スパルタ
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スパルタ(Sparta, ドーリア語: Σπάρτα, アッティカ語: Σπάρτη)は、ギリシャ共和国南部 ラコニア県 の県都、古代ギリシア時代、ラコニア、メッセニアを治めていた、ドーリア人による軍事都市国家。自らはラケダイモンと称した。
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[編集] 基本情報
- 座標:37°4′ N 22°26′ E
- 国:ギリシャ共和国
- 地域:ペロポネソス
- ノモス(県):ラコニア
- 人口:18,184 人 (2001年)
- 面積:84.5 km²
- 人口密度:215 人/km²
- 標高:210 m
- 郵便番号:231 00
- 地域コード:27310
- 自動車ナンバープレート:ΑΚ
ペロポネソス半島の南、ラコニア地方エウロタス河畔に位置する。中世東ローマ帝国時代の都市遺跡ミストラスはこの近郊にある。
ギリシア神話では、トロイア戦争の原因となったヘレネの夫メネラオスがスパルタ王となっている。
[編集] スパルタの基本制度
[編集] スパルタの成立
紀元前10世紀ころに祖先がギリシア北方からペロポネソス半島に侵入し、ミュケナイ時代の先住民アカイア人を征服しヘイロタイ(奴隷)にした。このときスパルタは自分たちの部族の統一もままならない中、西の隣国、メッセニアを征服した。このため、スパルタは、当時のポリスのなかでもその領域は例外的に広かった。奪った土地はスパルタ市民に均等配分され、約15万人とも25万人ともいわれるヘイロタイは奴隷から解放されることも移動することも許されず、土地を耕してスパルタ人に貢納した。スパルタ市民は18歳以上の成年男子で構成され(人口8千~1万人であったが家族を含めて5万人程度)、多数の被抑圧民を抱えたことから市民皆兵主義が導入され、日頃から厳しく訓練して反乱に備えた。ヘイロタイに反乱の兆しが見られると、クリュプキアと呼ばれる処刑部隊が夜陰に紛れてヘイロタイの集落を襲った。
[編集] 政治と社会生活
国政においては2人の世襲の王が並立し、その権限は戦時における軍の指揮権などに限定されていた。2王家はそれぞれアギス家とエウリュポン家といい、スパルタの統一過程で採られた妥協の遺制と思われる。ペルシア戦争のテルモピレーの戦いで有名なレオニダス王はアギス家の王である。長老会は、全市民参加の民会によって兵役免除に達した60歳以上の中から選出された28人に、2人の王を加えた30人で構成され、その地位は終身であった。民会の決定に対して拒否権を有し、事実上の最高決定機関であった。また、民会によって30歳以上の市民の中から、毎年5人の監督官(Ephoroi)が選ばれて、王を含む全市民に対する監督権と司法権を保持した。
新生児は部族長老の面接を受け、虚弱者は山奥の洞穴に遺棄された。男子は7歳で家庭を離れ共同生活を送り、12歳から本格的な肉体的訓練とスパルタ人としての教育を受けた。軍事訓練の一つとして、ヘイロタイから物を盗み殺害することも奨励された。こうして、彼らは質実剛健、忍耐と服従を身につけ、18歳で民会の全会一致により成人の仲間入りを果たした。こうした人材育成はスパルタ教育と言われる。
軍事に携わるようになると将軍の管理下に置かれ、毎日15人単位の夕食会に参加して、政治談義に加わった。共同食事は団結の醸成の場であり若者の教育の場であった。兵舎での生活を常とした為、妻をもっても夜には兵舎に戻る必要があった。戦場で臆病と見なされた場合、全ての共同体から排除され顎髭の半分を刈りとられた姿で生きなければならなかった。60歳になると兵役が免除された。
女性にも体育が奨励され健康な子を持つことが期待された。15歳位になると親が決めた30歳位の男子と結婚させられた。戦死することが多かったスパルタでは、兄弟で一人の女性を妻に迎えたと伝えられる。妻は夫と昼間に顔を合わせることはほとんどなかった。家庭の奥に籠もって一生を送ったアテナイの女性に比べれば自由であった。
スパルタ人は徹底的に贅沢を排除して、貴金属の装飾品を身につけることさえ禁じた。商業は2万人の半自由民であるペリオイコイに従事させたが、基本的には通商では抑制策を採り、鉄貨の使用しか認めていなかったので他の諸都市との貿易は振るわず、必需品が流通するばかりであった。
[編集] 対外関係
被抑圧民の反乱を鎮圧するためにも、勇猛果敢な市民兵軍団を組織する必要があったスパルタは、前6世紀半ばまでにはギリシア屈指の強国へと成長し、周辺のエリス・テゲアなどとペロポネソス同盟を結んだ。この同盟締結は、アテネのデロス同盟結成より早いものであり、早い段階よりスパルタが対外関係を構築していたことを示している。そのスパルタの市民軍は、ペルシア戦争においてその真価を発揮した。紀元前480年、破竹の勢いで侵攻を進める30万のペルシア軍に対し、ギリシア諸都市連合軍の作戦立案を担当したアテネのテミストクレスは、山間のテルモピュライでペルシアの侵攻を食い止める作戦を立てた。この戦場は主にスパルタが担った。しかし地元民に内通者が出てペルシア軍に迂回路を教えたため、背後を突かれて窮地に陥ることとなった。そこでスパルタ王レオニダスは他の諸都市の兵4000を先に逃亡させた後、自ら300人のスパルタ兵を率いてペルシャ軍を迎え撃つと、3日間持ちこたえて全員が玉砕した(テルモピュライの戦い)。この時間稼ぎが、アテネ海軍にペルシア軍を海上で迎撃する態勢を整えさせ、サラミス沖の海戦での勝利を可能にした。その勇敢な戦いぶりが全ギリシア人から称賛を受けた。
ペルシア戦争後は、デロス同盟の盟主であったアテナイとの対立を深め、ペロポネソス戦争へと突入した。籠城戦を選択したアテナイに疫病が蔓延したこともあり、前404年に勝利してギリシアの覇権を獲得した。しかしその勝利によって流入した海外の富が突然の好景気をスパルタにもたらした。質実剛健を旨とするリュクルゴス制度は大打撃を受け、市民の間に貧富の差が生じたため、スパルタ軍は団結に亀裂を生じて弱体化した。紀元前371年、レウクトラの戦いでエパミノンダスに率いられたテーバイ軍に破られ、覇権を失った。
[編集] 関連項目
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