ジェームズ1世 (イングランド王)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| </div> | 項目統合の提案:ジェームス1世をこの項目へ統合させることが提案されています。統合に関する議論はノート:ジェームズ1世 (イングランド王)を参照してください。 |
| |||||||||||||||||||||||||||||||||
ジェームズ6世(James VI)およびジェームズ1世(James I)、チャールズ・ジェームズ・ステュアート(Charles James Stuart,1566年6月19日 - 1625年3月27日)は、スコットランド、イングランド、アイルランドの王。スコットランド王としてはジェームズ6世(在位:1567年7月29日 - 1625年3月27日)であり、イングランド王・アイルランド王としてはジェームズ1世(在位:1603年7月25日 - 1625年3月27日)である。非公式にはグレートブリテン王の称号も用いた。スコットランド女王メアリーとダーンリー卿ヘンリー・ステュアートの長子。
目次 |
[編集] 概要
母メアリーの廃位に伴い、1歳と1ヶ月でスコットランド王として即位。しばらくの間摂政が置かれ、実質的な政務を執ることは無かった。
1579年、13歳のジェームズはフランス帰りのオウビーニュイ卿エズメ・ステュアート(父ヘンリーの父方の従弟に当たる)に魅了され、彼を寵愛した(ジェームズは、男色家=ホモセクシュアルで知られている)。じゃまになった当時の摂政モートン伯ジェームズ・ダグラスをダーンリー卿殺害に関与したとして、1581年1月に処刑した。しかし、翌1582年ガウリ伯ウィリアム・リヴァンの計略により、リヴァン城に軟禁された。翌年リヴァン城からの脱走に成功したジェームズは、1584年ガウリ伯を処刑し、直接統治を行うこととした。
親政に乗り出したジェームズは、当面の懸案であった宗教問題に取り組むことにした。当時のスコットランドの宗教界は長老主義の影響が強く、彼らは「聖職者の任命は国王ではなく、長老会議によるべき」と主張していた。ジェームズ6世は、1584年5月に「暗黒法」(ブラック・アクト)を発布し、国王が最高権威者であり、司教制度を謳い、国王や議会に反対する説教を禁止した。これに対する信徒の反発は強く、1592年には「黄金法」(ゴールデン・アクト)により「集会」を認めることとした。さらに、1598年には「司教国会議員」を認め、教会(カーク)の推す3人の司教に国会議員同様の立法活動を許すこととした。
1589年、ジェームズはデンマーク王フレデリク2世の娘アン(アン・オブ・デンマーク)と結婚した。
1603年3月14日、イングランド女王エリザベス1世が死去すると、後継者として指名されていたジェームズがイングランド王として即位することになった。7月25日に戴冠し、イングランド王・アイルランド王も兼ねることになった。これがイングランドにおけるステュアート朝の幕開けとなる。以後イングランドとスコットランドは、1707年に合邦してグレートブリテン王国となるまで、共通の王と異なる政府・議会を持つ同君連合体制をとることとなる。なお、イングランドの宮廷生活に満足したジェームズは、その後スコットランドには1度しか帰ることがなかった。
1604年にイングランドの国教会や清教徒など宗教界の代表者たちを招いて会議を行った。この中で、ジェームズはカトリックと清教徒の両極を排除することを宣言した。これにより、カトリックと清教徒の両方から反感を買うことになった。1605年にはガイ・フォークスらカトリック教徒による、国王・重臣らをねらった爆殺未遂事件(火薬陰謀事件)が起こった。なお、1611年に刊行された欽定訳聖書は、ジェームズの命により、国教会の典礼で用いるための標準訳として翻訳されたものである。
エリザベス1世時代に敵対していたスペインとは和解した。だが、その一方で私掠船を禁止したり、「反スペイン」で関係を強めていたオスマン帝国に対してはキリスト教徒としての観点から敵意を抱いて断交を決め、重臣や東方貿易に従事する商人達からの猛反対を受けた。最終的にジェームスが妥協して、従来国家が負担していた大使館などの経費を全て商人達に負担させる事を条件に、オスマン帝国との国交は維持する事になった。
また、ジェームスはスコットランド王としてもイングランド王としても弱体な権力基盤の上に君臨していたため、自己の味方を増やそうと有力貴族達に気前良く恩賜を授け、多額な金品を支出していた。更に王妃アンの浪費(後述)によって国家財政は逼迫してしまう事になった。このため、国王大権をもって議会に諮らずに関税を大商人達に請け負わせる契約(「大請負」)を締結して、議会との対立を深めた。
1625年3月27日にジェームズはシーアボールズ宮殿で亡くなった。
[編集] ジェームズ1世の家族
[編集] 空っぽの頭と言われた王妃
先代のエリザベス1世は、倹約家であった事に加えて本人以外に「王族」を持たなかったために宮廷経費が最低限にあったのに対して、ジェームズ1世には既に王妃アンの他に7人の子供達がおり、宮廷経費の増大は避けられなかった。
特に王妃アンは、金髪が美しい美女であったが、性格はお祭り好きの浪費家で知られた。その浪費癖は既にスコットランド時代から知られており、元々裕福とは言えないスコットランド王室の財政を脅かすほどだった。それはイングランドに移ってからも変わることなく、パーティに舞踏会、そしてイングランド南西部のバースへの大旅行など、その浪費ぶりは凄まじいものがあった。そのため、1619年に王妃が他界すると莫大な負債が残され、ジェームズ1世は悩まされる事になった。彼女については『空っぽの頭』(Empty Headed)と言う人間までいた。
宮廷経費の増大は国家財政を更に逼迫させて、清教徒革命に至る国王と議会の対立の最大の原因となる。
[編集] ハノーヴァー朝につながる娘
ジェームズ1世と王妃アンには計7人の子があったが、無事成長したのは3人である。
長男ヘンリー・フレデリック王太子は将来を嘱望されていたが、18歳で死去したため、王位継承権は次男のチャールズに移り、後のチャールズ1世となる。
長女エリザベス(1596 - 1662)は1613年にプファルツ選帝侯フリードリヒ5世と結婚した。陽気で美しく慈悲の心を持っていた彼女は、イングランドでも非常に人気が高かった。嫁ぎ先のプファルツでも領民達から「慈愛の王妃」と呼ばれ慕われるほどであった。しかし、ボヘミア・ファルツ戦争(ベーメン・プファルツ戦争)で夫が皇帝フェルディナント2世に敗れると、全てを失ってオランダへの亡命を余儀なくされた。のち、1661年にイングランドへ帰り、翌1662年ロンドンで死去した。夫との間には13人の子を儲けたが、三男ループレヒト(ルパート)はイングランドでカンバーランド公に叙され、イングランド内戦や英蘭戦争で軍司令官として活躍し、カナダの植民地経営にも携わった。また、五女ゾフィーはハノーファー選帝侯エルンスト・アウグストに嫁いだ。その長男がジョージ1世である。
|
|
|
|
|

