ユスティニアヌス1世
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ユスティニアヌス1世(大帝、ラテン語:Justinianus I 、483年5月11日 - 565年11月14日または15日)は、東ローマ帝国初期、ユスティニアヌス朝の第2代皇帝(在位:527年 - 565年)。
貧農の子から皇帝まで登り詰め、西ローマ帝国の故地を再征服してローマ帝国を復興させた。また古代ローマ法の集大成である『ローマ法大全』の編纂やハギア・ソフィア大聖堂の再建でも知られ、その功績から後世「大帝(ギリシア語:μέγας (megas))」と呼ばれた。しかし、一方では相次ぐ戦争や建築事業による国家財政の破綻と国力の疲弊、それに伴う帝国の衰退という大きな負の遺産も残した。
娼婦だった若いテオドラを正式な妻とし大騒ぎになった。ユスティニアヌスは穏健だが優柔不断な一面もあり、気丈なテオドラの助言にたびたび助けられる結果となった。
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[編集] ユスティニアヌス1世の生涯
- 483年 - バルカン半島のダルダニア州(現マケドニア近傍)に、貧農の子として産まれる。元の名前はフラウィウス・ペトルス・サッバティウス(Flavius Petrus Sabbatius)。
- 507年 - 軍人だった叔父ユスティヌスによって首都コンスタンティノポリスへ呼ばれ、その養子となってユスティニアヌスと改名。高等教育を受ける。
- 518年 - 叔父が元老院の指名によって皇帝ユスティヌス1世(在位:518年 - 527年)として即位するとユスティニアヌスも側近として重用され、中央軍司令官、コンスル(執政官)、カエサル(副帝)などの要職を歴任。
- 525年 - 首都の劇場の踊り子だったテオドラと結婚。
- 527年 - ユスティヌス1世死去。ユスティニアヌス1世として皇帝に即位。
- 528年 - トリボリアヌスらに古代ローマ法の集大成である『ローマ法大全』の編纂を命じる(534年完成)。
- 529年 - 古代からの伝統的多神教(異教)を弾圧。アテネのアカデメイアを閉鎖し、学者を追放。
- 532年1月 - 「ニカの乱」勃発。増税などに不満を持つ首都市民に退位寸前まで追いこまれるも、皇后テオドラに叱咤され鎮圧。逆に皇帝による専制支配を固める。このとき3万人の市民が殺害されたという。
- 532年6月 - サーサーン朝ペルシアとの間に「永久平和条約」を結んで東方国境を安定させる。
- 533年 - 名将ベリサリウスに北アフリカのゲルマン人国家、ヴァンダル王国を征服させる。
- 535年 - イタリアのゲルマン人国家、東ゴート王国の征服に着手。しかし東ゴート側の強固な抵抗に遭い、554年にようやくイタリア征服に成功。しかし、長い戦いでイタリアは荒廃。ローマ市の人口は、500人にまで減少したとも言われる。
- 537年 - ニカの乱で焼失したハギア・ソフィア大聖堂(現アヤソフィア博物館)の再建が完了。ビザンティン建築の最高峰として、現代まで伝えられることに。完成時の奉献式で、古代イスラエル王国のソロモン王の大神殿を凌駕する聖堂を建てたという思いから「我にかかる事業をなさせ給うた神に栄光あれ! ソロモンよ、我は汝に勝てり!」と叫んだと伝えられる。
- 540年 - サーサーン朝との抗争再開。帝国の東西に敵を抱えることに。
- 541年 - 共和制ローマ以来の執政官制度を廃止する。
- 542年 - ペスト大流行。多くの死者が発生し、政府も機能不全に陥る。ユスティニアヌスも感染したが軽症。
- 553年 - 第2コンスタンティノポリス公会議を主宰。
- 554年 - 西ゴート王国から、イベリア半島東南部の領土を奪取。地中海全域に「ローマ帝国」の支配を回復。
- 565年 - 83歳で子を残さずに死去。
晩年のユスティニアヌスは軍隊を軽視したため、軍は弱体化した。また、侵入する異民族に対しては金で紛争を解決しようとしたため、国家財政も破綻した。彼の死後、北方からの異民族の侵入やサーサーン朝の攻撃を受けて帝国は急速に衰退し始め、8世紀半ばまで外敵の侵入と国内の混乱が続いた。
[編集] プロコピオスによるユスティニアヌスの伝記について
[編集] 『戦史』と『建築について』
将軍ベリサリウスの秘書官であったプロコピオスは、従軍経験を生かして記した『戦史』でペルシャやヴァンダル・東ゴートとの戦いを記し、その中でユスティニアヌスの征服活動を賞賛している。また『建築について』では、ハギア・ソフィア大聖堂をはじめとするユスティニアヌスの建築活動を称えている。
[編集] 『秘史』
しかし、一方でプロコピオスは『秘史』という裏ノートを残した。そこにはユスティニアヌス・皇后テオドラ、ベリサリウス夫妻の悪口が書き連ねられ、皇后になる前のテオドラのスキャンダラスな行いもこの『秘史』に記されていた。このユスティニアヌス夫妻の表裏をプロコピオスが残したおかげで、ユスティニアヌスについては比較的豊富なエピソードが伝えられているのである。なお、『戦史』については英語版がペンギン・ブックスのペーパーバックとして発行されているという。
[編集] ユスティニアヌスの容姿・性格
プロコピオスによれば、ユスティニアヌスは中肉中背の丸顔で疲れを知らない健康的な男だったという。自らの生活は質素で、臣下からは「眠らない皇帝」と呼ばれるほど日夜を通じて精力的に政務に励んだ。
性格は怒りを決して顔に出さず、親しみやすく穏やかであったが、その一方で何千人もの無実の人々の殺害を平然と命令することのできる冷酷さを併せ持っていたという。
[編集] ユスティニアヌスの肖像画について
ユスティニアヌスの肖像でもっとも有名なのはイタリアのラヴェンナにあるサン・ヴィターレ聖堂内陣にあるモザイク画である(本項冒頭参照)。ここには皇后テオドラの肖像も描かれており、様々なビザンティン関連書籍や教科書などで目にすることが多い。
他には首都コンスタンティノポリスのハギア・ソフィア大聖堂にある10世紀のモザイク画がある。ここでは中央に聖母子が描かれ、その左にユスティニアヌスが聖母子にハギア・ソフィア大聖堂を捧げ、右にコンスタンティヌス1世がコンスタンティノポリスの街を捧げるという形で描かれている。この図像から、後世の東ローマ帝国においてユスティニアヌスはコンスタンティヌス1世と並ぶ偉大な存在とされていたことが伺える。
またコンスタンティノポリスにはユスティニアヌスの銅像が乗った円柱があったとされているが、1453年にオスマン帝国によって東ローマ帝国が滅ぼされた際に破壊され、現存していない。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 井上浩一 『生き残った帝国ビザンティン』(講談社現代新書)、1990年、254頁
- 井上浩一・粟生沢猛夫 『世界の歴史 第11巻 ビザンツとスラヴ』中央公論新社、1998年、478頁
- 井上浩一 『ビザンツ皇妃列伝』(筑摩書房)、 1996年、246頁
- 尚樹啓太郎 『ビザンツ帝国史』(東海大学出版会)、1999年、1227頁
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