トウ小平

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鄧小平

ジミー・カーターと対談する鄧小平。中華人民共和国政府首脳が訪米したのはこれが最初。(1979年1月)

プロフィール
出生 1904年8月22日
死去 1997年2月19日北京
出身地 四川省広安県
職業 政治家
各種表記
簡体字 邓小平
繁体字 鄧小平
ピン音  Dèng Xiǎopíng ! ?
和名表記 とう しょうへい
発音転記 トン シャオピン
ラテン字 Deng Xiaoping
ポータル テンプレート ■ノート
共産主義

共産主義の種類
マルクス主義レーニン主義
トロツキー主義毛沢東主義
スターリン主義鄧小平理論
ユーロコミュニズム


共産党
共産主義インターナショナル
第四インターナショナル
共産主義革命
プロレタリアート独裁
共産貴族


社会主義国
キューバラオス
リビアベトナム
中華人民共和国
朝鮮民主主義人民共和国
沿ドニエストル共和国


人物
マルクスエンゲルス
レーニン毛沢東トロツキー
スターリンホーチミン鄧小平
カイソーンカストロ金日成
ルカシェンコナジポル・ポト
ホーネッカージフコフ
チトーチャウシェスク
ホッジャドプチェク
ゴムウカルクセンブルク
ゲバラチャベスリープクネヒト


経済
計画経済社会主義市場経済


著作
資本論共産党宣言


シンボル
鎌と槌赤い星赤旗


機関紙
プラウダ人民日報
朝鮮労働新聞しんぶん赤旗

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中華人民共和国

中華人民共和国の歴史


組織集団
中国共産党 · 人民解放軍


主な出来事
国共内戦 · 中ソ対立
大躍進政策
文化大革命 · 改革開放
第一次天安門事件
第二次天安門事件


人物
毛沢東 · 周恩来 · 朱徳
劉少奇 · 華国鋒 · 鄧小平
江沢民 · 李鵬 · 朱鎔基
胡錦濤 · 温家宝


理念
マルクス・レーニン主義
毛沢東思想 · 鄧小平理論
4つの基本原則 3つの代表


統治機構
全国人民代表大会
中華人民共和国国務院
 


地域
中国 · 華北 · 東北
華東 · 華中 · 華南
西南 · 西北
中華人民共和国の行政区分

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鄧小平(とう しょうへい)は、中華人民共和国の政治家。生涯に3回の失脚を乗り越え、史的唯物論の視点に基づく「改革開放」政策によって中華人民共和国の市場経済化に手を着けた。1978年から1997年までの、事実上の中華人民共和国の最高実力者。モットーは「20万人の犠牲は20年の安定を与える」

1904年、四川省広安県の客家系地主の家庭に生まれる。初め鄧先聖と名づけられ、幼時には鄧希賢の名も用いる。1920年、16歳でフランスへ留学。第一次世界大戦後の労働力不足に応じた「勤工倹学」という形の苦学生であった。ちなみに鄧小平はこの後一度も帰郷したことはない。

目次

[編集] 共産主義者として

留学中の1922年に中国少年共産党に入党し、機関誌の作成を担当。「ガリ版博士」とあだ名され好評を博す。1926年モスクワに渡り、東方大学・中山大学で共産主義を学ぶ。

1927年帰国し、ゲリラ活動を開始。紅七軍を政治委員として指揮するが、冒険的で無計画な李立三路線に振り回される。1931年、蜂起したものの根拠地を失った部隊と共に毛沢東率いる江西ソヴィエトに合流し、瑞金県書記となる。しかしコミンテルンの指令に忠実なソ連留学組が多数派を占める党指導部は、農村でのゲリラ戦を重視する毛沢東路線に従う鄧小平を失脚させる。

1935年周恩来の助力で中央秘書長に復帰、長征に参加し八路軍一二九師政治委員となる。この後華北方面での抗日ゲリラ戦や、1946年以降に国民党と戦った国共内戦で行われた淮海戦役・揚子江渡河作戦などで大きな戦果を収める。中華人民共和国の独立後も西南部の解放戦を指導し、解放地域の復興に努める。

1952年毛沢東により政務院常任副総理に任命され、そのほか運輸・財務の大臣級のポストを兼任する。その後昇進を続け、1956年には中央委員会総書記に選ばれて党内序列第六位になっている。

[編集] 文革期

しかし鄧小平は、毛沢東の指揮した大躍進政策の失敗以降、次第に彼との対立を深めていく。大躍進政策失敗の責任を取って毛沢東が政務の第一線を退いた後、共産党総書記となっていた鄧小平は国家主席の劉少奇とともに経済の立て直しに従事した。この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。その結果、文化大革命の勃発以降は「劉少奇に次ぐ党内第二の走資派」と批判されて権力を失うことになる。1968年には全役職を追われ、さらに翌年江西省南昌に追放される。そこでは政治とはまったく無関係なトラクター工場や農場での労働に従事した。「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で非業の死を遂げるが、鄧小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺にまでは至らず、一命を取りとめた。

1973年周恩来の協力を得て中央委員に復帰するが、1976年には清明節の周恩来追悼デモの責任者とされ、この第一次天安門事件によって再び失脚、広州軍閥許世友に庇護され生き延びる。同年毛沢東が死去すると後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後1977年に再々復権を果たす。

[編集] 最高実力者に

1978年10月、日中平和友好条約締結を記念して中国首脳として初めて訪日し、日本政府首脳や昭和天皇と会談したほか、京都・奈良を歴訪した。その2ヵ月後の同年12月に開催されたいわゆる「三中全会」(中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議)において、文革路線から改革開放路線への歴史的な政策転換を図る。またこの会議において事実上中国共産党の実権を掌握したとされる。この会議の決議内容が発表されたときは全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話が残っている。

経済面での改革に続き、華国鋒の掲げた「二つのすべて」と呼ばれる教条主義的毛沢東崇拝路線に反対して華国鋒を失脚へと追い込み、党の実権を完全に握った。その後は若手の胡耀邦らを前面に立て、国共内戦などから党に在籍し「革命第一世代」と呼ばれる老幹部達を自らと共に中国共産党中央顧問委員会へ移して政策決定の第一線から離すなどの措置を執った。ただし、鄧小平は自らは決して序列一位ではなかったが、死去するまで実質的には中華人民共和国の最高実力者であった。鄧小平は党中央軍事委員会主席となって軍部を掌握、1987年に党中央委員を退き表向きはヒラの党員となっても2年後の1989年までこの地位を保持し続けた。後に趙紫陽が明らかにしたところではこの際に中央委員会で「以後も重要な問題には鄧小平同志の指示を仰ぐ」との秘密決議がなされた。天安門事件後には一切の役職を退くが以後もカリスマ的な影響力を持った。

[編集] 天安門事件

鄧小平は中国共産党の指導性をゆるがす動きには厳しい態度で臨み、1989年には天安門事件で学生運動の武力弾圧に踏み切った。この事件については初め学生運動に理解を示していた趙紫陽総書記ら指導部に対して、軍部を掌握していた鄧小平が一貫して強硬路線を指示し最終的に武力弾圧を決断したといわれる。事件後、鄧小平は趙紫陽の解任を決定した上で江沢民を総書記へ抜擢した。

[編集] 鄧小平の政策

政治面では社会主義中国共産党の指導性を強調し、経済面では生産力主義に基づく柔軟な経済政策が鄧小平の基本姿勢である。

また、公職から退き、表面的には引退しつつ影響力を維持していた1992年1月-2月(春節)には深圳上海などを視察し、南巡講話を発表した。経済発展の重要性を主張し、ソビエト連邦の解体などを例にして経済改革は和平演変による共産党支配体制の崩壊につながると主張する党内保守派を厳しく批判したこの講話は、天安門事件後に起きた党内の路線対立を収束し、改革開放路線を推進するのに決定的な役割を果たした。以後、中華人民共和国は急速な経済発展を進めることになった。

鄧小平の行った代表的な経済政策として、「改革・開放」政策の一環である経済特区の設置がある。外資の導入を一部地域に限り許可・促進することにより経済成長を目指すこの政策は大きな成果を収めた。生産力の増大を第一に考える彼の政策は「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」という「白猫黒猫論」に表れている。

また1984年12月には、イギリスマーガレット・サッチャー首相との間に「一国二制度」構想の元に、イギリスの植民地であった香港の返還に関する合意文書に調印している。

[編集] その死

鄧小平は香港返還を見ることなく1997年2月19日に死去した。遺言は唯物主義にのっとり、遺骸は角膜などを移植に寄付し、他の遺骸は解剖学のために献体された。遺灰は親族によって中華人民共和国の領海に撒かれた。

中国中央電視台は彼の死をトップに報道し、江沢民は弔意を表し、天安門には半旗が掲げられた。しかし、中華人民共和国各地の市民の生活は平常どおり営まれていた。2007年には「没後10年」を迎えるが、特に記念行事はされなかった。

これは毛沢東が死んだとき盛大に国葬が営まれたのと対照をなす。

[編集] あだ名

名前の小平(シャオピン)の発音が小瓶と同じことから、しばしば小瓶と渾名されている。また、唐辛子風味のナポレオン(身長150センチと小柄ながら頭の回転が速く眼光人を刺す如く鋭かった)・鄧蝟子(ハリネズミの鄧)・鄧矮子(チビの鄧)と呼ばれたりもした。毛沢東は鄧小平の人となりを「綿中に針を蔵す」と評した。

[編集] エピソード

フランス留学の経験もあり、ワインチーズが大好物でヨーロッパ文化への嫌悪感を持たなかった彼は、いくつかの趣味を持っていた。

特に有名なのはコントラクトブリッジであった。政府や共産党の公職から退いた後も、中華人民共和国ブリッジ協会の名誉主席を務め、国際的にも有名となった。

また、サッカー好きでも知られていた。FIFAワールドカップの時には、ビデオなどを使ってほとんどの試合を見ていたと言われている。

彼の言葉として「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」という「白猫黒猫論」が有名であるが、これは四川省の古くからの諺である。実際に彼が言ったのは「白い猫」ではなく「黄色い猫」だとする説もある。 尤も鄧が好んだ言葉であり、毛沢東が鄧を弾劾する際に弾劾理由の一つとしている。

1978年の訪日時には様々な談話を残した。「これからは日本に見習わなくてはならない」という言葉は、工業化の差を痛感したもので、2ヶ月後の三中全会決議に通じるものであった。また、帝国主義国家であるとして日本を「遅れた国」とみなしてきた中華人民共和国首脳としても大きな認識転換であった。新幹線に乗った際には「鞭で追い立てられているようだ」という感想を漏らしている。

実子である鄧樸方は、北京大学在学中に文化大革命に巻き込まれ、投身自殺を図り(紅衛兵に取り調べられている最中に窓から転落。紅衛兵により突き落とされたとする説もある。事実、紅衛兵によるこういった、あるいはその他の激しい暴行による傷害や殺人は夥しい数に上り、鄧小平自身も暴行を受けている)、身体障害者になった。午前は工場労働をし、午後は息子の介護をした。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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