navy"、"This Is the Army"、"Bedtime for Bonzo"などに出演している。これらの功績から、ロサンゼルスのハリウッド大通り6374番のハリウッド・ウォーク・オブ・フェームには、彼の名前が刻まれた星形の敷石がある。
1935年にアメリカ合衆国陸軍の予備役将校になった。第二次世界大戦時には、1941年12月8日の日本海軍による真珠湾攻撃の後に招集され、陸軍航空隊の中の第一映画部隊に配属され、訓練用・教育用の映画の制作に携わった。終戦までハリウッドに残り大尉まで昇進した。
その後、1950年代の終わり頃には映画に出ることは少なくなり、テレビショー"General Electric Theater"の司会など、当時最新のメディアであったとして人気を集めていたテレビへとその活動の場を移していった。"Death Valley Days"の司会が、彼の俳優としての最後の仕事であった。
[編集] 結婚と離婚
1940年に女優、ジェーン・ワイマンと結婚した。彼らにはモーリーン(1941年生まれ)、マイケル(1946年養子に迎えた)の一男一女がいる。また、1947年に予定日より4か月早く生まれた娘がいたが、わずか1日で亡くなっている。1948年に離婚したが、1952年に女優ナンシー・デイビスと再婚した。
[編集] 政治経歴
[編集] 保守主義者
1950年代アメリカの反共・反ソ気運はレーガンの政治的なイメージを増強した。レーガンはフランクリン・デラノ・ルーズヴェルトおよび彼のニューディール政策を支持して、リベラル派として政治活動を始めたが、のちに保守主義者に転じた。レーガンは、映画俳優組合(SAG)の委員長の立場でありながら上院議員ジョセフ・マッカーシーやリチャード・ニクソン率いる下院非米活動委員会に協力し、「ハリウッドの赤狩り」(=マッカーシズム)に手を貸した。彼は多くの反共主義者と異なりアメリカ共産党の非合法化に強く反対した。政府と取引が多い電機メーカーのゼネラル・エレクトリック社に雇われたのは、反共産主義のスピーチをラジオ放送上で行ったからであると言われる。
その後行われた1964年の大統領選挙では、レーガンは小さな政府を唱えるアリゾナ州選出の上院議員バリー・ゴールドウォーターの熱烈な支持者だった。
[編集] カリフォルニア州知事
1966年には、カリフォルニア州の第33代知事に選ばれた。レーガンは1968年および1976年に共和党大統領候補の指名を獲得しようとしたが、共和党大会で敗北した(ただし、1976年の本選挙ではこの結果に不満を持った選挙人によってレーガンへの1票が投じられている)。
レーガンの自由主義者としての顔は、カリフォルニア州知事時代に行った政策にも如実に現れている。例えば、州議会を「バイクに乗る際、ヘルメットの着用を義務付ける」という法案が通過した際、レーガンは州知事権限でこれを取り消した。その理由は「バイクに乗る者は、バイクに乗るという行為がどれだけ危険かわかって乗っているはずだ。ならば、ヘルメットの着用などということは個人に任せるべきであって、それに州政府が関与する必要はない」というものだった。また当時激戦を極めていたベトナム戦争に関して「ベトナムを焼き払って駐車場にすればいい」と発言して批判を浴びたこともある。
[編集] 大統領選
その後レーガンは1980年に共和党指名を獲得することに成功した。選挙活動は、民主党選出で現職の大統領でもあるジミー・カーター政権下で起きたイラン大使館人質事件への対応で特徴づけられた。海外のマスコミは、選挙後まで人質を拘束させ続けるためにレーガン陣営が秘密の取り引きを結んだと非難した。
最終的にレーガンは、1980年に行われた大統領選挙で民主党選出で現職のカーター大統領を破って当選した。その後ほとんどのアナリストは、カーターのイラン大使館人質事件解決に対する無力さと優柔不断さが、カーターの敗北およびレーガンの勝利に大きな役割を果たしたと考えた。
[編集] 大統領職
1981年1月21日に大統領に就任したレーガンは、1984年の大統領選挙でも対立候補であったウォルター・モンデール(後の駐日アメリカ大使)らに圧勝し再選され2期目を務め、冷戦が終結する直前の1989年まで大統領職を務めた。
- なお、日本においては、ハリウッド俳優時代から1980年の共和党大統領候補となったあたりまで「ロナルド・リーガン」と呼ばれていたが、レーガンが就任後に財務長官に任命したドナルド・リーガンとの混同を避ける意味もあり、マスコミが共同で「レーガン」と呼ぶこととしたため、日本国民には「レーガン」が広まった。ただし本来の発音は「リーガン」が近い。
[編集] 暗殺未遂事件
大統領職に就任して69日後の1981年3月30日、講演先のワシントンD.C.のヒルトンホテルを退出しようとした際に、レーガンはジョン・ヒンクリーによって銃撃された。その時に、レーガン、報道担当官のジェームズ・ブレイディ、シークレットサービスとコロンビア特別区の警官が撃たれ重傷を負い、直ちに病院へと運ばれた。
レーガンの胸から弾丸を取り除く手術の前に、彼は外科医に、「あなたが共和党員であることを望む」と言った。ちなみにそれに対する主治医の返答は「ご安心を大統領閣下。私は今日一日は共和党員です」。また、妻ナンシーには「ハニー、私はしゃがみ忘れた(Honey, I forgot to duck)」と冗談を言った。これは1926年のボクシング・ヘビー級選手権でジャック・デンプシーの敗戦のコメントを引用したもので、デンプシーがジーン・タニーに負けた後、妻のエステレ・テーラーが彼に「何が起こったの」と尋ねると、返答は「ハニー、私は水にもぐることを忘れてたよ」というものだった。レーガンのこのような機知はよく称賛の対象となった。
この銃撃事件はレーガンの支持率に大きな影響を与え、それ以前は知識層などからポピュリストかつ右傾的だとして否定的に思われていたが、このような事態においても余裕を失わない精神的な強靭さや人格が評価され支持率が大きく上がった。後の一連の政策を行えたのはこの事件なくしては無理だとするいう意見もある。
この事件を受けて制定されたのが、民間人の銃器購入に際し、購入者の適性を確認する「ブレイディ法」(重症を負った報道官に由来)である(2005年にNRAなどの抵抗により効力延長手続きがされず失効)。
[編集] レーガノミックス
レーガンは、就任後にレーガノミックスと呼ばれる一連の経済政策を発表した。彼の政策はそれまでの需要中心の政策ではなく、供給力強化を目的としていた。
詳細はレーガノミックスの項参照。
[編集] ソ連との冷戦
多くの成功したアメリカの政治家の例に漏れず、レーガンは舞台映えのする容姿と、公衆からポジティブな反応を引き起こす本能を備えていた。その静かな話し声と力強い言葉から彼は「偉大なる伝達者」とあだ名された。1983年3月8日、彼はソ連を『悪の帝国』と名指しで非難し、また、冷戦末期の1987年には、ベルリンの壁の前でソ連大統領で当時の東側諸国のリーダーでもあったミハイル・ゴルバチョフに対し、『この壁を崩壊させよ』と攻撃した。歴史家たちはこれらの彼の言動は、彼自身のアメリカへの強い愛着と個人の権利への強い信奉に基づいているものだとしている。
レーガンの支持者の多くは冷戦の勝利は彼の功績であるとする一方、他のものは、ソ連の経済恐慌の増大、経済・政治改革の失敗および1989年の東ヨーロッパ、ソ連の共産主義体制の崩壊はソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフによって始められたと考えている。レーガンの政策は、アメリカの軍事力による強力な支援と「力による平和」主義を含んでいた。論争の的になっている彼の提案のうちの1つは戦略防衛構想(SDI、ソ連による核ミサイル攻撃からアメリカを防御するミサイル防衛システム)だった。SDIは空想的あるいはその非実用性を揶揄して当時人気であった映画スター・ウォーズにちなみ(レーガンが元映画俳優という皮肉の意味を込めて)「スターウォーズ計画」と呼ばれた。
SDIの批判者達は、技術的な目標は達成されないだろうし、この試みは軍拡競争を増長し、国家間関係を不安定化させることにつながるだろうと懸念した。他の批判者は、いくつもの別々のSDIプログラムに関わる巨額な予算は軍産関係における無駄な出費であるとみなした。支持者たちは SDIのことをソ連との軍拡競争に終止符を打つ棺桶の釘と呼んだ。彼等はSDIはソ連が彼等の核ミサイルは時代遅れであり、さらなる核抑止力を維持するための新しい技術を開発するのが負担になることを思い知らせることになるとみなした。
1970年代後半から行われたアフガニスタン侵攻で巨額の出費を続けていたソ連と、これらのアメリカの軍拡措置が、それについていこうとするソ連の経済的破綻を引き起こし、結果アメリカは冷戦に勝利することになったとも言われている。
[編集] 「5分後にソ連を爆撃する」
1984年8月、ラジオでの演説の際、本番前のマイクテストで「本日は晴天なり」の代わりに「アメリカ国民の皆さん、私はただいまソ連を殲滅する法案に署名しました。われわれは5分後にソ連を爆撃します」と言った。もちろんジョークだったが、対ソ強硬派の彼の発言であったため周囲をあわてさせた。
[編集] 対中南米政策
後にレーガン・ドクトリンとして知られることになる政策の一部として、アメリカは徐々にラテンアメリカの共産主義者の影響に強硬な姿勢をとりはじめ、それはしばしば問題にされることになる人権を軽視した反共の専制国家への支援も含んでいた。このことからレーガンは秘密裏に不法なゲリラ戦争を画策していると非難するものもいた。1983年にレーガンは小さな島国グレナダで共産主義の暴動が起きた後、公式に軍隊の侵攻を命令した。
しかしその任期の終盤には、自由選挙を実施している国に経済援助を与えるなど、冷戦の終結により共産主義の浸透の心配がなくなったラテンアメリカ諸国の民主主義への移行を支援しはじめた。
[編集] イラン・コントラ事件
その様な中で、イラン・コントラ事件として知られるイランとニカラグアに対する秘密軍事支援のスキャンダルおよび調査があった。国家安全保障担当補佐官ジョン・ポインデクスターおよび国家安全保障会議軍政部次長オリバー・ノース中佐が、イラン政府に武器を売却し、その代金をニカラグアで内戦を戦っていた反共産主義のコントラ・ゲリラに対する支援に流用する精巧な計画を企てた。
この二つの行為は明らかに法律に反しており、レーガンは計画を知らなかったことを公言したが、武器の売却が、レバノンでイランが支持するテロリスト・グループ、ヒズボラによって人質にとられているアメリカ人の釈放を安全に行うことを支援することになっていたという理由で、イランへの武器の売却を支援したと認めた。
大統領が武器販売を関知せず、自らのスタッフに対するコントロールが不十分だった点でのみスキャンダルに対して罪があったとされた。このスキャンダルはレーガンの在任中最大級のものであったが、その政治生命に対するダメージは少ないものに留まった。下院議員のパトリシア・シュローダーは、このスキャンダルでレーガンの評判が傷つかなったことを揶揄し、レーガンのことを傷のつきにくい鍋に例えて「テフロン大統領」と呼んだ。
[編集] 西側諸国首脳との関係
レーガンは多くの世界中の西側諸国首脳をはじめとする保守派の政治的指導者達と親密な友好関係を持っていた。特にイギリスのマーガレット・サッチャーと日本の中曽根康弘、カナダのブライアン・マルルーニー、やイタリアのアミニトーレ・ファンファーニなどに代表される西側諸国首脳の中でも「保守的」と呼ばれることの多い首脳とは特に親密であったと言われる。
レーガンは他の国の首脳と個人的な関係を結ぶことを強く望み、中曽根康弘とは「ロン」、「ヤス」とお互い愛称で呼び合った他、しばしば彼等を自らの牧場やキャンプ・デービッドに招待して余暇を楽しんだ。
[編集] 日本との関係
冷戦下においてソ連と対峙する北東アジアにおける軍事戦略上のパートナーとして、日本との関係を重要視したこともあり、1983年11月9日(~12日)と1986年5月4日(~6日)、1989年5月2日(~7日)の三度訪日している。一度目の来日では昭和天皇に拝謁し、内閣総理大臣中曽根康弘と会談した。東京都西多摩郡日の出町の中曽根の私邸「日の出山荘」で会談を行い、上記のようにお互いを「ロン」「ヤス」と呼び合い親交の深さをアピールした。なお、後に中曽根はレーガンの葬儀に出席している。
また、1983年9月に発生した大韓航空機撃墜事件など、冷戦下の北東アジアで発生したいくつかの事件においては日本と共同歩調を取ったが、日本からの輸入超過に伴う貿易赤字の増大に対しては強硬姿勢をとり続けた。
[編集] 麻薬との戦い
レーガンの「麻薬との戦い」政策は、中毒治療のための予算を減らす一方で麻薬犯罪者の投獄を推し進めた。これは、アメリカの刑務所人口の劇的な増加をもたらした。評論家はこの政策が実際には米社会にとって大きな財政負担と人的コストを増やす一方で、麻薬の流通あるいは路上犯罪をへらすことにほとんど役立たないと非難した。大統領在職中のこの政策および社会計画のための様々な予算のカットにより、レーガンは貧しいマイノリティの要求に無関心なものと、一部批評家によって見なされた。しかしながら、いくつかの調査によると、レーガン在職中にアメリカ人の不法な麻薬使用は明らかに減少したとしており、支持者たちはこの政策は成功だったとしている。
[編集] その他
1981年8月5日に、レーガンは、職場復帰命令を無視した11,359人の航空管制官を解雇した。皮肉にもPATCO(航空管制官組合)は9ヶ月前に選挙でレーガンを支持した少数の組合のうちの1つだった。
1982年より、レバノン内戦に対して、平和維持軍としてアメリカ海兵隊をレバノンに派遣した。海兵隊は、何度か攻撃を受け、1983年10月23日には、兵舎がイスラム民兵による自爆トラック攻撃を受け、241人の海兵隊員が死亡した。そのため、3ヶ月後にレーガンはレバノンから海兵隊を撤退させた。この間の1983年10月25日から27日にかけてアメリカ軍は、共産主義政権となっていたカリブ海の小国グレナダに侵攻している。
1985年7月13日に、レーガンは大腸から癌のポリープを取り除くために手術を受けた。1987年1月5日には前立腺手術を受け、健康に関するさらなる心配を引き起こした。
レーガンは1985年の西ドイツへの公式訪問で広く非難された。4月11日にホワイトハウスは、レーガンが両方の世界大戦で死んだドイツの兵士に敬意を表して献花するためにビットブルクの軍事墓地を訪れると発表した。その墓地にナチスの武装親衛隊員が埋葬されていることが論争の的になった。様々な地域からの抗議にもかかわらず、それが元敵との間の和解を促進するという理由でレーガンは訪問を続けた。
人種差別問題の解消に対しては積極的な態度を取り続け、1988年に、第2次世界大戦中の日系人の強制収容に対して謝罪と1人当たり20,000ドルの損害賠償を行っている。また、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の誕生日が国の祝日となったのもレーガン政権においてである(1983年)。
[編集] 内閣
| 職名 | 氏名 | 任期 |
| 大統領 | ロナルド・レーガン | 1981 - 1989 |
| 副大統領 | ジョージ・H・W・ブッシュ | 1981 - 1989 |
| 国務長官 | アレクサンダー・ヘイグ | 1981 - 1982 |
| ジョージ・P・シュルツ | 1982 - 1989 | |
| 財務長官 | ドナルド・リーガン | 1981 - 1985 |
| ジェームズ・ベイカー | 1985 - 1988 | |
| ニコラス・F・ブレイディ | 1988 - 1989 | |
| 国防長官 | キャスパー・ワインバーガー | 1981 - 1987 |
| フランク・C・カルーチ | 1987 - 1989 | |
| 司法長官 | ウィリアム・F・スミス | 1981 - 1985 |
| エドウィン・A・ミーズ | 1985 - 1988 | |
| リチャード・L・ソーンバーグ | 1988 - 1989 | |
| 内務長官 | ジェームズ・G・ワット | 1981 - 1983 |
| ウィリアム・パトリック・クラーク | 1983 - 1985 | |
| ドナルド・P・ホーデル | 1985 - 1989 | |
| 商務長官 | マルコム・バルドリッジ | 1981 - 1987 |
| C・ウィリアム・ヴェリティ・ジュニア | 1987 - 1989 | |
| 労働長官 | レイモンド・J・ドノヴァン | 1981 - 1985 |
| ウィリアム・E・ブロック | 1985 - 1987 | |
| アン・ドール・マクラフリン | 1987 - 1989 | |
| 農務長官 | ジョン・ブロック | 1981 - 1986 |
| リチャード・E・リン | 1986 - 1989 | |
| 保健社会福祉長官 | リチャード・S・シューウェイカー | 1981 - 1983 |
| マーガレット・ヘッケラー | 1983 - 1985 | |
| オーティス・R・ボーウェン | 1985 - 1989 | |
| 教育長官 | テリル・H・ベル | 1981 - 1984 |
| ウィリアム・J・ベネット | 1985 - 1988 | |
| ラウロ・カヴァーゾス | 1988 - 1989 | |
| 都市住宅開発長官 | サミュエル・ピアース | 1981 - 1989 |
| 運輸長官 | ドリュー・ルイス | 1981 - 1982 |
| エリザベス・ハンフォード・ドール | 1983 - 1987 | |
| ジェームズ・H・バーンレイ | 1987 - 1989 | |
| エネルギー長官 | ジェームズ・B・エドワーズ | 1981 - 1982 |
| ドナルド・P・ホーデル | 1982 - 1985 | |
| ジョン・S・ヘリントン | 1985 - 1989 | |
[編集] 引退
1989年に2期8年の任期を全うしたレーガンは、高い支持率を保ったまま、同じく共和党選出であるジョージ・ブッシュにその座を譲りホワイトハウスを後にした。
なお、レーガンは冷戦終息に対する貢献により、イギリスのエリザベス2世女王から大英帝国勲章GBEを受けナイトの称号を許されたが、「合衆国市民は(元宗主国である)イギリスから栄典を受けることはあっても名乗らない」の慣例に従い、その名前に "GBE" を冠することは一度もなかった。
[編集] アルツハイマー病
退職の4年後の1992年、レーガンはアルツハイマー病と診断された。病は年を追うごとに前大統領の精神を破壊していき、彼は静かで隔離された環境で余生を送ることを余儀なくされた。1994年11月5日、彼は国民にあてた手紙という形で、アルツハイマー病の病状を公表した。2001年に南カリフォルニアの自宅で転倒した際に腰を骨折してほとんど寝たきりとなってからは、彼の健康状態はさらに不安定になった。
[編集] 空母「ロナルド・レーガン」
1998年2月6日に、ワシントンD.C.のナショナル空港が、「ロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港」と改名された。さらに、ニミッツ級航空母艦の9番艦は2001年3月4日に「ロナルド・レーガン(USS Ronald Reagan, CVN-76)」と命名された。2003年7月12日の就役式典には、闘病中のレーガン本人に代わり、ナンシー・レーガン夫人が出席した。
[編集] 死去
現地時間で2004年6月5日の午後1時9分、ロサンゼルス近郊の自宅でレーガンは肺炎のため死去した。彼は妻ナンシーおよび子供マイケル、パティ・デイビスおよびロンに支えられ闘病生活を続けたが、家族にベッドを囲まれて生涯を終えた。
レーガンの葬儀はL・ジョンソン元大統領以来の国葬として、2004年6月11日に行われた。ナショナル大聖堂で行われた国葬でジョージ・W・ブッシュ現大統領、ジョージ・H・W・ブッシュ元大統領、マーガレット・サッチャー元イギリス首相、ブライアン・マルルーニー元カナダ首相らが弔辞を述べた。中曽根康弘元日本首相、ミハイル・ゴルバチョフ元ソ連大統領ら、現在及び過去の政界トップ多数が世界中から参列した。当日の夕方、日没の時刻にカリフォルニア州シミバレーのロナルド・レーガン大統領図書館の敷地内にある墓所に遺体が安置された。
レーガンはアメリカ大統領経験者としては現在、史上二番目の長命記録保持者(93歳120日)である。レーガンはジョン・アダムスの90歳247日の記録を2001年10月12日に抜いて歴代最長寿となったが、ジェラルド・R・フォード元大統領が2006年11月12日に彼の記録を抜いたため(2006年12月26日死去、93歳165日)、歴代二位となった。
[編集] 余談
好きな映画は1985年公開の映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で、ホワイトハウス内の専用上映室で何度も見たという。この映画には、レーガンが出演した「バファロー平原」を上映中の1955年に戻った主人公が、「本当に未来の人間なら未来の大統領が誰か言ってみろ」と言われて「ロナルド・レーガン」だと答えると、「(役者の)レーガンが大統領なら副大統領は(コメディアンの)ジェリー・ルイスか?」と端から信じてもらえないというシーンがある。
1986年2月4日の一般教書演説でも、この映画の中から引用して、As they said in the film "Back to the Future, ``Where we're going, we don't need roads.(「バック・トゥ・ザ・フューチャー」でも言っていたように、我々がどこに行こうとも、道は必要ないのです。)という一節があった。
1980年代の日本の少年漫画に登場するアメリカ大統領は、ほとんどが彼に似た容姿を持っていた。ゴッドサイダーに登場した大統領に至っては、妻の名前もナンシーと、明らかにレーガンを意識している。
「テコムサの呪い」を打ち破った初の大統領といわれる。
[編集] 評価
レーガンの大統領在任当時、特にマルタ会談以前の対ソ連政策や軍拡・強行外交政策について、特に左派層や左派マスコミからは「世界を全面核戦争にさらすもの」として非難する意見が多かった。しかし結果的にレーガンの狙い通りにソ連の膨張を食い止め崩壊に至らしめ、冷戦を終結に導くのに大きな役割を果たしたのは事実であり、現在の一般的なレーガンへの評価は「冷戦の終結に大きな役割を果たした」として、「盟友」のゴルバチョフやサッチャー、中曽根とともに非常に高いものが多い。一方で、財政赤字と貿易赤字(双子の赤字)による経済の逼塞、ホームレスの増加等、内政面での『負の遺産』が次代ブッシュ政権に継承され、4年後の再選でブッシュがクリントンに破れる原因となった。また、1981年に症例報告されたAIDS(後天性免疫不全症候群)に関して、この新しい感染病の「大流行」が多くの医療専門家から警告されていたにも関わらず有効な対策を打たなかったため「封じ込め」に失敗した。その結果わずか10年程度で爆発的に感染者が増加し、現在でも大きな社会問題となっている。
[編集] 関連項目
- 1980年アメリカ合衆国大統領選挙
- 1984年アメリカ合衆国大統領選挙
- 赤狩り
- ダニエル・イノウエ
- ロイ・コーン
- ロナルド・レーガン・ビルディング
- ワシントン・タイムズ
- 全米ライフル協会
- テコムサの呪い
- 悪の帝国発言
- 『運命の瞬間 そしてエイズは蔓延した』("AND THE BAND PLAYED ON")
- 『グラデュエーションデイ~未来を変える24のメッセージ』、アンドリュー・アルバネーゼ/ブランドン・トリスラー編 佐々田雅子訳、2007年4月、ISBN 9784903825007
- スピーチ収録
[編集] 外部リンク
- RonaldReagan.com - The Official Site
- White House biography
- Ronald Reagan Presidential Library and Foundation
- Ronald Reagan Legacy Project
- Ronald Reagan Memorial Foundation
- Ronald Reagan profile at NNDB
- Reagan 2020 - numerous speeches collected
- Audio recordings of Reagan's speeches
- Profile, Portrait and Inaugural Addresses as California Governor
- 1980s Inside Governor Ronald Reagan A 1975 interview with Reason magazine concerning his political philosophy
- State of the Union Addresses: 1982, 1983, 1984, 1985, 1986, 1987, 1988 at UCSB's American Presidency Project
- RonaldReagan.tk - a large Audio & Video archive
- Kudlow & Company - Short clip with Ronald Reagan on government spending
- A GE Tribute to Ronald Reagan
- Public Domain video in Quicktime of CNN reporting attempted assassination of President Reagan (Courtesy of CNN.com)
- Bill Hicks view on Ronald Regan
- Ronald Reagan Image Gallery
- PDクラシック社:出演映画のDVD(「カンザス騎兵隊」)を販売
- レーガン ロナルド:作家別作品リスト(青空文庫)
- [1]
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| アメリカ合衆国大統領 | |
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| ワシントン | J・アダムズ | ジェファーソン | マディスン | モンロー | J・Q・アダムズ | ジャクソン | ヴァン・ビューレン | W・ハリソン | タイラー | ポーク | テイラー | フィルモア | ピアース | ブキャナン | リンカーン | A・ジョンソン | グラント | ヘイズ | ガーフィールド | アーサー | クリーブランド | B・ハリソン | クリーブランド | マッキンリー | T・ルーズベルト | タフト | ウィルソン | ハーディング | クーリッジ | フーヴァー | F・ルーズベルト | トルーマン | アイゼンハワー | ケネディ | L・ジョンソン | ニクソン | フォード | カーター | レーガン | G・H・W・ブッシュ | クリントン | G・W・ブッシュ |
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カテゴリ: アメリカ合衆国の大統領 | カリフォルニア州知事 | アメリカ合衆国の俳優 | イリノイ州の人物 | アイルランド系アメリカ人 | 1911年生 | 2004年没

