グラーフ・ツェッペリン (空母)
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グラーフ・ツェッペリン(ドイツ語:Graf Zeppelinグラーフ・ツェペリーン)は、ドイツ海軍が建造していた航空母艦である。艦名は、飛行船で有名なフェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵に由来する。
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[編集] 概要
この空母はドイツが再軍備を進めるにあたり戦艦、Uボートと同時期に建造がスタートした。しかしながら、ドイツに空母の建造経験はなかったため計画案作成に時間がかかり、着工は1936年になってしまった。設計に際しては、同盟国日本の空母赤城が参考にされた。1938年に進水したが、第二次世界大戦に入ると、ドイツ海軍は通商破壊作戦を優先するため潜水艦建造に集中する事となり、1940年に本艦の艤装工事は中断された。
工事は1942年に再開されたが、バルジ装着などに手間取り、1943年に大型艦製造中止命令が出たため、工事は完全に中止となった。搭載されていた15cm砲塔は、地上砲台としてノルウェーの沿岸防衛に転用された。9割ほど完成していた本艦は、バルト海沿岸のシュテティンに避難していたが、ソ連軍に接収されるのを恐れ、1945年4月25日に自沈した。
戦後、ドイツ海軍の解体の同意を得て、グラーフ・ツェッペリンは破壊された艦の含まれる「Cグループ」の1艦としてソ連海軍に割り当てられた。グラーフ・ツェッペリンはドイツの造船所で修理され、1947年2月3日には洋上基地(Плавучая база)に艦種変えされ、艦名もPB-101(ПБ-101)に改められた。PB-101は、軍事造船科学調査研究所の管理下に置かれた。8月14日には、艦は浮揚されスヴィネミュンデまで曳航された。8月16日深夜、PB-101は試験のため洋上実験場まで曳航された。そこで、艦は甲板に爆撃と砲撃を受けた。8月17日には、PB-101は駆逐艦隊と魚雷艇隊の演習の的となった。最終的に、PB-101は魚雷艇TK-503と駆逐艦スラーヴヌイの雷撃により撃沈された。
[編集] 略歴
- 1935年1月 第二次ロンドン軍縮会議予備交渉に滞欧中の山本五十六はベルリンに海軍統帥部長官のエーリヒ・レーダーを訪問。
- 1935年1月末 駐日ドイツ大使館付海軍武官パウル・ヴェネッカー(Paul Wennecker)中佐が空母赤城を見学(同中佐は1933年10月1日~1937年7月30日までと、1940年3月1日~1945年5月7日まで二回に渉り駐日ドイツ大使館付海軍武官に在職した)。
- 1935年9月から12月にかけドイツ調査団が来日。この際に「独国航空官及海軍士官ノ赤城見学ノ際見学許可並二説明標準」が準備され、情報提供の範囲が定められた。
- 1936年12月28日 キールのドイッチェ・ヴェルケ造船所(de)にて起工。
- 1938年12月8日 進水式。駐独日本大使館付海軍武官小島秀雄招待さる。
- 1940年6月 建造の優先度が潜水艦増産のため低下し、建造中断。
- 1942年5月 工事が再開される。
- 1943年1月 大型艦建造の中止命令により工事中止。シュテティンへ避難。
- 1945年4月25日 ソ連軍に接収されることをおそれ自沈する。
- 1947年2月3日 戦後のドイツ軍解体に際し、ソ連軍に割り当てられる。
- 1947年8月17日 演習で浮揚標的として用いられ、沈没する。
- 2006年7月12日 ポーランドの石油資源探索会社によって、バルト海に沈んでいたところを発見される。
[編集] 同型艦
- ペーター・シュトラッサー(Peter Strasser) (未成艦)
[編集] 文献
- 相澤 淳『海軍の選択:再考 真珠湾への道』中央公論社、2002年、ISBN 4-12-003304-X
- 小島秀雄『ドイツ在勤武官の回想』原書房、1985年
[編集] 外部リンク
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