スエズ運河

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スエズ運河(すえずうんが)とは、スエズ地峡(すえずちきょう)に位置し、地中海紅海スエズ湾)を結ぶ運河。全長は163km、幅34m、深さ15m。

[編集] 歴史

スエズ運河(1869)
スエズ運河の衛星写真

フランス外交官のフェルディナン・ド・レセップスの指揮によって、1859年4月25日の着工から、10年の歳月をかけて建設され、1869年11月17日に開通した。150万人のエジプト人が動員され、うち12万5000人が主にコレラによって亡くなったと推定されるなど、建設には多大な犠牲が払われた。この運河の開通により、アジアから欧州アメリカ大陸への海運においてアフリカ大陸喜望峰を周回する必要がなくなった(「照國丸」「靖國丸」などが活躍していた欧州航路(ロンドン線など)もこのスエズ運河を経由していた)。

開通後はフランスエジプトの共同所有とされたが、対外債務を抱えたエジプトは運河管理会社のイギリスに売り渡すことを余儀なくされ、1882年には運河を保護することを理由にイギリス軍が運河の両岸に駐留しはじめる。このときのイギリス首相はディズレーリで、購入資金を融通したのはロスチャイルド銀行であった。以後、実質的にイギリスがスエズ運河を支配することになる。

1956年7月26日、アメリカから援助を打ち切られたアスワン・ハイ・ダム建設の資金を得ることを目的として、エジプトナセル大統領によって国有化される。ナセルの民主社会構築政策においてアスワン・ハイ・ダム建設の目的のひとつは、市民への労働機会提供だった。期待していた英米からのダム建設費用援助が得られなかったため、運河へ収入を求めた。

同じ時期、エジプトが必要な武器を西側諸国から調達できないため、チェコスロバキアから調達した。このようなナセルの行動は、英米からは反西側と受け取られた。当時は冷戦初期で、各地で植民地のナショナリズムが高揚しはじめていた。イギリス・フランスは植民地であるアフリカ大陸各国の政治動向に敏感だった。アフリカ植民地支配に強く固執していたフランスは、フランスからの独立をめざすアルジェリアにエジプトが物資供給していたため、英米のナセルに対する圧力に同調した。

エジプトに対して海外資産凍結や食糧援助取消などの報復措置が取られ、同年10月にはまずイスラエルがエジプトに侵攻、第二次中東戦争(スエズ戦争、スエズ動乱とも呼ぶ)が勃発、次いでイギリス、フランスも運河の無料使用を求めて攻撃を開始した。これは実際は英仏がイスラエルとの密約の上で起こした争乱であったが、ソ連アメリカがこれに強い難色を示し、国連がエジプトによる国有化の正当性を認めたこともあり、国際社会から非難を浴びたイスラエルと英仏は撤兵し、戦争は終結に至る。

1967年第三次中東戦争の結果、運河はエジプトとイスラエルの軍事境界線となり、船舶の通行は不能となった。以後、スエズ運河は長い間閉鎖され、再開されたのは第四次中東戦争停戦後の1975年6月のことであった。

[編集] 逸話

  • スエズ運河を泳いで横断する場合にも通行料がかかる。
  • 実際に泳いで横断した者もいた。

[編集] 外部リンク

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