スターリングラード攻防戦

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スターリングラード攻防戦

市街地で戦うソ連軍兵士
戦争: 独ソ戦
年月日: 1942年6月28日から1943年2月2日
場所: スターリングラードソ連
結果: ソ連軍の勝利
     独ソ戦におけるソ連軍の優位が確定。</BR>
交戦勢力
ドイツ
イタリア
ルーマニア
ハンガリー
ソ連
指揮官
フリードリヒ・パウルス元帥 ゲオルギー・ジューコフ元帥
戦力
500,000以上(多数) 1,700,000
損害
戦死・戦傷 740,000
捕虜 110,000
戦死・戦傷・捕虜 750,000
民間人死者 40,000

東部戦線</dt>
ポーランド - バルバロッサ作戦 - フィンランド - ウマーニ - キエフ - オデッサ - レニングラード - クリミア半島 - モスクワ - ルジェフ - ハリコフ - スターリングラード - ヴェリキエ・ルキ - 二次ルジェフ - クルスク - スモレンスク - ドニエプル川 - キエフ - コルスン - バグラチオン作戦 - リヴィフ・サンドミエシュ - ルーマニア - ハンガリー - ヴィスワ川・オーデル川 - カリーニングラード - ベルリン - プラハ</dd>

スターリングラード攻防戦(スターリングラードこうぼうせん、1942年6月28日 - 1943年2月2日)とは、独ソ戦におけるヴォルガ川西岸に広がるスターリングラードを巡り、繰り広げられた枢軸国軍(ドイツルーマニアイタリアハンガリー)対ソビエト軍の戦いを指す。

スターリングラードは元来ドイツ軍のブラウ作戦における副次的目標の一つに過ぎなかったが、日露戦争の奉天会戦、第一次世界大戦のヴェルダンの戦いを上回る動員兵力、犠牲者、経済損失をもたらした野戦に拡大した。また、史上最大の市街戦に発展した。

目次

[編集] 戦いの背景

1941年の冬将軍到来までにモスクワ攻略を果たせず、ドイツ軍は大きな損害を払いつつも何とか戦線を持ちこたえた。1942年春ドイツは攻勢を再開したが、もはや前年のように全戦線で大規模攻勢を行うだけの戦力はなく、カフカースの油田の奪取を主目的とする南方戦線に限定された攻勢であった。

南方軍集団を、中央軍集団などから戦力を引き抜いて強化した上で、ドン川沿いを制圧していくB軍集団(フェードア・フォン・ボック元帥指揮、第2軍、第6軍、第4装甲軍、イタリア軍、ハンガリー軍、ルーマニア軍など)と、ドン川を渡ってカフカース地方油田地帯を攻めるA軍集団(ヴィルヘルム・リスト元帥指揮、第17軍、第1装甲軍、ルーマニア軍など)に分け、6月28日一斉に進軍を開始した。

一方、ソ連軍は前年の大打撃から完全に立ち直ってはいなかったが、ウラル以東やカフカースなどに疎開させた工業設備は生産を再開し、機械化部隊の戦力は急速に再建されつつあった。また、拠点の保持にこだわって大量の捕虜を出した前年の戦訓に学んで、より柔軟な守備戦術がとられるようになっていた。

[編集] 戦いの経過

[編集] B軍集団

最初、B軍集団の攻撃をモスクワへの攻撃と勘違いしたソ連軍の猛反撃でヴォロネジ周辺で激戦となったが、その後は順調に進撃し、7月下旬にはドン川沿いの制圧を完了した。あっけないソ連の敗走振りに気を良くしたヒトラーは、第4装甲軍をカフカース方面へ引き抜き、第6軍に青作戦には盛り込まれていなかったスターリングラードの占領を命じた。第6軍は8月23日、スターリングラードへ達したが、第4装甲軍が再びスターリングラード方面へ転属となり、市街突入は9月にずれ込んでしまった。この際、ソ連を甘く見たヒトラーの命令で、第4装甲軍から多くの装甲師団自動車化歩兵師団が引き抜かれ、これら一連の総統命令の乱発は戦局を大いに混乱させ、ドイツ軍敗北の遠因となった。

[編集] A軍集団

青作戦によりクリミア半島から支援攻撃する予定だった第11軍(Cf.セヴァストポリの戦い)をヒトラーが引き抜いたため、ドン川の渡河を巡ってロストフ・ナ・ドヌ周辺で激戦となったが、なんとか突破、カフカース地方に進撃した。しかし、険しいカフカース山脈と、鉄道や遠くイランからカスピ海経由で送られてくるソ連の援軍のため進撃は進まなかった。(Cf.第3次ハリコフ攻防戦

[編集] スターリングラード市街戦

市街地の兵士

9月13日、南から第4装甲軍が到着し、スターリングラードの西で待機していた第6軍と共に市街へ突入を開始した。ヒトラーは当初、この戦闘は比較的早期に終結すると予想していたが、爆撃と火災により瓦礫の山と化した建物を使い巧みに防衛する市民を含む、ワシーリー・チュイコフ中将率いるソ連第62軍の激しい抵抗に遭い、建物一つ、部屋一つを奪い合う市街地戦は冬季にまでもつれ込んだ。ドイツ軍は市街戦に装甲部隊や貴重な工兵部隊の投入を行ったが、本来これら部隊は市街地には不向きな部隊であった。なによりドイツ軍の電撃戦の強さの秘訣である急降下爆撃機の効果的な支援が無い中、市街戦は第一次世界大戦塹壕戦にも似た一大消耗戦となった。

  • 9月14日、市街南部のスターリングラード中央駅を占拠するも、以後数日間15回も取りつ取られつの大激戦となった。
  • 9月16日、中部の丘を占拠するも、10月まで戦車同士の激戦が続く。
  • 9月21日、市街南部の巨大な穀物サイロに立て篭るソ連軍の前に、サイロを破壊できないドイツ軍は制圧できず攻撃遅滞。
  • 9月27日、ドイツ軍、市街戦中も戦車を作り続ける、市街北部の「赤い10月工場」へ攻撃開始。
  • 10月14日、ドイツ軍は市街北部の「トラクター工場」を占拠。
  • 10月23日以降、「赤い10月工場」に立てこもるソ連軍の前に攻撃遅滞。この市街の数%の制圧を巡って、スターリングラード市街戦は際限の無い長期戦になる。
  • 11月19日、ソ連軍の引き伸ばし策成功、ソ連軍の包囲行動が始まる。

[編集] スターリングラード包囲戦

  • 11月19日、編成を終えたワトゥーティン大将の南西方面軍が、北方を守る弱体なルーマニア軍を撃破して包囲行動を開始。呼応してアンドレイ・エレメンコ大将率いるスターリングラード方面軍が東から、ロコソフスキー中将のドン方面軍が南方から進撃開始。
  • 11月29日、包囲網完成。マンシュタインによる包囲解除攻撃「冬の嵐作戦」もソ連第2親衛軍の前に阻まれ中止、以後じわじわと包囲網は狭まっていく。

ソ連軍ジューコフの大反撃と飢えと寒さにより市内の各地で壊滅する部隊が相次ぎ、1943年1月31日には包囲されていたフリードリヒ・パウルス元帥率いるドイツ第6軍と枢軸国軍23万のうち、生き残りの9万人が降伏した。捕虜の中には後に「ドイツ将校同盟(Bund deutscher Offiziere)」の議長としてソ連軍の宣伝に協力するザイドリッツ=クルツバッハ砲兵大将 (Walther von Seydlitz-Kurzbach) も含まれている。その他大量の軍需物資がソ連軍の手に落ちた。その後、シベリアの収容所から戦後生きて祖国に帰れたのは、わずか6,000人であった。ヒトラーの甥であるハインリッヒ・ヒトラーも捕虜となったほか、アルベルト・シュペーア軍需相の弟エルンストもこの戦いで戦死している。そして、2月2日にソ連軍が攻防戦に勝利したと宣言し、スターリングラード攻防戦はここで終了したのである。

[編集] スターリングラード攻防戦の影響

ドイツ軍の誇る急降下爆撃も戦車の突撃も敵味方入り乱れる市街戦では効果を発揮できず、包囲されたドイツ第六軍の兵士達は零下30度の中、飢えと寒さで反撃どころではなく、次々と倒れていった。

カフカース地方制圧を目指すA軍集団もソ連軍の抵抗と補給難から前進が止まっていたが、スターリングラードでの敗北によって後方の戦線に穴が開いたことから、退路を断たれて壊滅する危険が生じた。スターリングラード包囲網にソ連の大軍が釘付けとなったことと、マンシュタイン元帥の適切な指揮によってかろうじてA軍集団はロストフ経由撤退することができたが、こうしてドイツ軍の1942年の夏季攻勢ブラウ作戦は失敗に終わり、これ以降東部戦線でドイツが決定的勝利を得る機会は二度と来なかった。

このスターリングラード攻防戦は一個軍が包囲殲滅されるというドイツ軍がかつて受けたことのない大敗北であり、多くの捕虜を出したこともあってドイツ国民に与えた心理的影響は大きかった。大きな被害を受けたルーマニアやハンガリーなどの枢軸側同盟国についても同様であった。エル・アラメインの戦いミッドウェー海戦共に第二次世界大戦の大きな転換点となった。

俗に『ヒトラーは宿敵であるスターリンの名を冠したこの都市に運命的な物を感じて決戦の地と考え、何としてでも制圧することに固執するあまり大局を見失った。』と見ることも出来る戦いであった。

[編集] スターリングラードとドイツ空軍

ソ連軍の反撃(灰矢印)と前線の推移 11月19日時点のドイツ軍前線(青)、12月12日時点の同前線(オレンジ)、この時点でスターリングラードのドイツ軍は孤立している。12月24日時点の同前線(緑)

包囲されたドイツ軍に対して脱出する代わりに、空軍総司令官のゲーリング元帥は空輸による食料、弾薬、兵員の補給を約束したが、悪天候と幾つか確保されていた飛行場も次々と赤軍に占領され、最終的にはパラシュートによる補給品投下に頼らざるをえなかった。もとよりこのような方法によって十分な補給ができるはずもなく、純粋な部隊維持用の補給すら一度としてなされることはなかった。この作戦遂行のために輸送機パイロットを消耗したこと、特に飛行学校の訓練機を多数、パイロットを務めていた教官ごと失ったことは、後にドイツ空軍弱体化の遠因となった。また約束した空中補給を実行できなかったゲーリングの威信も大きく損なわれ、ナチスドイツのNo.2の地位を実質的に失うことになった。

[編集] この戦いを主題もしくは舞台とした映画、文献、ゲーム

  • ソ連側:
    • Plievier, Theodor (記録小説): 『死のスターリングラード』、角川書店、1952年
    • ニキータ・クリーヒン+レオニード・メナケル監督(ロシア映画):『鬼戦車T34』、1964年
    • ガブリール・エギアザーロフ監督(ロシア映画): 『スターリングラード大攻防戦』、1972年
    • Robbins, David L.(ソ連軍狙撃兵を題材の小説):『鼠たちの戦争(全二巻)』、新潮社、2001年
    • Robbins, David L.(上記小説のアメリカ映画):『スターリングラード(Enemy at the Gates)』、2001年
    • コロミーエツ,マキシム(研究書): 『ドン河の戦い:スターリングラードへの血路はいかにして開かれたか』、大日本絵画、2004年
  • 枢軸国側:
    • Konzalik, Heinz G.(ドイツ映画) : 『スターリングラードからの医者』、1958年
    • フランク・ヴィスパー監督(ドイツ映画):『最後の戦線・壮烈第六軍』、1959年、ドイツ映画
    • Bamm, Peter : 『目に見えぬ旗:ある従軍外科医の記録』、桜井 正寅訳、南江堂、1961年
    • Adam, Wilhelm (第六軍副官の回顧録): Der schwere Entschluß,Verlag der Nation, Berlin, 1965
    • ヴィットリオ・デ・シーカ監督(イタリア映画):『ひまわり』、1970年
    • Jukes, Jeoffrey (Pictorials) : 『スタリングラード:ヒトラー 野望に崩る』、サンケイ新聞出版局、1971年
    • Konzalik, Heinz G.(小説):『第六軍の心臓:1942-1943年スターリングラード地下野戦病院』、フジ出版社、1984年
    • ヨゼフ・フィルステンマイヤー監督(独米合作映画):『スターリングラード』、1993年
    • Beevor, Antony (Non-fictions) : 『スターリングラード:運命の攻囲戦 1942-1943』、2002年
    • 押井守(ラジオドラマ):ケルベロス 鋼鉄の猟犬

[編集] 関連


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