造園
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造園(ぞうえん)とは、私的な空間である庭園や公共的な空間である公園などの緑地/緑空間を土木的な基盤整備、意匠、植物の栽培管理、石等の鉱物資源などによって造ることである。『造苑』とも言う。さらには水辺海辺、山林や里山、広場などの空間整備、緑にからんだ都市計画や地域環境整備、諸施設の外部空間等の空間整備や各種緑化施策、自然環境の保全保護や観光農園や棚田などの農空間・田園環境の創出および、それら一連の調査計画~維持管理、景観の形成および修正(修景)に関する分野、植木樹木生産管理、緑を創る植栽基盤整備、農園や園芸のうち家庭園芸(ガーデニング)、花壇などの展示植栽、園芸療法に関する分野も含まれる。
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[編集] 造園の対象となる空間
造園の扱う対象の範囲を考えてみると、造園が広義の生活環境を創造・保全するものであるとすれば、空間的に造園の範囲は、小さくは個人の庭空間から日常生活空間から国土的スケールの生活空間まで含まれることとなる。造園が人間のあらゆる生活空間において快適性の享受等を行うことを目的としていることから、住む、働く、くつろぐ、交通という生活の様々な活動すべてにかかわる場が造園の対象範囲となるといえよう。これらの造園の対象空間は広義の「緑地」という概念が般的に用いられている。
戦後における環境問題として、大都市地域を中心とした都市のオープンスペースの急速な減少傾向があり、昭和30年代以後の急激な市街化は、都市地域の内部及びその周辺地域の生活環境に大きな影響を与え、都市の内外における自然環境及ぴ各種オ一プンスペースの減少、あるいは荒廃となって現れてきた。これに対し行政サイドとしては、都市公園整備を始めとする公的オープンスペースの確保等がすすめられ、また、私的オープンスペースについても各種の助成・規制などの措置が講じられ、環境改善の努力は進められている。
また、屋外に存在する史跡や名勝、天然記念物など文化財を保存し活用するためにさまざまな形態での造園的な整備と維持管理が行われている。整備形態としては現状を維持するものから復元的な整備(現地での場合と移転とがある)がある。
[編集] 個人的な空間における造園
- 個人住宅における庭園・外構の創出
- ベランダガーデン;都市部ではマンションなどのベランダで花作りや栽培などが行われている。
- 屋上緑化/壁面緑化、路地空間・坪庭の作庭、家庭菜園、アトリウム等内部緑空間や花壇・植物小空間創出、植樹・樹木管理等。
[編集] 法人的な空間における造園
- 法人所有の諸施設などに設けられる庭園や山林/敷地空間の造園整備-遊園地やテーマパーク類のリゾート施設やゴルフ場/ゴルフコース、学校法人所有の学校キャンパス、宗教法人所有の神社や寺社の境内や墓地/墓園等。
- 産業が破壊した風景等の修復など-土砂/砂利採掘場所跡、ぼた山や工場跡地、廃棄物埋立地の造園的修復
[編集] 公共的な空間における造園
- 公共庭園-公園-緑地-樹林地・樹林帯-公開空地-広場-行楽地、などの創出
- 街路樹・並木-植樹帯-グリーンベルト-法面緑化
- 市民農園-分区園と貸農園
- 各公共諸施設(○○センター、学校、駅、工場、港湾、空港、道路空間・・・)の非建蔽地、外部空間、造成地、埋立地、河川湖沼海岸等水辺、山林や砂防指定地などの緑地化・園地化/環境整備および植樹
- 自然体験観察園等や、ビオトープ等の自然保護空間整備、○○パーク、××ガーデンといったテーマパーク物、「○○の里」、「○○の丘」、「○○の森」づくりなど
- 都市緑化フェア・博覧会場等会場計画設計・庭園や花壇出展展示
[編集] 家庭園芸(ガーデニング)
そもそも、「藝」とは植物を植えるの意、つまり園芸の語源は「園に植物を植える」という意味であり、農業とも造園とも意味を異にする。日本では江戸時代からこの意味での園芸が非常に興隆して、多くの古典園芸植物が育成される等、早くから一つの芸道的文化として造園術や農業から独立して存在している。これが造園術とほとんど同義である西欧の gardening、また農業の一形態であるとする horticulture とかなり大きく異なる点であり、明治時代以降、西欧園芸の流入と共に、日本では「園芸」の定義に大きな齟齬を来すこととなった。未だにこの問題は解決していないが、学術的に西欧式概念で園芸が定義されているので、造園術や農業の範疇に入らない芸道的、趣味的な園芸分野が応急的に趣味園芸、家庭園芸等といった呼称で片隅に追いやられる結果となってしまった。しかし、これこそが本来美的文化としての園芸の本質を成すものであるとも言われている。 加えて昭和60年代以降、イギリス式庭園術が紹介され、「ガーデニング」の名で一時もてはやされた。この結果、特に呼称のみが定着し、一般的にはガーデニング=園芸という図式が固定される傾向も生まれた。 したがって現在の日本では、一般家庭の庭先において、自らの手によって花卉や樹木を植え、あるいは花壇を設けて観賞したり、また、菜園を設けて蔬菜や果樹を生産し、主に自家用に消費することを家庭園芸(ガーデニング)と言う場合が多い。特にイギリス風スタイルで行なわれるものがガーデニングと呼ばれる傾向が強い。しかし、『家庭園芸』とは言うものの、農業的見地からの定義による「園芸」の意味する野菜などの食物の生産について指す場合は『家庭菜園』や『クラインガルテン』などと呼び、家庭園芸と言った場合には、造園的な分野である花卉や樹木の植栽を自ら行う行為を指すことが多い。 家庭園芸や家庭菜園は、かつて「年寄り臭い趣味」とされ敬遠されることもあったが、近年、若い女性を中心に粋な趣味として見直されつつある。
しかし、盆栽や古典園芸植物、あるいはマニアックな園芸植物などは今でも芸道的、芸術的な傾向を強く保持しており、これを全面的に家庭園芸に含ませることはできず、また趣味園芸として一括りにすることも難しい。当然農業や造園術の範疇にも属さない。そこで、美を追求する園芸という意味で、これらを「鑑賞園芸」として定義する人々もいる。
詳しくは園芸を参照。
なお、園芸用の農地は、建物の基礎部分に接して農地等を設けると、害虫が家屋に侵入して様々な悪影響を及ぼしたり、雑草を焼却しようとして根から基礎に火が回り建物火災となることすらある。これらの点や防犯上、建物の基礎部分周囲には砂利を敷き詰めることが望ましい。
[編集] 造園の概要
[編集] 造園という言葉
造園という用語については、明治以降、欧米から入ってきたLandscapeArchitectureの和訳として適用された言葉とされているが、今日では従来の庭園や作庭という意味も含めつつ、より広範囲の観念をもたせたものとなった。「造園」の文字は出版書物としては明治26年に小沢圭次郎の著作『公園論』に登場するのが最初であるが、中国では明時代の庭園書『園冶』:yuan yeh にすでにみられる。
1901(明治34)年には、後述する福羽逸人の講義録に「造苑」の文字が登場している。1911(明治44)年には森鴎外が、画家出身の作庭家本多錦吉郎の著述物の序文に造園の文字を使用している。
なお、上原敬二は著書の中で、「造園」の語は主に庭の関係ある者が「庭園」の代用語として日常用いていたと記しているが、伊藤ていじは開拓使が「農園」を造る意味で用いていたとしている。
言葉自体は明治時代にはすでに一般化していた言葉であり、いままで多くの人々によって様々な定義がなされている。「造園」という言葉の定義として、1917年田村剛は、“造園術とは、土地を美しく取り扱う術であり、または自然を享楽せしめる施設とはいえ、同時に他の実用・経済・衛生・保安・教化等の目的を伴ってもあえてさしつかえない"としている。また、1924年上原敬二は、造園学の定義として、“造園学とは、人間生活の上に使用、享楽のため種々の程度において美観と同時に利用の目的を達するよう土地を意匠設計する理論を考究する学術である"としている。さらに、1949年永見健一は、造園を定義して、「造園とは一定の上地の上において、その地形とその上にあるものおよび他から持ち込んだ植物その他色々の材料を組み合せて、これから創造された、または修飾加工して造成せられた一つのまとまった構成であって、それらを一次的目的として人の慰楽・休養・保健・鑑賞等の場たることを期し、第二次的目的として、保安・知育等の助長を図ることを原則とするが、政策的にはこれから経済収益を挙げることを目的とすることを防げない」としている。
また、「造園」という言葉の英訳"LandscapeArchitecture"の定義もまた様々であり、1873年アメリカ合衆国のクリーブランド(H.W、Creveland、1814~1900〉は、"LandscapeArchltecture"(造園)を「文明進歩の各種の要求に対して、最も便利に、最も経済的に.そして最も優美にするように.ヒ地を編成する技術である」としている。また、アメリカ造園家協会(ASLA:AmericanSocietyofLandscapeArchitects)の定義によると「美学的並びに科学的な理論を活用して、人間の物的環境を改善することである」となっている。
[編集] 造園の特徴と意義
このように、「造園」の定義は様々なものがあるが、これらを要約すれば、造園とは美学的、科学的理論を活用しながら、美と実用すなわち休養、教化、保健、体育、保安等を目的として、自然(地形、水、植生等)その他の要素を編成(アレンジ)し、人間の屋外における理想的な物的環境を構成することといえよう。 こうした造園についての定義に従って、造園の意義を他の土木・建築といった広義の物的環境構成のための科学技術と比べてみると、造園における物的環境の構成は、自然(地形、水、植生・気象等を含めて)及び若干の人工材料、施設がそのおもな要素としてなされること、特に植物に重点がおかれていることがあげられる。土木・建築においてはその構成要素として、無生物的要素を取り扱うことが多いのに対して、造園の場合には、生命のある植物を主として取り扱いながら、前記の目的を達成しようとしているといえる。この植物を主体とした物的環境ないし景観構成技術は、土木・建築が工事が完了した時点で“完成"であるのに対し、造園においては必ずしもそうとはいえないゆえんであり、造園の目的達成は工事完了後における生物である植物の管理いかんによって大きく左右される性格のものということができる。都市あるいは国土の緑の減少が憂慮されている現在、残された貴重な緑地を保全していくばかりでなく、また、積極的に新たな緑をつくりだしていくことが重要な課題となっており、うるおいのある生活環境の実現が強く望まれている中で、造園の意義は大きい。
[編集] 造園学の歴史
明治時代に造園教育機関を担ったのは、次々に設立された農学校、園芸学校である。 1886(明治19)年に東京農林学校(東京大学農学部の前身)が創設されている。1908(明治41)年には東京府立園芸学校(東京都立園芸高等学校の前身)、また奈良女子高等師範学校(奈良女子大学の前身)に園芸の科目が設置されている。1909(明治42)年には干葉県立園芸専門学校(現在の千葉大学園芸学部)が創設されている。初代校長である鏡保之助が翌年から「築庭理論」の名称の講義が開始されているが、後の1913(大正2)年には正式科目として、本郷高徳が東京帝国大学から転任して担当することになる。
当初は福羽逸人などの園芸家が造園に与えた影響が強かった。 福羽逸人(1856~1921)は当時の勧農局試験場、三田育種場詰をへて植物御苑(のちの新宿御苑)に入り、定年まで奉職する。 その間、1890(明治23)年より東京農林学校講師となり、わが国で初めて「風致園芸」の名で造園学を講じた。 「園芸の区域を論ず」と題する講演筆記では、園芸の分野を画し、そこに造庭術と観賞植物栽培とを含めていった。 1903(明治36)年には、新宿御苑の園芸見習生のための講義録『園芸論』で、特にフランスの影響を強く受けた造園論を展開している。
造園学は続いて、林学が影響を与える。1903(明治36)年、日比谷公園を林学の専門家だった本多静六、本郷高徳らが設計する。本多らは続いて明治神宮の造営にも参加した。 これ以降、農学系大学教育においては園芸系と林学系において造園教育が行われるようになる。
本多静六(1866~1952)は農科大学のさらに前身の山林学校を卒業後、ミュンヘン大学に留学。ドイツの林学の影響を強く受けて帰国し、東京帝国大学教授に就任、ほどなくして日比谷公園の設計にあたり、林学系造園の泰斗として大いに活躍する。 1914(大正3)年には帝国大学で「景園学」の名で造園学を講義するに至る。造園学とは「庭園、公園、森林公園其他風景美を旨とする地物に対して其風景美を構成し、又はこれを助長する理論と方法とを講究する学なり」と講じた。 その後造園学の講義は、1919(大正8)年9月には改めて正式科目として開かれることとなる。この講義は福羽の後継者である園芸学講座の原熈教授と、林学第二講座の本多教授の両名が受け持った。 その後、原の担当パートは丹羽鼎三が担当する。本多のパートは本多が総論、田村剛が東洋庭園史、本郷高徳が西洋庭園史を担当し、総論はのちに森脇福雄が担当、さらには池ノ上容が国立公園と風景計画、太田謙吉が公共緑地学、千葉県立園芸から小寺駿吉が出講して特論を担当している。 東京府立園芸学校では1913(大正2)年から、野間守人が講義を担当している。
関西では、1888年9月大阪堺区車之町に大阪府立農学校が設立。 1909年3月には園芸科が新設される。 1917(大正6)年には教諭として、のちに「甲子園花苑都市」、「藤井寺花苑都市」構想を手がける大屋霊城が赴任する。1924年には園芸科は分離し、豊能郡立農商学校と合併して大阪府立園芸学校(現大阪府立園芸高等学校)になる。この学校には1944年、園芸科、農芸化学科の2科をもつ大阪農業専門学校(大阪府立大学生命環境科学部の前身校の1つ)を併設する。 大屋霊城(1890~1934)は1915(大正4)年東京帝国大学農科大学農学科卒業。大阪府の公園設置委員会委員や大阪府技師、都市計画地方委員会技師を歴任。大正期から昭和初期にかけておもに関西を拠点に造園設計、造園教育に携わる。gardencity(田園都市)を花苑都市と訳し、専ら都市にある緑空間の必要性を世に説いていった。
建築教室では東京帝国大学で1918(大正7)年ごろに「庭園学」として講義が始まり、初期は伊東忠太と大江新太郎が担当し、後には農学部林学教室の田村剛が担当している。建築ではジョサイアコンドルが1893(明治26)年に博文館出版から日本庭園に関する書物「Landscape Gardening in Japan』を刊行し、世界中に紹介しているが、上原敬二によると、1902年ごろには特別講義のような形式でコンドルが担当していたようである。ちなみに不採用だったが本多静六の前に日比谷公園の設計を担当したコンドルの弟子辰野金吾は、自分の教え子の古宇田実に西洋庭園の、また天沼俊一に日本庭園の研究を進めている。古宇田は東京美術学校(現東京芸術大学)で庭園に関する教鞭をとり、のちには吉田五十八が担当する。天沼はのちに石灯篭の研究で名を馳せることになる。そのほかの建築学界からは武田吾一が茶室の、保岡勝也が茶庭の、佐藤功一、今和次郎、谷口吉郎、堀口捨巳、吉田鉄郎の各氏が庭園の研究を行っている。
また、東京帝国大学の農科大学林学実科では1919(大正8)年から田村剛、1922(大正11)年からは永見健一が造園の講義を担当する。
1922(大正11)年には九州帝国大学に林学科が設置され、東京帝国大学の林学教室から土井藤平が転任し、「造園学」を講義した。1926(大正15)年からは永見健一が転任して引き継ぐ。
1923(大正12)年に関東大震災に見舞われたことから、震災の復興計画に関わった上原敬二は公共造園の重要性を感じ、造園技術者の養成が急務であるとして、震災の翌年に東京高等造園学校(現在の東京農業大学地域環境科学部造園科学科〉を創立。上原は『造園学汎論』を出版し造園学の体系化を目指した。
1924(大正13)年には京都帝国大学の林学科にも造園学講座が開講し、東京帝国大学から関口鍈太郎が転任、同じ年三重高等農林学校(後の三重大学農学部)は丹羽鼎三が転任する。1936(昭和11)年に大阪府技師の森一雄が造園に関する授業を嘱託される。 なお、北海道大学では農学科は花卉園芸、林学科は森林美学の講義があるのみであった。
昭和期には、1941(昭和16)年には前述の東京府立園芸学校に造園科が設立されている。第二次世界大戦後、1960(昭和35)年以降、各地の農業高等学校に造園科が開設され、大学農学部にも次第に造園コース/造園学講座・専攻を持つところが増加し、また、専門学校や職業訓練校でも造園科を設けているところが多くなっていった。 さらに近年では芸術・工学関係の大学・学部などでも造園学を教える学科を持つようになり、広く環境を考えるという視点から教育が行われている。
[編集] 日本造園学会
造園において伝統的な職能が蓄積してできた技術と文化の上に、近代的な理論と科学的体系を構築することを目的として1925(大正14)年に設立。学会誌『造園学雑誌』改め『ランドスケープ研究』を発行。 会員は、大学等研究機関の研究者・教育関係者から学生、国および地方公共団体公益法人等行政の造園事業担当者、造園事業に携わる民間のコンサルタントや設計事務所、建設会社、環境関連会社等に勤務する実務者まで、学会が対象としている分野も造園の歴史・原論・デザイン関連や公園緑地などの計画・設計・管理、自然環境の保全保護と利活用手法、造園材料と緑化技術、ランドスケーププラニングおよび景観の分析・評価・計画など、多種多様である。
[編集] 関連項目
- 造園業(建設業の28業種の1つ)
- 造園技能士 造園施工管理技士
- 園芸学-バーチャルガーデニング
- 森林科学
- 緑地-緑化-自然-天然
- 庭園-庭師-作庭家-重森三玲
- 彫刻-彫刻家-イサム・ノグチ
- ランドスケープ-アースワーク
- 千葉大学園芸学部
- 大阪府立大学生命環境科学部
- 東京農業大学地域環境科学部
- 京都造形芸術大学(ランドスケープデザイン)
- 南九州大学
[編集] 外部リンク
ランドスケープおよびランドスケープ外的思考/LANDSCAPE(暫定版)
| 建築 - 土木工学 > カテゴリ:建築
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