ナイロン
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{CO(CH2)5NH}n
{CO(CH2)4COHN(CH2)6NH}n
ナイロン(Nylon)は世界初の合成繊維である。1935年、米デュポン社のウォーレス・カロザースが合成に成功した。ナイロンは本来、デュポン社の商品名だが、現在ではポリアミド系繊維(単量体がアミド結合 (-CO-NH-) により次々に縮合した高分子)の総称として定着している。種類としては、ナイロン6、ナイロン6,6、ナイロン46、ナイロンMXD6(数字は、合成原料の炭素原子の数にちなむ)などがある。
ナイロン類については記事 ポリアミド系樹脂に詳しい。
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[編集] 歴史
カロザースが合成したナイロン6,6は、アジピン酸とヘキサメチレンジアミンを重合して作られる。一方、1941年に日本で合成されたナイロン6(合成当時の名はアミラン)はε-カプロラクタムを開環重合して作られる。
女性のストッキング用として使われたのが始まり。石炭と水と空気から作られ、鋼鉄よりも強く、クモの糸より細い、というのが当時のキャッチフレーズだった。
軽量で水分を吸わない性質があり、登山用のロープとしても使われたが、突然切れてしまう、という事故(後述)が発生して問題になったこともある。
[編集] 用途
主に合羽やウインドブレーカー、スキーウェアなど冬用のスポーツウエアなどの衣類で、ストッキングや水着などにも用いられている。
[編集] ナイロンザイル事件
1955年1月2日、前穂高岳東壁を登攀中の岩稜会(三重県鈴鹿市・石岡繁雄会長)の3人パーティの一人、若山五朗(三重大学1年生)が50センチほど滑落、頭上の岩にかけた1トン以上の引っ張りに耐えるというメーカー保証つきの新品8ミリナイロンザイルがショックもなく切断、墜死した。この切断に端を発した問題は、ナイロンザイル事件に発展、社会に知られた。井上靖は小説『氷壁』の素材としてこの事件の初期段階を書き、上高地、さらに上高地・梓川上流にある徳沢に多くの人が訪れるきっかけとなった。
当時、ナイロンザイルは出回り始めたばかりであった。強度が麻ザイルに比して数倍強いとされ、メーカーもその強度を保証していた。従来、岩壁登攀に使用されていた麻ザイル(直径12ミリ、11ミリが一般的であった)に比べて軽く柔らかいうえ、凍結しないなど取り扱いが楽であったため、岩稜会は初めて使用した。岩稜会のザイルが切断した4日前の1954年12月28日には東雲山渓会パーティの8ミリザイルが明神岳で、岩稜会の切断があった翌3日には大阪市立大学山岳部パーティの11ミリナイロンザイルが前穂高北尾根で切断し、それぞれ一人が重軽傷を負った。
名古屋大学(旧制)の工学部出身で、若山五朗の実兄である石岡は実験を繰り返し、1トン以上の抗張力がある8ミリナイロンザイルが、岩壁登攀時には常に存在する鋭角の岩角にかかり、人間の体重程度の重量で引っ張られると、簡単に切断することを突き止めた。ザイルメーカーの東京製綱は大阪大学工学部教授で日本山岳会関西支部長の篠田軍治の指導で、1955年4月29日、東京製綱蒲郡工場(愛知県蒲郡市)で、山岳関係者、新聞記者らの集まった中で公開実験をした。公開実験前、篠田は、事前にザイルの原糸メーカーの研究室での実験で、8ミリナイロンザイルが麻ザイル(12ミリ)に比して鋭角の岩角では20分の1の強さしかないというデータを得ていた。石岡にも「ナイロンザイルは岩角で切断する。公開実験でもそうなるだろう」と言明したが、公開実験では参観者には知らせずに90度の岩角に1ミリ、45度の岩角には2ミリの丸みをつけて実験を行った結果、ナイロンザイルは麻ザイルに比べて数倍も強いという誤った報道がなされた。この公開実験以後、岩稜会は自分たちのミスをナイロンザイルのせいにした、という記事が山岳雑誌、化学学会誌で報じられた。
岩稜会側は篠田を名誉毀損罪で1956年6月告訴(約1年後に不起訴処分)、その約1ヵ月後に岩稜会は310頁のガリ版刷り冊子「ナイロン・ザイル事件」を150部作成、山岳関係者や出版社などに送り、この問題を訴えた。この冊子の存在を知った井上靖は、石岡やパーティの石原國利らから取材して『氷壁』を書き、1956年11月中旬から翌年9月にかけて朝日新聞に連載した。
日本山岳会は1956年版『山日記』に、蒲郡での偽りの公開実験のデータを基にしたナイロンザイルの強度に関する篠田の記述(マニラでは、10メートル垂れ下がったザイルの一端に人が結ばれているとして、3メートルの高さから落とせば切れる恐れがあるが、ナイロンでは13メートルまでもつ、など)を掲載した。岩稜会は、「これらの記述は、登山者の生命を危険にさらすことになるので、訂正するべきである。岩角でのナイロンザイルの弱点を明白に認めないと、安全対策は生まれない」との立場から日本山岳会、山岳関係者に問題を提起、訴えを続けたが、日本山岳会からは無視され続けた。
ナイロンザイルが切断する登山事故が相次ぎ、1973年6月ようやく岩稜会の長年にわたる主張が認められ、消費生活用製品安全法が制定され、登山用ロープ(ザイル)が同法の対象となった。1975年6月には登山用ロープの安全基準が公布され、世界で初めてのザイルの安全基準が日本に出来た。岩稜会員がナイロンザイル切断で死亡して以来、同法が出来るまで判明しているだけで20人を超える登山者がザイル切断で死んでいる(旧・通産省調べ)。同法施行後、ナイロンザイルの切断による死者はなくなった、といわれている。「安全基準」の実施後、日本山岳会は1977年版『山日記』に、21年ぶりに一九五六年版『山日記』の篠田の記述で多くの人に迷惑をかけたとして、実質的に訂正となる「お詫び」を掲載した。
岩稜会のナイロンザイル事件に取り組む姿勢は、現在の製造物責任賠償法を先取りする闘いであった。篠田は、日本山岳会名誉会員推薦が一度は反対されたが、1989年名誉会員となった後に死去。日本山岳会の姿勢について、会員から批判する意見もある。石岡繁雄は、ナイロンザイルの安全対策研究からビル火災時などに使う高所安全脱出装置や介護装置を開発、特許をとるなどした。2006年8月15日、88歳で死去。生涯、岩稜会会長であった。
[編集] 関連項目

