ホー・チ・ミン

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ホー・チ・ミン
Hồ Chí Minh

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任期: 1945年9月2日1969年9月3日
副大統領: トン・ドゥック・タン(1960年7月15日 - 1969年9月3日

出生: 1890年5月19日
ゲアン省ナムダン県アンチュ村(※現在のキムリエン村)
死去: 1969年9月2日
ハノイ市
政党: ベトナム労働党


ホー・チ・ミンベトナム語: Hồ Chí Minh漢字: 胡 志明1890年5月19日(異説もある) - 1969年9月3日、実際の死去日は9月2日)は、ベトナム革命家。幼名はグエン・シン・クンベトナム語: Nguyễn Sinh Cung漢字: 阮 生恭)、字はタト・タインベトナム語: Tất Thành漢字: 必成)で、第二次世界大戦終結以前に使用していた変名のグエン・アイ・クォックベトナム語: Nguyễn Ái Quốc漢字:阮 愛國)でも広く知られる。植民地時代からベトナム戦争時代までベトナム革命を指導した。ベトナム労働党主席。ベトナム民主共和国初代大統領(国家主席)。現在のベトナム共産主義政権でも建国の偉人として尊崇を集めている。

目次

[編集] 経歴

共産主義

共産主義の種類
マルクス主義レーニン主義
トロツキー主義毛沢東主義
スターリン主義鄧小平理論
ユーロコミュニズム


共産党
共産主義インターナショナル
第四インターナショナル
共産主義革命
プロレタリアート独裁
共産貴族


社会主義国
キューバラオス
リビアベトナム
中華人民共和国
朝鮮民主主義人民共和国
沿ドニエストル共和国


人物
マルクスエンゲルス
レーニン毛沢東トロツキー
スターリンホーチミン鄧小平
カイソーンカストロ金日成
ルカシェンコナジポル・ポト
ホーネッカージフコフ
チトーチャウシェスク
ホッジャドプチェク
ゴムウカルクセンブルク
ゲバラチャベスリープクネヒト


経済
計画経済社会主義市場経済


著作
資本論共産党宣言


シンボル
鎌と槌赤い星赤旗


機関紙
プラウダ人民日報
朝鮮労働新聞しんぶん赤旗

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[編集] 出生から八月革命まで

ホー・チ・ミンは、中部ベトナムのゲアン省の貧しい儒学者の子に生まれた。彼は初め、ベトナム人官吏を養成する仏越学校に入学したが、在学中に反仏の民族主義的思想を持ったため退学。その後、船員としてフランスアルジェリアチュニジアコンゴなどのフランスの植民地アメリカヨーロッパ諸国を回った。1917年パリに移ったが、この年に起こったロシア革命は彼の思想に大きな影響を与えた。

彼はマルクス主義を学び、フランス社会党に入党し、在仏ベトナム人愛国者団を組織して活動をおこなった。この頃は「グエン・アイ・クオック(阮愛國)」の名で活動していたが、彼の名を一躍有名にしたのは、ヴェルサイユ会議に愛国者団を代表して出席し、8項目からなる「ベトナム人民の要求書」を提出したことであった(しかし、ヴェルサイユ会議ではこの要求書は採択されなかった)。1923年モスクワに移り、コミンテルン第5回大会でアジア担当の常任委員に選出された。中華民国で第1次国共合作が成立し北伐が開始されると、彼も広東に赴き、ベトナム青年革命同志会を創立した。1930年イギリス香港でそれまでに組織されていた3つの共産主義組織の代表を集めて、それらを統一してベトナム共産党(間もなくインドシナ共産党と改称)を創立した。

1939年第二次世界大戦が勃発し、ナチス率いるドイツがフランスを占領したため、フランスの植民地であるフランス領インドシナには新局面が訪れた。ドイツと手を結んだ日本は、南方進出の一環として翌1940年北部仏印に、1941年には南部仏印に進駐したが、親ドイツ的なヴィシー政権との関係を維持するため、在来のフランス・インドシナ政庁との共同統治体制を布いた。

ホー・チ・ミンは、香港、ソ連モスクワ中華民国延安雲南省などで活動を展開していたが、インドシナ情勢の急展開で、1941年、雲南省から国境を越えて祖国ベトナムのカオバン省に入った。彼はここで、ベトナム独立のための統一戦線組織「ベトナム独立同盟」(通称ベトミン)を組織して、直ちに日本軍に対する武装闘争の準備に着手した。しかし、軍事的にはあまりにも弱体であったため、1942年中国国民党軍の支援を求めようと中華民国に入ったが、共産党の勢力拡大を嫌う国民党の地方軍閥政権によって逆に逮捕され、13ヶ月間も各地の牢獄をたらい回しされたあと釈放、1944年にようやく根拠地に戻った。

日本の敗戦が決定的になった1945年8月13日、ホー・チ・ミンは全国民に総蜂起を呼びかけた。ベトミンの指導下に全国的な民衆蜂起(ベトナム八月革命)が起こり、ベトミン軍がハノイに入城して、9月2日ホー・チ・ミンはベトナム民主共和国の独立を宣言した。

[編集] 民族解放運動の指導者として

ボー・グエン・ザップ(左)とホー・チ・ミン
1961年

しかし、フランスはベトナム民主共和国を正統政府とは承認せず、軍を増派したため、ホー・チ・ミンは粘り強くフランスと交渉を続け、翌1946年3月にハノイ暫定協定を成立させてベトナムの独立を認めさせた。本協定調印のために渡仏した彼は、ここでフランスがコーチシナを分離して、そこに親仏政権を樹立したことを知らされ、交渉は妥結直前で決裂した。

フランス軍はハイフォンでベトナム民主共和国軍への攻撃を開始したので、12月19日、ホー・チ・ミンは『全国民に抗戦を訴える』を発表して徹底抗戦に入った。これが7年間にわたる第一次インドシナ戦争の始まりである。民主共和国軍は平野部から撤兵して北部山岳地帯にこもり抵抗を続けながら、装備に勝るフランス軍をやがてボー・グエン・ザップ率いるゲリラ戦で圧倒し、1954年ディエンビエンフーの戦いでフランス軍に決定的な打撃を与えた。その結果、ジュネーヴ協定が締結されて、80年間に及んだフランスのインドシナ支配は終了した。

[編集] ベトナム戦争

フランスに代わってベトナムへの進出を企図していたアメリカは、ジュネーヴ協定に調印せず、南部に親米的なベトナム共和国が成立すると積極的な経済的、軍事的支援を開始した。ベトナム共和国政府がジュネーヴ協定で定められた統一選挙をボイコットし、反対派に厳しい弾圧を加えたため、その独裁政治に対する抵抗運動が広がり、1960年南ベトナム解放民族戦線が結成された。解放戦線はベトナム労働党の支援の下、本格的に介入を始めたアメリカ軍と激しく戦った。これがベトナム戦争である。

この間ホー・チ・ミンは、1951年のベトナム労働党主席就任後、日常的な党務、政務は総書記第一書記)及び政府に任せ、国内外の重要な政治問題に関わる政策指針の策定や、党と国家の顔としての対外的な呼びかけに精力を集中した。

アメリカはベトナム民主共和国への爆撃(北爆)を敢行し、50万もの大軍を投入した。しかし、南ベトナム解放民族戦線は主要都市と幹線道路を除く農村地帯をほぼ完全にその勢力下に置き、1968年のテト攻勢で国際世論もアメリカに批判的となると、ジョンソン大統領は退陣に追い込まれ、翌1969年就任したニクソン大統領は撤兵を模索し始めた。戦争の終結に向けた動きが始まったこの年の9月、ホー・チ・ミンは突然の心臓発作に襲われ、79歳の生涯を閉じた。

なお、ベトナム戦争が1975年4月30日のサイゴン陥落によって幕を閉じた翌年、ベトナム社会主義共和国が成立した1976年に、南ベトナムの首都だったサイゴンが、ホー・チ・ミンに因んでホーチミン市に改称された。

革命によって権力を握った共産党指導者が独裁的になり、反対派に血の弾圧(粛清)を行う例が多い中にあって、ホー・チ・ミンは、腐敗・汚職に無縁で、禁欲的で無私な指導者であり、自らが個人崇拝の対象になることを嫌っていた。その慈愛に満ちた飄々たる風貌で民衆に愛され、晩年は国民から「ホーおじさん」(Bác Hồ)と呼ばれ親しまれた。

[編集] 死後の評価

ホー・チ・ミン像

死の数年前からホー・チ・ミンは遺書を書き、遺骸を火葬して北部中部南部に分骨の上埋葬すること、戦争勝利後は1年間農業合作社の税金を免除することを希望したが、死の直後に公開されたテキストからはこの部分が削除され、遺骸はレーニンにならい永久保存されて、南北統一後ハノイのバディン広場に建設されたホー・チ・ミン廟に安置された。

没後20年を経た1989年ベトナム共産党政治局は遺書の全文を公開、削除部分は死去当時実行できないため公表しなかったこと、全人民、特に生前に直接会うことが出来なかった南部の人民のために遺骸の保存を決定したこと、実際の死去の日(9月2日)が独立記念日(国慶節)と重なったため1日遅らせて発表したことを説明し、農業税の減免について政府に提議すると発表した。

ホー・チ・ミンはその一生を通じて、ベトナムの民族解放と独立を最大の政治目標としており、その姿勢はときに国際共産主義運動の中で階級闘争を軽視する「右派」的態度と批判されることがあった。インドシナ共産党時代から、党が綱領・規約においてマルクス・レーニン主義以外の基本指針を掲げることはなかったが、1989年東欧革命1991年ソ連崩壊によってマルクス・レーニン主義の正統性に動揺が生ずると、ベトナム共産党はマルクス・レーニン主義と並ぶ党の指針として「ホー・チ・ミン思想」を掲げるようになり、ホー・チ・ミン個人への依存を強めるようになった。

政治思想や手法には賛否両論が戦わされているが、特筆すべきは、ともすれば汚職がはびこり、権力闘争に陥りがちな共産主義社会において、決してそういった悪事に手を染めなかったとされており、高潔な人柄は政治思想を離れた部分で尊崇を集めている。ホー・チ・ミンの指導下において、政策議事は徹底的な討議を前提とした非公開の全会一致制とされた。またホー・チ・ミンは自伝の類を残さずに死んだため、後継指導者層や軍人達の間でも「ホー・チ・ミンが何も語らずに逝ったのに、我々が何を言えるだろう」として自己の業績について殆ど語らないという伝統が生まれた。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズに、ホー・チ・ミンに関連するカテゴリがあります。
先代:</dt>
-</dd>
ベトナムの国家主席</dt>
1945年-1969年</dd>
次代:</dt>
トン・ドゥック・タン</dd>

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