マケドニア共和国

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マケドニア共和国</dt>
Република Македонија</dt>

国旗(国章)

</dd>

国の標語 : なし</dd>
国歌 : マケドニアの国歌</dd>
</dd>

公用語 マケドニア語アルバニア語
首都 スコピエ
最大の都市 スコピエ
大統領 ブランコ・ツルヴェンコフスキー
首相 ニコラ・グルエフスキー
面積
 - 総計
 - 水面積率
世界第145位
25,333km²
1.9%
人口
 - 総計(2004年
 - 人口密度
世界第141位
2,071,210
82人/km²
GDP(自国通貨表示)
 - 合計(2005年

2842億マケドニア・デナール
GDPMER
 - 合計(2005年
世界第xx位
58億ドル
GDPPPP
 - 合計(2003年
 - 1人当り
世界第117位
138億1,000万ドル
6,700ドル
独立
 - 日付
ユーゴスラビアから
1991年9月8日
通貨 マケドニア・デナールMKD
時間帯 UTC (+1)(DST: (+2))
ccTLD MK
国際電話番号 389

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マケドニア共和国(マケドニアきょうわこく)は、東ヨーロッパバルカン半島に位置する共和国。旧ユーゴスラビア連邦を構成していた国のひとつで、南はギリシャ、東はブルガリア、西はアルバニア、北はセルビアと、四方を外国に囲まれた内陸国である。

国土は、地理的・歴史的にマケドニアと呼ばれてきた地域の北西部にあたる。マケドニア共和国はマケドニア地域全体の約4割を占め、残りは、約5割がギリシャに、約1割がブルガリアに分属する。マケドニア共和国の多数民族はマケドニア人と自称・他称されるが、彼らはスラヴ語の話し手で南スラヴ人の一派であり、ギリシャ系の言語を話していた古代マケドニア王国の人々と直接の連続性はない(このため、ギリシャとの間で国名を巡って激しい論争がある(後述))。

目次

[編集] 国名

憲法上の正式名称は、Република Македонија マケドニア語: ラテン文字転写は、Republika Makedonija 。読みは、レプブリカ・マケドニヤ)。通称は、Македонија (Makedonija)。

公式の英語表記名は、Republic of Macedonia。略称、Macedonia

日本語での表記は、マケドニアもしくはマケドニア共和国。但し前者は地域としてのマケドニアと区別が付かないことに注意されたい。日本国はマケドニア旧ユーゴスラビア共和国で国家承認を行っており、行政文書における日本語の表記は「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」になる。この他に日本語でのリリースを発表する機関として欧州連合(在日欧州委員会代表部)があるが、これも先にギリシャがEUに加盟していることから「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」で言及される。

マケドニアという国名は、この地の名称であり、アレクサンダー大王で有名なマケドニア王国の名に由来するものである。しかし、マケドニア地方の南部を領有し、その州名として既にマケドニアの名を使用していたギリシャ政府は、この地への領土的野心を伺わせる国名に対する警戒心と、ギリシャ人の国家であった「マケドニア」の名を歴史的にも民族的にも無関係の南スラブ人が称することに対する不満から、国名を変更するように強く抗議をした。そのため、1993年に現在の英語名を国際社会における仮の国名として、国際連合へ加盟した。これ以後、多くの国々や国際的組織は、暫定名称の The Former Yugoslav Republic of Macedonia(略称「FYROM」)の名で、この国との関係をもった。しかし、ロシアなど約40カ国の国々は、FYROM ではなく、憲法上の国名である「マケドニア共和国」の名でこの国と外交関係をもっている。なお、ギリシャとの「国名論争」については、国際関係の項も参照。

[編集] 歴史

詳細はマケドニアを参照

マケドニア地域の南スラヴ人は、東ローマ帝国ブルガリア帝国セルビア王国などの支配を経てオスマン帝国の支配下に入った。オスマン帝国は支配下の人々の分類を言語や民族ではなく宗教の所属においたので、これらの人々の帰属意識も東方正教会の信仰におかれ、マケドニア人という民族意識も民族名称も存在しなかった。

1912年第一次バルカン戦争でマケドニアの大部分はブルガリア領に入るが、翌1913年第二次バルカン戦争により西北部4割はセルビア(のちユーゴスラビア王国)が奪取した。このセルビア領マケドニアがのちのマケドニア共和国の起源である。第二次世界大戦後、ユーゴスラビア連邦はこの地域にマケドニア共和国を置き、この地方の南スラヴ人はマケドニア人と呼ばれるようになる。

1991年-1995年の国旗

1991年9月8日、ユーゴ解体に伴い、マケドニアは独立を宣言。国名をマケドニア共和国とし、古代マケドニア王朝のシンボルであるヴェルギナの星(ヴェルギナの太陽ともいう)を描いた国旗を制定した。1992年3月に連邦軍が撤退して独立を達成した。

1993年1月に国連に加盟申請するが、ギリシャとの間で「国名論争」が勃発し、4月に現在の暫定国名で国連加盟が承認された。しかしギリシャは納得せず、1994年2月に経済封鎖された。このとき、国旗を変更、憲法の一部を改正した。1995年にはギリシャの経済封鎖が解除された。

1998年、総選挙の結果、旧共産系の社会民主同盟に代わり、中道右派連立政権が成立。1999年3月に始まったNATO軍によるユーゴスラビア空爆(コソボ紛争)によって約50万人のコソボ地域のアルバニア系住民が難民として押し寄せた。2001年2月、アルバニア系住民の民族解放軍(NLA)が武装蜂起した(マケドニア紛争)。8月にアルバニア系住民の権利拡大を認める和平合意文書(オホリド合意)に調印し、NATO軍が駐留を開始した。11月には議会が合意に基づき憲法を改正。2002年9月の総選挙では、マケドニア人政党社会民主同盟が政権を奪還し、NLAが改組したアルバニア人政党「民主統合連合」と連立政権を組んだ。その後もアルバニア系武装勢力によるテロ事件や、警察との衝突が散発的に起こったが、現在は落ち着きをみせて治安は安定している。

[編集] 政治

内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党とマケドニア社会民主同盟が主要政党。詳細はマケドニア共和国の政党一覧を参照。

[編集] 地方行政区分

[編集] 国際関係

[編集] 地理

[編集] 経済

農業等の第一次産業に依存しており、また旧ユーゴ解体や先の国名問題に絡みギリシャからの経済封鎖が行われ、国内経済は安定しておらず、96年以降GDP成長率はプラスに転じたが、先行きは不透明なままである。</br> IMF(国際通貨基金)の監視下にある。

[編集] 国民

住民はマケドニア人が64.2%、アルバニア人が25.2%、トルコ人が3.8%、ロマ人が2.7%、セルビア人が1.8%、その他が2.3%である(2002年時点)。

言語はマケドニア語(公用語)が68%、アルバニア語(公用語)が25%、トルコ語が3%、セルボ・クロアチア語が2%、その他が2%である。

宗教は東方正教会に属するマケドニア正教会が70%、イスラム教が29%、その他が1%である。

[編集] 文化

祝祭日
日付日本語表記現地語表記備考
1月1日元日
1月6日クリスマスイブ マケドニア正教(ユリウス暦による)
1月7日クリスマス マケドニア正教ユリウス暦による)
移動祝祭日犠牲祭 イスラム教徒のみ
3月8日女性の日
移動祝祭日聖大金曜日 マケドニア正教(復活祭の直前の金曜日)
移動祝祭日復活祭 マケドニア正教
移動祝祭日光明月曜日 マケドニア正教(復活祭の翌日)
5月1日メーデー
8月2日革命記念日
9月8日独立記念日
10月11日パルチザンの日
移動祝祭日ラマダン イスラム教徒のみ

[編集] 有名な出身者

[編集] 関連項目

  • マケドニア関係記事の一覧

[編集] 外部リンク

[編集] 公式

[編集] その他


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