マルクス・アエミリウス・レピドゥス

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マルクス・アエミリウス・レピドゥスが描かれた硬貨

マルクス・アエミリウス・レピドゥスMarcus Aemilius Lepidus, ? - 紀元前13年)は古代ローマ政治家軍人共和政末期ローマで第二回三頭政治の一頭として政治の実権を握った。

[編集] カエサルの配下として

レピドゥスは古代ローマの名門、アエミリウス家に生まれる。彼の父で同名のマルクス・アエミリウス・レピドゥスは、ルキウス・コルネリウス・スッラの存命中は親スッラ派を掲げていたが、スッラ死後にマリウス派の残党を率いて反乱を起こした。しかしスッラ子飼いの将、グナエウス・ポンペイウスに敗れた後、逃亡先のサルデーニャ島で病死した。

レピドゥスはガイウス・ユリウス・カエサルに仕え、補佐官として活躍した。紀元前49年にカエサルがルビコン川を渡り、ポンペイウスがローマを放棄した後にプラエトルとなり、カエサルがポンペイウス勢力下のヒスパニア属州制圧に向かう間、内政を任された。ファルサルスの戦いでポンペイウスが大敗し、内戦におけるカエサルの勝利が確定した後の紀元前46年には、執政官に任命された。紀元前44年にカエサルが終身独裁官に任命されると、レピドゥスは騎兵長官に就任した。騎兵長官職は、独裁官の存在時(他の公職が停止される)において存在する唯一の公職であり、副官(ナンバー2)を意味した。

[編集] カエサル死後

同年3月15日カッシウスブルートゥスらによってカエサルが殺害されると、執政官であったマルクス・アントニウス等は、カエサルの行った政治の継続を認めさせる交渉を、暗殺者たちと交渉を行った。軍隊を率いていたレピドゥスはローマのポメリウムの中に入ることはできなかったが、その軍団の存在が共和派への大きな圧力となった。
その後、カエサルの死によって空席となった最高神祇官に就任した。

暗殺加担者の逃亡あるいは処罰によってひとまず事態が収拾されると、カエサルによって後継者と指名されたオクタウィアヌスと、後継者の座を狙うアントニウスの間の緊張が高まった。オクタウィアヌスは共和派と連合し、アントニウスを攻撃した。レピドゥスはアントニウスと同じく民衆派であったが、ガリアの地にあり、アントニウスを直接援助はしていない。ヒルティウスとパンサの両執政官とオクタウィアヌスの連合軍に敗れ、ガリアに逃れたアントニウスを、レピドゥスは迎え、連合して共和派に対峙した。

ここで、実際は共和政よりも寡頭制を望んでいたオクタウィアヌスは、両者と結び、紀元前43年ボローニャにてレピドゥス、アントニウス、オクタウィアヌスの三者による同盟、第二回三頭政治が成立した。三人は国家再建三人委員会に就任し、共和派の粛清を開始した。この粛清により、キケロが殺害されるなどイタリア国内の共和派は一掃され、ギリシアのブルートゥス、カッシウスらを残すのみとなった。
この後行なわれたブルートゥスらとカエサル派が戦ったピリッピの戦いにレピドゥスは参加せず、決定的な勝利の当事者となった2人から政治的に引き離されていった。

その後アントニウスとオクタウィアヌスの諍いの後、紀元前40年ブリンディシ協定が結ばれ、ローマの勢力範囲を三分することになり、レピドゥスはアフリカの統治を任された。

紀元前36年シチリア島で、最後の反カエサル派でポンペイウスの次男セクストゥス・ポンペイウスとオクタウィアヌスとの戦いののち、レピドゥスはオクタウィアヌスの打倒を図って失敗した。汚職と反乱の疑いをかけられ、終身職である最高神祇官を除く役職を全て剥奪され、死ぬまでローマから離れた田舎で隠棲した。紀元前13年に死去した。最高神祇官の職はアウグストゥスが受け継ぎ、後にローマ皇帝の属性の一つとなった。

アウグストゥスは自身の『業績録』の中で、最高神祇官職を奪うこともできたのに死まで待ったことを、自身の美徳の一つに数えた。またレピドゥスは、共和政末期の動乱の主要人物の中で、自然死を迎えた数少ない人物であった。

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