レオンハルト・オイラー

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レオンハルト・オイラーLeonhard Euler, 1707年4月15日 - 1783年9月18日)は数学者物理学者天文学者(天体物理学者)である。少なくとも数学に関しては18世紀最大・最高の数学者である。スイスのバーゼルに生まれ、現在のロシアサンクト・ペテルブルクで亡くなった。歴史上最も多産な数学者であったといわれている。オイラーはスイスの旧10フラン紙幣にその肖像が描かれていた。2007年4月15日はオイラー生誕300周年であった。

レオンハルト・オイラー


目次

[編集] オイラーの生涯

レオンハルト・オイラーは1707年、カルヴァン派聖職者の息子としてスイスバーゼルの近くで生まれた。オイラーの父は息子に自分の後を継がせ牧師にさせたいと考えており、オイラーが14歳の時、バーゼル大学に入学させて神学に加えてギリシャ語ヘブライ語を勉強させた。しかし、オイラーはそこで最も有名な教授であったヨハン・ベルヌーイの講義に魅せられ、数学に専念するようになった。17歳で修士の学位を取得したオイラーは、父親に数学をやめ神学を全力でやるよう忠告されたが、このヨハン・ベルヌーイによって才能を見出されていたことから、ベルヌーイ家の人達による父への説得のおかげで、牧師の職を他人に譲り数学者になる道を選んだ。

19歳でパリ科学アカデミーのアカデミー賞に輝いたオイラーは、1727年にヨハン・ベルヌーイの息子であるダニエル・ベルヌーイに招かれ、20歳にしてロシアサンクト・ぺテルブルクで物理学の教授に任命された。また1733年には、スイスに去ることになったダニエル・ベルヌーイの後釜として数学の教授に就くことができた。この後、カタリーナ・グゼルという名前のロシアに住むスイス人画家の娘と結婚し、40年余りの結婚生活を通して13人もの子供に恵まれた(しかし、青年期まで生きていたのは5人だけで、両親よりも長生きできたのは3人だけである)。

1735年には、当時「バーゼル問題」として有名であった無限級数の厳密な値を求める事に成功した。このことはオイラーの名を世に知らしめた。しかし、ロシアはエカチェリーナ1世の突然の死によって国勢が一変していた事と、1738年に過度の勉強などによって右目を失明してしまった事により、研究生活が快適でなくなっていた。1741年、プロイセン王国フリードリヒ大王によりベルリン科学アカデミーに招かれ、アカデミーの一員となったオイラーはドイツへ移住。1744年には、ベルリン科学アカデミーの数学部長に就任した。このドイツにおいて、『無限解析入門』 "Introductio in analysin infinitorum"(1748年)と『微分学教程』 "Institutiones calculi differentialis"(1755年)の2冊の数学書を出版。また、オイラーはアンハルト・デサウ王女への初等科学教育のため、数冊にわたる優れた解説書を作り、『自然哲学におけるさまざまな問題に関するドイツ王女へのオイラーの手紙』 "Lettres à une Princesse d'Allemagne sur divers sujets de physique et de philosophie" として出版された。この書物はオイラーが著したものの中で最も多くの人に読まれる本となり、今日でも歴史上最も素晴らしい通俗科学書の1つとして挙げられる。

1762年にロシアのエカチェリーナ2世が即位し、帰国を要請されたオイラーは1766年に再びロシアに戻った。1771年には残っていた左目の視力も失い全盲となり、1773年の暮れに妻カタリーナが亡くなった。しかし、普通ならば衰えるであろう研究意欲もオイラーに限っては全く衰えず、『積分論概要』 "Institutiones calculi Integralis" などという書物も書いている。妻の死から3年後には、妻の異母妹と結婚している。そして、亡くなる日まで精力的な研究は続き、天王星の軌道についての幾つかの計算をしていた。その亡くなる日の午後、孫に関数を教えた後、椅子に座り、(大量出血のため倒れ、)そのまま亡くなった。


[編集] オイラーの業績

レオンハルト・オイラー

オイラーは、純粋数学・応用物理学の非常に広い分野にわたって輝かしい業績を残している。「オイラーの式」と単に記しただけでは何を示しているのかわからない程多く、その量と質はまさに群を抜いている。オイラーは、数論解析学代数学幾何学といった既に確立していた数学の分野だけでなく、解析的数論・位相幾何学グラフ理論微分幾何学という未開拓であった領域にまで思い切って進んだ。また、力学光学音響学変分法天文学といった物理学の分野まで十分な業績を示している。オイラーの論文や原稿や手紙といったものの量があまりにも膨大なため、オイラーによって初めて得られた結果であるのに他の人が初めて発見したものであると認識されているものが、非常に沢山ある。

1909年にスイス科学アカデミーはオイラーの作品集を出版する事を提議した。その『オイラー全集』は各巻およそ400ページから500ページに及び(多いものでは700ページを超える)、現在74巻まで出版されているが、彼の死後二百年以上経った今なお未完である。

[編集] 数論

ゼータ関数
ゼータ関数の名称自体はリーマンによるものであるが、ゼータ関数を初めて扱い、解析的数論の進展に非常に重大な結果を得ている。1644年に提起されてから誰も解決することができず「バーゼル問題」として知られていたζ(2)の値を、オイラーは1735年に求めることに成功した。ζ(2) = π2/6というものであるが、これだけではなく、ζ(4) = π4/90, ζ(6) = π6/945, ζ(8) = π8/9450, ζ(10) = π10/93555, ζ(12) = 691π12/638512875 も求めた。なお、現在においても奇数のゼータの値は未解決のままである。また、彼の並外れた洞察力により、負の整数の場合の値を求め、それに意味付けを行なった。
完全数
ユークリッドの与えたある偶数が完全数であるための十分条件に対し、必要条件の場合についても示した。これによりメルセンヌ素数の個数だけ、偶数の完全数があることがわかった。奇数の完全数問題は現在においても未解決のままである。
オイラーのσ関数
σ(n)は、nの全ての約数の和である、というもの。完全数の問題を解く時に用いた。
友愛数
オイラー以前は3組しか知られていなかった友愛数を、オイラーは更に59組見つけた。
フェルマー数の予想
フェルマー数とは 22n + 1 (n自然数)で表される自然数であり、フェルマーnに自然数を入れた時にできる数は常に素数になると予想したが、オイラーによって 225 + 1 = 4294967297 = 641 × 6700417 という反例が示された。
オイラー積
ゼータ関数を素数全体に関する積表示と恒等であることを示した。これにより、素数の逆数の和が発散することの証明にも繋がった。
オイラーのφ関数
フェルマーの小定理を証明するとともに、その概念の拡張としてオイラーのφ関数を与えた。
フェルマーの最終定理
フェルマーの最終定理の n = 3 の場合についての証明を与えた。
オイラー予想
フェルマーの最終定理の拡張。結局コンピューターによって反例が挙げられ、間違いである事が示された。
平方数となる4つの数
18530, 38114, 45986, 65570 のどの2つの和も平方数となる事を発見した。
オイラー素数
fn) = n2 + n + 41 は、n = -40 ,..., 0 ,..., 39 において全て素数となる。nが0から1000万の間では、約47.5%が素数になる。

[編集] 解析学

オイラーの公式
指数関数三角関数の間の関係を与える式を与えた。これにより、複素関数論という新たな分野が作られた。
関数の表示
ライプニッツによって定義された関数の概念を初めて y = f(x) の形で表した。
三角関数指数関数対数関数
オイラー以前は三角比指数対数と、計算の道具でしかなかったこれらの概念を関数として初めて扱った。
オイラー積分
微分積分学において重要な概念を与える関数。第一種と第二種があり、それぞれベータ関数ガンマ関数とも呼ばれる。ベータ関数はガンマ関数で書き記す事もできる。
オイラー数
双曲線正割関数のテイラー展開で表れる、係数の整数列のこと。
オイラーの微分方程式
オイラーの積分表示式
同じ定数係数をもつ4次式fx)とfy)に対し、dx/√fx)+dy/√fy)の微分方程式で表せる関係をつける。ここで積分定数をCとすると、{(√fx)-√fy))/(x-y)}2=C+dx+y)+ex+y2が成り立つ。ただし、d, eはそれぞれx, yの3次と4次の係数である。

[編集] 代数学・幾何学

三次方程式四次方程式の解法
オイラー以前に明らかにされていた三次方程式・四次方程式の解法以外の解法を見つけた。「五次以上の代数方程式には一般的な解の公式がない」(アーベル)ことや、「代数学の基本定理」(ガウス)として知られる問題を解決する事はできなかった。
対数の底の変換公式
オイラーの黄金法則とも呼ばれる。
オイラー線
三角形重心外心・垂心を通る直線。重心G、外心O、垂心H の間には常に、3OG = OH の関係が成り立つ。また、OHの中心は九点円の中心となっている(九点円をオイラー円と呼ぶこともある)。
オイラーの多面体定理
三次元空間上の多面体において常に、 頂点の数 - 辺の数 + 面の数 = 2 が成り立つ。ただ、オイラー自身は証明を与えていない。
ケーニヒスベルクの橋の問題
一種の一筆書きの問題。更にオイラーは、一筆書きが可能になる場合の必要十分条件を求めた。これにちなんで、一筆書きのできるグラフをオイラーグラフという。グラフ理論の先駆けとなった。

[編集] その他(数学)

記号の表記
ネイピア数 e、円周率 π、虚数単位 iといった現在用いられている表記法はオイラーによって初めて用いられたり、広められたものである。また、ネイピアによって提唱された概念を、実際に発見し求めた。オイラーは1728年の時点で既に、eを使ってネイピア数を表していた。
撹乱順列
組合わせ論の分野では、撹乱順列の収束性とともにその値が1/eである事を示した。
ラテン方陣(オイラー方陣)
nn 列の表に n 個の異なる記号を、各記号が各行および各列に1回だけ現れるように並べたもの。その応用として、数独などがある。
オイラー図
集合の相互関係を表す図。便図、Venn図とも。

[編集] その他(物理学)

変分法
母関数を求める方法としての変分法を確立。最速降下曲線がサイクロイドである事を示した。オイラー・ラグランジュの運動方程式を解く事によって与えられる。
記号の表記
『力学』 "Mechanica" という書物の中で、ニュートンの運動の法則を記号によって示した。ニュートンの『プリンキピア』 "Philosophiae naturalis principia mathematica" は幾何学の言葉で書いており、F = m a という有名な式はオイラーが与えたものである。また、摩擦係数μなどもオイラーによって初めて用いられた。
制限三体問題
1760年頃、オイラーは制限三体問題の解として、ラグランジュポイントである主星と従星を結ぶ直線上にある3つの解(オイラーの直線解)を発見した。その後、ラグランジュによって1772年にオイラーの解は一般の三体問題の場合についても成り立つことと、さらに2つのラグランジュポイントを発見した。この業績によってオイラーとラグランジュはこの年のフランス科学アカデミー賞を共同受賞した。
極運動
地球を剛体と仮定し、地球の自転軸が305日周期で回転運動することを論理的に指摘した。


オイラーが初めて得た結果が、他の人の業績として知られているもの正確性に難あり

フーリエ級数
関数を三角級数の形に表したもの。
ベッセル関数
ベッセル微分方程式における特異解。

[編集] オイラーの言葉

  • 素数列に何らかの神秘を見出そうという数学者の試みは今日に至るまで実を結んでいない.いろいろ考え合わせると,どうやらこれは人間精神には決して入り込むことのできない神秘ではないかと思われる.
  • (右目を失明したとき)おかげでこれからは気が散らなくてすむ.


[編集] オイラーへの言葉

  • オイラーを読め,オイラーを読め,彼こそ我らの先生だ.
Lisez Euler, lisez Euler, c'est notre maître à tous. - ラプラス
  • 生涯全てで…彼は,純粋数学と応用数学の両方にわたって,彼の時代の数学全部を頭に詰め込んでいたかのようである. - アンドレ・ヴェイユ
  • 私は,いわば高等解析学の幼少期を与えたにすぎないが,あなたはそれを十分に成長した大人のレベルまでもっていきました. - ヨハン・ベルヌーイ
  • 本当に数学の好きな人はオイラーをいつも読まねばならない.彼の本はすべて分かりよく,いい方がうまく,計算がたくみだ,…「人はつねに源において学ぶべきである」 - ラグランジュ
  • オイラーは,人が呼吸をするがごとく,鷲が空中にその身を浮かせておくがごとく,はた目には何の苦労もなく計算をした. - フランソワ・アラゴ


[編集] 参考文献・引用文献

  • Euler: The Master of Us All, William Dumham, 1999 by the Mathematical Association of America Washington,D.C

  (邦訳:『オイラー入門』, W.ダンハム, 黒川信重・若山正人・百々谷哲也 訳, シュプリンガー・フェアラーク東京, 2004, ISBN 4-431-71079-5

  • Dr.Rieman's Zero : The Search for the $1 Million Solution to the Greatest Problem in Mathematics, Karl Sabbagh

  (邦訳:『リーマン博士の大予想 数学の未解決最難問に挑む』, カール・サバー, 黒川信重 訳, 紀伊国屋書店, 2004, ISBN 4-31-400973-X

  • Fermat's Last Theorem, Simon Singh, 1997

  (邦訳:『フェルマーの最終定理』, S.シン, 青木薫 訳, 新潮社, 2006, ISBN 4-10-215971-1


[編集] 関連項目

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