ユリアヌス

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ユリアヌス

フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌスラテン語Flavius Claudius Julianus331年12月6日 - 363年6月26日)は、古代ローマ帝国皇帝(在位:(副帝)355年 - 361年11月3日、(正帝) - 363年6月26日)。伝統的な多神教の復興を目指したため、キリスト教徒からは「背教者」と呼ばれる。

コンスタンティヌス1世の甥。幼少時、猜疑心の強い皇帝コンスタンティウス2世により家族を全員殺された。ユリアヌスとその兄ガルスは見逃されたがイオニアへ幽閉され、事実上軟禁されたまま養育された。軟禁生活の中、彼が唯一自由に行えたのはギリシア哲学を学ぶことだけであった。この頃に多神教に触れて育ったことや、帝国の一神教化への危機感などから、キリスト教に反感を抱くようになった。

354年、東方の副帝(カエサル)となっていた兄のガルスもコンスタンティウス2世に処刑された。翌年、皇帝の血縁者で唯一生き残ったユリアヌスが、東西に敵をかかえた帝国の防衛を分担するためガリア担当の副帝に任命された。ユリアヌスは圧倒的に不利な状況にありながらもゲルマン人の撃退に成功し、その後の統治も上手くいったことから、兵やガリア住民の評価も高かった。

360年、配下の軍団兵によって正帝(アウグストゥス)に擁立された。兵に撤回を求めたが容れられず、コンスタンティウス2世によって反乱とみなされた。両者の戦いは不可避と思われたが、戦う前にコンスタンティウス2世が急死したため、翌年にそのまま単独の皇帝となった。皇帝就任後は、財政再建など帝国を立て直すべく諸改革を続けざまに実行した。ただその行動は性急であり少々熟慮に欠けると思われるものもあった。

363年にはサーサーン朝ペルシアとの戦争を始めた。首都クテシフォンまでは快進撃を続けたが、別働隊が到着しなかったため攻略を断念。大きな成果を挙げることなく撤退を始めた。だがペルシアに執拗な追撃を受けて負傷してしまい、その傷が元で亡くなった。正帝になって1年7ヶ月のことであった。死に際して「ガリラヤ人よ、汝は勝てり」との言葉を遺した、とキリスト教徒は伝えている。彼の死後、キリスト教に不利な法案はすべて廃止された。

ユリアヌスはコンスタンティヌス1世以来優遇され、当時帝国で一大勢力となりつつあったキリスト教に抗した。キリスト教徒に与えられていた特権を廃止し、代わりに伝統的多神教(ローマ神教など)を保護することでその復興を目指したのである。また、ユダヤ教の勢力強化のためにエルサレム神殿の再建も許可した。これらの行動により、キリスト教徒からは「背教者(Apostata)」という蔑称で呼ばれたほか、「異教の復興を企てた」などのように、負のイメージで語られることも多い。しかし、彼には元からキリスト教に対する「信教」がなかったため「背教」には当たらないという見方もある。なお、宗教上の彼の行動はミラノ勅令に依拠していたため、キリスト教徒に対し直接的な迫害は行っていない。

[編集] 著作

  • 『ミソポゴン』
  • 『皇帝饗宴』
  • 『ガリラヤ人どもを駁す』

[編集] 参考文献

  • エドワード・ギボン 『ローマ帝国衰亡史(3)-コンスタンティヌスとユリアヌス』中野好夫訳、筑摩書房<文庫>、1996年、517頁。
  • クリス・スカー著 『ローマ皇帝歴代誌』 青柳正規監修、月村澄枝訳、創元社、1998年、300頁。
  • 辻邦生 『背教者ユリアヌス』(小説)中央公論新社<文庫>、上巻、1974年、391頁、中巻、1975年、361頁、下巻、1975年、438頁。
  • バワーソック 『背教者ユリアヌス』 新田一郎訳、思索社、1986年、241頁。
  • ドミートリイ・セルゲーエヴィチメレシコーフスキイ 『背教者ユリアヌス-神々の死』(小説) 米川正夫訳、河出書房新社、1986年、351頁。
  • 塩野七生 『ローマ人の物語XIV キリストの勝利』2005年

[編集] 関連項目


先代:</dt>
コンスタンティウス2世</dd>
ローマ皇帝</dt>
361年 - 363年</dd>
次代:</dt>
ヨウィアヌス</dd>

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