シャルル10世 (フランス王)
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シャルル10世(Charles X, 1757年10月9日 - 1836年11月6日。在位:1824年 - 1830年)は、ルイ16世とルイ18世の弟で、ブルボン朝最後のフランス国王。即位以前にはアルトワ伯の称号で呼ばれていた。
[編集] 生涯
兄ルイ16世、プロヴァンス伯(ルイ18世)とそりが合わなかったものの、王妃マリー・アントワネットの寵臣の一人となってルイ16世治世下を生きた。王妃マリー・アントワネットの醜聞や王権に対する不満が高まり、第三身分が決起すると、マリー・アントワネットと共に第三身分の迫害に同調して、国民からの恨みを買う。第三身分が中心となったテニスコートの誓いや国民議会を王妃と共に国王政府の名の下に迫害、弾圧した事で、革命勃発の発端へと至らしめた。
1789年、フランス革命が起こるとイギリスに亡命して反革命派とともに各地を転戦した。亡命中は反ナポレオンの旗手となり、ナポレオン失脚の為の援助と刺客をフランスに送り込んだ。有名なのが、1800年12月24日に起きた王党派によるナポレオン暗殺未遂事件「地獄の仕掛け事件」である。しかし結局ナポレオンを失脚に追い込むことは出来ず、ナポレオン戦争でも兄同様、大きな影響力を誇示することが出来なかった。
1814年にナポレオン失脚後にフランスへ帰国するも、ナポレオンの百日天下の間は再び亡命を余儀なくされる。この様にブルボン家の兄弟はナポレオンに対して無力であった。この為、ボルドーで反ナポレオンの挙兵演説をしたマリー・テレーズ(長男アングレーム公ルイ・アントワーヌの妃、ルイ16世王女)をナポレオンから「ブルボン家唯一の男性」と揶揄されたりもした。
王政復古後も、1820年に次男ベリー公シャルル・フェルディナンが暗殺されるという悲運に見舞われた。
1824年、兄ルイ18世が死去すると国王として即位したが、議会の解散やルイ14世時代の絶対王政復活を目指すなど、兄以上の反動的な専制政治を行なったため、1830年、不満をもったフランス国民により革命が起こされた。いわゆるフランス7月革命である。この革命によってシャルル10世はイギリスに亡命し、オルレアン家のルイ・フィリップが国王に擁立されて、ブルボン家直系から王位は失われた。
シャルル10世は退位する時、こう漏らしたと言う。「余も兄(ルイ16世)と同じ運命を辿るのか」と。
[編集] もう1人の「シャルル10世」
「フランス王シャルル10世」を称した人物はブルボン家にもう1人存在する。ヴァンドーム公アントワーヌの弟でブルボン朝の初代国王アンリ4世の叔父であるブルボン枢機卿シャルル(Charles de Bourbon, 1523年 - 1590年)である。1589年のヴァロワ朝断絶後、プロテスタントのアンリ4世の即位をカトリック同盟(カトリック教会)の貴族たちは認めず、シャルルを「国王シャルル10世」として擁立し、対抗した。しかし、この対立王は翌1590年に死去し、アンリ4世はその後数年かかって自らの王位を確立した。
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