イスラム教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


イスラム教

教義と信仰

アッラーフイスラーム
六信五行
タウヒードジハード
モスクマドラサ 
カアバハッジ

指導者

ムハンマド
ハディージャアーイシャ
アブー=バクル
ウマルウスマーン
アリーファーティマ
預言者カリフ
イマームウラマー

法と規範

クルアーンシャリーア
スンナハディース

歴史的展開と潮流

ウンマハワーリジュ派
スンナ派シーア派
スーフィズム
ワッハーブ運動
イスラム主義

さらに詳しく知る

イスラーム用語一覧
Category:イスラム教

イスラム教(いすらむきょう)またはイスラーム(まれにイスラーム教)とは、唯一絶対の(アラビア語でアッラーフ(アッラー))を信じ、神が最後の預言者たるムハンマドを通じて人々に下したとされるクルアーン(コーラン)の教えを信じ、従う一神教である。

ユダヤ教キリスト教と同様にアブラハムの宗教の系譜に連なるとされる唯一神教で、偶像崇拝を徹底的に排除し、神への奉仕を重んじ、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色がある。

目次

[編集] 名称

イスラム教はアラビア語を母語とするアラブ人の間で生まれ、神がアラビア語をもって人類に下したとされるクルアーンを啓典とする宗教であり、教えの名称を含め、宗教上のほとんどの用語はアラビア語を起源とする語である<ref>本項では、括弧内に示す言語は、とくに断りのない限り、アラビア語の正則語(フスハー)を用いる。</ref>。

イスラム教に帰依する者(イスラム教徒)は、アラビア語起源の言葉でムスリム(مسلم muslim)といい、ムスリムは、自らの教えの名を、アラビア語で「身を委ねること」「神に帰依すること」を意味するイスラーム (الاسلام al-Islām) の名で呼ぶ<ref>アラビア語では教えの名称を呼ぶ際、必ず定冠詞の「アル」が付属し、アル=イスラームとなる。</ref>。「イスラーム」は「神への帰依」を意味すると解されており、「ムスリム」(イスラム教徒)は「神に帰依する者」を意味する<ref>これらは、「平和」を意味する「サラーム」(一般的なあいさつの言葉でもある)などと同一語根の派生語である。</ref>。

また、「イスラム」という名称は、他の主要な宗教のように創始者(または民族)の名称を宗教名に冠していない(即ち、ムハンマド教とは呼ばれない)。この理由には諸説あるが、主な宗教学者<ref>例えば、イスラム神学者 Muhammad ibn Abd-Allaah ibn Saalih al-Suhaym など</ref>の解説によれば、イスラムが特定の人間の意志によって始められたものではないこと、及び国籍や血筋に関係なく全ての人々に信仰が開かれていることを明示するためであるとしている。

今日、この宗教を呼ぶ際に日本で一般的に用いられているイスラム教とは、アラビア語のالاسلام(イスラーム)という言葉が英訳表記された「Islam」に由来するものである。一方、近年、研究者を中心に、アラビア語の長母音をより厳密に反映したイスラームという言葉が好んで使われるようになってきた。高等学校世界史教科書や参考書、あるいは書店に並ぶ本や雑誌においても「イスラーム」の表記が用いられることが増え、一般にも定着しつつあるといえる。<ref>本項では便宜的に宗教の名称として日本語により広く定着しているイスラム教の用語に統一するが、イスラームから派生した用語については、研究者の用例を踏まえ、イスラーム◯◯と表記する。</ref>

なお、日本を含む東アジアの漢字文化圏では、古くは「回教」と呼ばれることが多かったが、現在はどの国でもイスラームの名に基づく呼称が一般的であり、あまり用いられていない。中華人民共和国では現在もムスリムを回族と呼ぶ。

[編集] 信徒数と分布

今日、ムスリムは世界のいたるところでみられる。異論はあるが、14億人の信徒があると推定されていて、世界で2番目に多くの信者を持つ宗教である。ムスリムが居住する地域は現在ではほぼ世界中に広がっているが、そのうち西アジア北アフリカ中央アジア南アジア東南アジアが最もムスリムの多い地域とされる。特にイスラム教圏の伝統的な中心である西アジア・中東諸国では国民の大多数がムスリムであり、中にはイスラム教を国教と定め、他宗教の崇拝を禁じている国もある。もっとも、世界的に見ればムスリム人口の大部分は中東諸国以外の人々であり、世界のムスリムに占める中東諸国出身者の割合は20パーセントにとどまっている。

世界のムスリム人口は、多子化やアフリカ内陸部などでの布教の浸透によって、現在も拡大を続けているとされる。また、移民として欧米諸国など他宗教が多数派を占める地域への浸透も広まっており、イギリスではすでに国内第2位の信者数を有する宗教である。また、現在の勢いがそのままだと、まもなくアメリカ合衆国で2番目の宗教になると推測されている。

しかしながら、近年はわずかながら他宗教への改宗によりムスリム人口が減少している国も存在する。特にタジキスタンウズベキスタンといったCIS諸国(旧ソ連諸国)では、ムスリムのロシア正教など他宗教への改宗が目立ってきている。

なお日本人ムスリムの総数は、大規模な調査が行われていない事もあり、はっきりしていない。過去に行われた調査では数千~数万程度のばらつきのある数字が提示されているため、最大に見積もっても信徒数は5万名に届かないのではないかと推測されている。

[編集] 教典

イスラム教の教典聖典)は、アラビア語で「朗唱されるもの」という意味をもつクルアーン(コーラン)である。クルアーン自身の語るところによれば、唯一なるが、人類に遣わした最後にして最高の預言者であるムハンマドを通じて、ムスリムの共同体(アラビア語でウンマ)に遣わした啓典(キターブ)であり、ムスリムにとっては、神の言葉そのものとして社会生活のすべてを律する最も重要な行動の指針となる。

イスラム教では、神(アッラーフ)が、預言者を通じて人類に下した啓典が、人類にとって正しい信仰の拠りどころになると考えている。

ムハンマド以前から、神は様々な共同体に預言者を遣わして、啓典を下してきた。しかしそれらのうちでもクルアーンは、神が人類に啓典を伝えるために選んだ最後にして最高の預言者であるムハンマドに対し、最も明瞭な言語であるアラビア語を用いて人々に与えた啓典であり、アラビア語で書かれたクルアーンの言葉は神の言葉そのもので、最も真正な啓典であるとされている。

このような性格のために、イスラム教は、アラビア語を解するアラブ人のための民族宗教であるかのようにとらえられたこともあるが、一方で、クルアーンは全人類のために下された啓典といわれており、普遍宗教としての性格を有するとされる。

[編集] 教義

イスラム教の信仰の根幹は、六信五行、すなわち、6つの信仰箇条と、5つの信仰行為から成り立っている。

六信は、次の6つである。

  1. (アッラーフ)
  2. 天使(マラーイカ)
  3. 啓典(クトゥブ)
  4. 使徒(ルスル)
  5. 来世(アーヒラ)
  6. 定命(カダル)

このうち、特にイスラム教の根本的な教義に関わるものが神(アッラーフ)と、使徒(ルスル)である。ムスリムは、アッラーフが唯一の神であることと、その招命を受けて預言者となったムハンマドが真正なる神の使徒であることを固く信じる。イスラム教に入信し、ムスリムになろうとする者は、証人の前で「神のほかに神はなし」「ムハンマドは神の使徒なり」の2句からなる信仰告白(シャハーダ)を行うこととされている。

また、ムスリムが取るべき信仰行為として定められた五行(五柱ともいう)は、次の5つとされている。

  1. 信仰告白(シャハーダ)
  2. 礼拝(サラー)
  3. 喜捨(ザカート)
  4. 断食(サウム)
  5. 巡礼(ハッジ)

これに、聖戦(ジハード)を6つめの柱として加えようという意見もあるが、伝統的には上の5つである。

これらの信仰行為は、礼拝であれば1日のうちの決まった時間、断食であれば1年のうちの決まった月に、すべてのムスリムが一斉に行うものとされている。このような行為を集団で一体的に行うことにより、ムスリム同士はお互いの紐帯を認識し、ムスリムの共同体の一体感を高めている。集団の一体感が最高潮に達する信仰行為が巡礼(ハッジ)であり、1年のうちの決まった日に、イスラム教の聖地であるサウジアラビアマッカ(メッカ)ですべての巡礼者が定まったスケジュールに従い、同じ順路を辿って一連の儀礼を体験する。

[編集] 社会生活

ムスリムは、クルアーンのほかに、預言者ムハンマドの膨大な言行をまとめたハディース(伝承)に、クルアーンに次ぐ指針としての役割を与えている。その理由は、ムハンマドは神に選ばれた最高の預言者であるから、彼の言行のすべては当然に神の意志にかなっていると考えられるからである。また、ムスリムの実生活上の宗教や日常に関するさまざまな事柄を規定するために、クルアーンやハディースを集成してシャリーア(イスラーム法)がまとめられている。

これらは教典ではないが、教典を補ってムスリムの社会生活を律するものとされており、その範囲は個人の信条や日常生活のみならず、政治のあり方にまで及んでいる。信仰の共同体と政治的な国家が同一であったムハンマドの存命中の時代を理想として構築されたイスラーム社会の国家は政教一元論に立っているのであり、ヨーロッパのキリスト教社会の経験から導き出された「政教分離」という概念はそもそもイスラームに適合しないとすら言われるのはこのためである。

ムスリムはクルアーンやシャリーアの定めるところにより、日常生活においてイスラームの教えにとって望ましいとされる行為を課され、イスラームの教えにのっとった規制を遵守する。教義の根幹として掲げられる五行はその代表的なものであるが、これらは社会に公正を実現し、ムスリム同士が相互に扶助し、生活において品行を保ち、欲望を抑制して、イスラームの教えにのっとってあるべき社会の秩序を実現させようとするものである。

公正の実現と不正の否定は、イスラームの社会生活において特に重要視されている。伝統的社会においては、個々人がシャリーアを遵守し、イスラーム的価値観にのっとった公正を実現すべきものとされた。公正は商取引の規制にまで及んでおり、シャリーアに適合しない商取引は不正とみなされる。また、ザカートサダカなどの喜捨の制度によって弱者を救済することは、現世の罪を浄化し、最後の審判の後によりよい来世を迎えるために望ましい行為とされ、イスラーム社会を支える相互扶助のシステムとなっている。社会的弱者に対する救済はイスラームの教えにおいて広く見られ、一夫多妻制のシステムも、元々は母子家庭の救済策であったとされている。

品行を保ち、人間の堕落を防ぐために、欲望を抑制する教えもみられる。女性が家族以外の男性に対して髪や顔を隠すよう求められていることはよく知られているが、これは性欲から女性を保護する目的が本旨であると考えられている。酒は固く禁じられるが、それは飲酒が理性を失わせる悪行であると考えられているからである。しかし、コーヒータバコのように、イスラム教の教義が確立後にイスラーム社会にもたらされた常習性や興奮作用のある嗜好品については、酒と類似のものとして規制する説も歴史的には見られたものの、今日では酒と異なって合法的なものとみなされることがほとんどであり、いずれもムスリムの愛好家は非常に多い。また酒にしても、禁令とは裏腹に、イスラーム社会で広くたしなまれていたことが知られている。

「清浄」に対する強い意識も特色であり、動物の死肉や血など不浄なものが体に付着したまま宗教的行為を行ってもそれは無効とみなされる。また、礼拝の際には、体の外気に触れている部分(手足、顔など)は必ず水か日光で消毒された砂で清めなければならないとされている。

[編集] 教団組織

イスラム教における信徒の共同体(ウンマ)は、すべてのムスリムが平等に参加する水平で単一の組織からなっていると観念されている。

従って、キリスト教におけるように、宗教的に俗人から聖別され、教義や信仰をもっぱらにして生活し、共同体を教え導く権能を有する「聖職者」は否定されており、これが他宗教に見られない特徴とされている。しかし、六信や五行に代表されるような信仰箇条や信仰行為の実践にあたって、ムスリムを教え導く職能をもった人々としてウラマー(イスラーム知識人)が存在する。

ウラマーは、クルアーン学、ハディース学、イスラーム法学、神学など、イスラームの教えに関する様々な学問を修めた知識人を指すが、彼らは社会的な職業としてはイスラーム法学に基づく法廷の裁判官(カーディー)、モスク(礼拝堂)で集団礼拝を指導する導師(イマーム)、宗教的な意見(ファトワー)を発して人々にイスラームの教えに基づく社会生活の指針を示すムフティー、イスラームの諸知識を講じる学校の教師などに就き、ムスリムの信仰を導く役割を果たしている。ウラマーは信仰においてはあくまで他のムスリムと同列に置かれており、聖職者ではないとされているが、こうした特徴のためにしばしば聖職者と混同されるし、実際に、他の宗教における聖職者に近い役割を果たしてきた。このため、非イスラーム教社会のマスコミなどではしばしばウラマーは「イスラム教の聖職者 (cleric)」と報道されている。

[編集] 歴史

[編集] 始原

西暦610年頃のラマダーン月に、ムハンマドはマッカ(メッカ。以後の表記は「マッカ」)郊外で天使ジブリールより唯一神(アッラーフ)の啓示を受け、アラビア半島でイスラーム教を始めた。最初、彼が人々に伝えた啓示の教えはマッカで迫害されたため、621年、ムハンマドはヤスリブ(のちのマディーナ(メディナ))に逃れる(ヒジュラ)。

ヤスリブにムスリムのウンマ(イスラーム共同体)を建設したムハンマドは周辺のアラブ人たちを次第に支配下に収め、630年ついにマッカを占領した。その翌々年にムハンマドはマディーナで死ぬが、後を継ぐイスラーム共同体の指導者として預言者の代理人(カリフ)が定められた。

[編集] スンナ派とシーア派の分離

ムハンマド死後もイスラーム共同体の勢力拡大は留まることは無く、4代の正統カリフの指導のもとイスラーム帝国と呼びうる大帝国へと成長していった。結果、ムハンマドの後継者のリーダーシップの下、イスラム教は急速に拡大し、現在に至るイスラーム勢力範囲の確立にも繋がった。イスラム教勢力が改宗の他にも、軍事的征服で拡大していったことが最も大きな要因とされる。

しかし、拡大とともに内紛も生じ、3代カリフの死後、4代以降の座を巡って、ムハンマドの従兄弟アリーとその子孫のみがイスラーム共同体を指導する資格があると主張するシーア派(「アリーの党派(シーア・アリー)」の意)と、それ以外のスンナ派(「ムハンマド以来の慣習(スンナ)に従う者」の意)へと、イスラーム共同体は大きく分裂した。結局、イスラーム帝国はウマイヤ家のムアウィーアがカリフ位を世襲して支配する。これに対して、政治的少数派となったシーア派は次第に分派を繰り返していき、勢力を狭めた。

[編集] イスラーム帝国の時代

8世紀半ば、ウマイヤ家のカリフ統は、よりムハンマドの家系に近いアッバース家に倒され、アッバース朝が成立する。アッバース朝はアラブ人以外でイスラームの教えを受け入れた者をムスリムとしてアラブ人と同等に扱う政策をとったため、ここにイスラーム共同体の国家はアラブ帝国から信仰を中核とするイスラーム帝国に転換したとされている。アッバース朝のもとで、それまで征服者のアラブ人の間だけにほとんど留まっていたイスラム教の信仰はペルシア人などの他民族に広まっていった。

また、国家としてのイスラーム帝国も、アッバース朝の下で空前の繁栄を迎えた。この時代、ムスリムの商人は広域貿易を盛んに行い、西アフリカ東アフリカインド東南アジア中央アジア中国などへ旅立っていったので、しだいにイスラム教の布教範囲は広がっていった。

また、神学をはじめとする多くの学問が栄え、イスラーム法(シャリーア)が整備されていった。一方で、素朴な信仰から離れ始めた神学への反発からスーフィズム(イスラム神秘主義)が生まれ、イスラーム以前の多神教の痕跡を残す聖者崇拝と結びついて広まっていった。

しかし、同時にアッバース朝の時代には、イベリア半島にウマイヤ家の残存勢力が建てた後ウマイヤ朝北アフリカにシーア派のファーティマ朝が起こり、ともにカリフを称し、カリフが鼎立する一方、各地に地方総督が独立していった。こうしてイスラーム共同体の政治的分裂は決定的になる。

[編集] 近代

近代に入ると、イスラム教を奉じる大帝国であるはずのオスマン帝国キリスト教徒ヨーロッパの前に弱体化していく様を目の当たりにしたムスリムの人々の中から、現状を改革して預言者ムハンマドの時代の「正しい」イスラム教へと回帰しようとする運動が起こる。現在のサウジアラビアに起こったワッハーブ派を端緒とするこの運動は、イスラーム復興と総称される潮流へと発展しており、現在も多くのムスリムの心を掴んでいる。

[編集] 現代のイスラム教を巡る諸問題

[編集] 政治的問題

イスラームの項目でもあるように、イスラム教は宗教的理念のみならず、民間の慣習や政治に深く関わっている。そのため、政教分離を特徴とする欧米的なシステムとイスラーム的なシステムは相矛盾することとなり、どの程度折り合いをつけるかが、20世紀以来のイスラーム社会の大きな問題となってきた。

多くの国は、イスラームの伝統と、欧米的なシステムの間で融和を図ろうとしているが、こうした姿勢自体に対する反発も根強い。いわゆる「イスラム原理主義」、あるいは政治的運動としてのイスラーム主義は、こうしたイスラーム的価値観の折衷に反対し、可能な限りイスラームの伝統、クルアーンの教えにのっとらねばならないと主張する。しかし、世界経済の進展や、国際社会に対する欧米諸国の国力の圧倒的な優位のもとではイスラーム主義的な主張は多くの困難を抱えており、武力を行使してまで理想の実現をはかる人々も少なからずあらわれる。ホメイニーが指導するイラン革命アフガニスタンターリバーンがそれである。

また、中東戦争など、ムスリムが大多数を占める国々に対する欧米諸国の介入を目にして、欧米のキリスト教社会がイスラーム社会を圧迫し、蹂躙していると構図でとらえるムスリムは多い。にもかかわらず、イスラーム諸国は国際的な発言力が大きいとはいえないし、イスラーム諸国の中に強い影響力を持つエジプトサウジアラビアなどが親米・欧米協調路線をとっているため、イスラーム諸国はしばしばイスラーム社会が「被害者」となる情勢に対して無力である。これらのことが、イスラーム社会の多くの民衆に反欧米感情とともに、自国政府の「同胞の危機に対する無力」に対する失望・不満を鬱積させることになっていて、暴力によって欧米社会の圧力を排除しようとする過激派(アルカーイダジェマ・イスラミアなど)の誕生のひとつの要因になっている、との見方もある。

[編集] 現代国際社会の普遍的価値観との価値観の相克の問題

イスラム教を奉ずる社会においては、現在の国際社会で信奉されている普遍的な価値観、すなわち人権などの近代思想から逸脱する価値観が、イスラームの名のもとにしばしば正当化される傾向が普遍的な価値観を奉ずる側から批判的に指摘されている。また、アッバース朝の時代にほぼ固まったイスラーム法を遵守する結果、その後の社会情勢の変化に対する柔軟な対応を欠くようになったという主張も根強い<ref>近年の研究成果により、イスラーム法は社会情勢の変化にまったく対応していないわけではなく、ファトワーの積み重ねや解釈の変更などは歴史的に積み重ねられてきたことが明らかにされてきた。ここで述べられたようにイスラーム法が硬直的であるという前提は必ずしも所与のものではなくなってはいる。</ref>。

一方で、イスラーム社会の内部では、イスラームの伝統の名のもとに行われてきた慣習や法を、イスラームの教えの解釈の適用変更によって改善すべきだという主張や、イスラームと人権などの価値観は共存可能である、あるいはイスラームは本来人権を尊重する教えである、といった言説も見られる。

現実の社会では、多くの国では、イスラーム法に厳格に基づく刑罰は既にあまり行われなくなっているが、サウジアラビアやイラン革命後のイラン、ターリバーン時代のアフガニスタンなどでは、イスラーム法を厳格に適用した結果、国際社会から人権侵害として憂慮された事例が報告されている。イランでは、道徳裁判所の判決が人権を無視していると伝えられることが頻繁に起こっている。サウジアラビアでは、窃盗の罪で手を切り落とす刑罰が実施されていると伝えられている。また、アラブ民族主義に基づく世俗国家を志向していたサッダーム・フセイン政権下のイラクでも、代表サッカー選手が負けた場合、鞭打ち刑が実施されたためにFIFAが刑の執行中止を勧告した例がある。

全体的な趨勢としては、社会の都市化・近代化が進んだ地域では、イスラームの教えを根拠とする価値観が薄らぎやすい傾向があるとされる一方、都市化・近代化で伝統的な共同体が破壊された結果、人々がアイデンティティの拠りどころをイスラーム的な価値観に求め、生活を再び保守化する傾向があるとされている。

[編集] 「女性差別」問題

イスラム圏の女性の服装も参照

一般にイスラーム社会は男尊女卑の世界といわれているが、実際に男尊女卑はイスラム教の教えに反するものである。法的に女性の固有の権利も認められており、これを根拠にイスラーム社会の法慣習に擁護的な論者はイスラームは男女同権であり、男尊女卑という非難は不当であると主張している。しかし、クルアーン及びイスラーム法が、男女がそれぞれ独立した社会活動をしているうえ、結婚・出産等に関しては男女ともに大幅に制限が設けられるのは当然であるという思想を根本に有している。このため、男性と女性の権利の差異が厳然として存在するという事実は否定の余地がなく、こうした事情を踏まえた上で、「イスラーム社会では男女は共存することはできず、男女間には完全な平等は存在できない」という解釈も唱えられ、浸透しつつある。

クルアーンには、当時低い立場にあった女性の立場を守るために下された法令が書かれており、法的に女性の遺産相続や離婚、学習の権利も認められており、男女同権であることを主張している。なお、イスラーム法では男性は4人まで妻を有する権利を有する一夫多妻制であるが(これは元々は男尊女卑的な思想に基づくものではなく、当時、預言者ムハンマド率いる2回の戦争で夫を亡くした女性の地位を守り、母子の生活手段を確保するために神が下した啓示であり、弱者救済策を目的としている)、現代社会では、一部の裕福な層とかなり貧困な層を除き、イスラーム社会の夫婦の大部分が一夫一妻である。複数の妻を有する場合は夫は妻らを平等に愛し、扱うことが義務とされる。また、イスラム教は、妻の数を4人までと定めている唯一の宗教で、同じ一神教であるキリスト教やユダヤ教には、そのような法律は定められていなく、当時は4人以上の相手を妻に迎えることが主流であった。

また、法慣習の建前から離れた現実においても、今日、イスラーム社会での女性の人権に対する問題は深刻である。さらに、イスラーム法に直接には基づかない慣習が非常に多くの国に残されているのも深刻な問題とされている。国ごとの違いや、あるいは一国の中でも社会階層や地域による差は大きいが、「女子の就学制限」、「名誉の殺人」、「女子割礼」などが現在も横行しており、イスラームの伝統的な価値観に照らして正しいと少なからぬ人が信じている。

特に、強姦罪において、イスラーム法によれば容疑者を有罪とするためには証人が4人必要であるとされることから被害者にとって不利が大きく、国際的な非難の的である。さらに、貞操や名誉などの伝統的な社会通念を重んじる地域では、強姦の被害を受けた女性は被害者であるとみられるよりもむしろ「恥」とみられるような感覚をもたれることになり、イランでは、道徳裁判所の判決により、強姦の被害者が姦通罪により死刑になるような事例も伝えられている。

服装の規定を厳格に守れば、女性は自ずと家庭外での活動を制限されることになる。これは、イスラームの教えのひとつに、女性は家庭の外では夫以外の男性の視線から自身を守るために女性的な部分を包み隠すべきであるとする教義が存在するためである。これがイスラーム以外の宗教の信徒でも見られる西アジア社会の伝統的な女性の服装習慣と結びついて、女性は外出時には体全身を覆う外出用の衣装を身に付けることがイスラーム的に好ましいと多くの社会では考えられており、サウジアラビアやターリバーン時代のアフガニスタンにように、政府による女性の外出時の服装制限が行われた地域も存在する。また、服装は西欧化が進んだ地域でも、イスラーム的な女性の外出時の習慣としてスカーフを着用し、髪を隠すムスリムの女性は多い。一方、エジプトやトルコなどでは、学生など特に若い層を中心に、日常生活のほとんどを西洋人と同じジーンズなど軽装で過ごす女性が多い地域も増えてきている。

女性のスポーツの問題においても、服装が制限される結果、それによって競技ができない場合も少なくないため、多くの国で女性のスポーツ浸透が大幅に遅れている。中には、イスラーム教の棄教または他宗教への改宗によってスポーツ社会に進出した女子選手も存在する。女子バレーボールでは、エジプトの代表チームが近年登場するようになっているが、このユニフォームは、クルアーンに抵触しないようにデザインされている。また、スカーフ着用で試合に出場する選手も多い。

スカーフ着用に関しては、イスラーム社会の内外で現在、賛否両論が相次いでいる。慣習に厳格な国では女性が外出する際にスカーフを着用することが強要されている。一方で、世俗主義を標榜するトルコなどでは、政教分離の原則に基づいて公的な場でスカーフを着用することが忌避される。加えて、脱イスラームを標榜する人々や、イスラーム社会外部の人々の中には、スカーフ着用を女性の人権抑圧の象徴として着用を禁じるべきと主張するものも少なくない。トルコや、あるいはフランスなどのヨーロッパにおける政教分離原則の国々においては、法律によるスカーフの着用禁止を巡って、自発的にスカーフを着用するムスリムの女性から逆に人権上の問題ととらえられているような事例もしばしば発生しており、政治問題に波及している。

[編集] 「ジハード」概念の問題

クルアーンの記述には、異教徒に対する暴力を奨励するような記述が多数見られる。これはイスラム教初期において、ムスリムと異教徒(多神教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒)の間に宗教的・政治的・軍事的緊張があったことを反映するものであって、クルアーンには、啓典の民に対して、礼儀正しく、敬意を払わなければならないと訴えている箇所も多数見られる。ムスリムが”神のために苦しむこと、自分の欲望を断ち切って努力すること”をジハードというが、この意味は信者の間で誤解されることが近年増え、ジハードの名のもとに多くの破壊が行われている。

もともと伝統的な多神教が信仰されていたアラブ人の社会の中で生まれ、さらにユダヤ教やキリスト教などの異教を乗り越える中で拡大していったイスラム教は、自らが純粋で真正な一神教であるという確信に基づく自意識を強く持ち、イスラーム共同体の開祖であるムハンマドの時代からムハンマド自ら多神教の神像を打ち壊し、敵対するユダヤ教徒を屈服させることによって急速な拡大を実現した宗教であるとされているが、その一方で、ムハンマドは和平を強く象徴しており、偶像破壊は、幾度と行われた外交的な交渉で勝ち取ったメッカへの巡礼許可のもとに行われたものである。イスラームを奉ずる国家や民族が、他の宗教を奉ずる文化に対して圧迫を加えた例は少なからず見受けられるが、宗教の強制はイスラムでは堅く禁じられている(ただし、これは異教徒に対するものであり、イスラーム信徒の棄教者は死刑とされる、但し実際にはイスラム教徒の棄教も少なくない)。シリア小アジアイベリアインドなどでは、ムスリムによってモスクへと改築されたり、破壊されてしまったキリスト教会、仏教寺院、ヒンドゥー教寺院が数多く見られる。<ref>ただし歴史上のそれに関しては、ムガール帝国期のインドにおいて非ムスリムとムスリムの宥和政策がとられたことや、キリスト教徒の十字軍が行った異教徒に対する残虐行為などを例示して、イスラムの排他性のみをことさらに強調するのは誤りだとする意見もある。</ref>イスラームによる他宗教への弾圧に関しては近年でも、タリバーン政権によってバーミヤーンの大仏が破壊されてしまったことは記憶に新しい。

近年、自爆テロなどで活動の過激さを増しているイスラーム主義の先鋭的勢力も、異教徒に対するジハードを旗印として活動を行っていることは紛れもない事実である。

パレスチナ問題に対する抗議として行われるハマースの自爆テロなどはその典型であるが、こうした過激なジハードが繰り返されてきた結果、過激派はムスリムの間に少なからぬ支持者を集める一方で、国際世論をイスラーム社会に対する同情から、イスラーム社会の排他性に対する非難へと傾かせることになった。

特に、アメリカ同時多発テロ以降、その傾向は強まりつつある。同時多発テロの実行犯たちは、これを「ジハード」であると認識し、善行と信じて犯行を実施したとされている。イスラーム社会の宗教指導者たちの少なからぬ者は、「暴力はイスラームの本質ではない」として直接的・間接的にテロを批判したが、複数の宗教指導者が、テロの実行犯たちをジハードによる「殉教者」として称えるファトワーを発したことも事実である。

しかし一方で、イスラム教では、無実の者を殺害することは一切禁じられており、クルアーンにも厳しく書かれていることを、ウラマーや学者は指摘する。したがって、イスラム教とテロリズムは、本質的には相容れないものである、という反論がある。

[編集] 日本とイスラム教

神戸モスクの外観
東京ジャーミイの内部

日本にあるモスクとしては、日本国内初のモスクである神戸モスクと、渋谷区にあるトルコ系モスクの東京ジャーミイが歴史が古く、有名である。その他にも、多くの定住者や改宗者のためのモスクが存在する。また、新来のムスリム在住者のためのモスクも非常に多い。

[編集] 著名な日本人ムスリム

(元ムスリム、あるいは一時的改宗者を含む。)

  • ギュレチ・セリム・ユジェル(イスラーム文化センター代表)
  • 山岡光太郎(オマル山岡。日本人初のメッカ巡礼者)
  • 田中逸平
  • 小村不二男(ムスターファ小村)
  • 三田了一(オマル三田。クルアーンの日本語訳者の一人)
  • 黒田壽郎(仏文学者)
  • 市来龍雄(アブドルラフマン市来。インドネシア独立戦争に参加した義勇兵)
  • 吉住留五郎(アレフ吉住。インドネシア独立戦争義勇兵)
  • ユセフ・トルコ
  • ロイ・ジェームス
  • 吉村作治早稲田大学教授:現在は棄教)
  • 中田考(同志社大学教授)
  • 奥田敦(慶應義塾大学教授)
  • 澤田沙葉(シーア派信徒、神道家、大本教友)
  • 野町和嘉(写真家。メッカの写真集を刊行)

[編集] 日本のイスラーム関係の著名人

[編集] 関連項目

[編集]

<references/>

[編集] 参考文献

イスラーム教を扱った日本語の文献は少なくなく、とくに近年は非常に活発に出版されているが、ここでは事典類、基礎的な入門書と、本項目に特に関連する文献を挙げる。

  • 『岩波イスラーム辞典』岩波書店、2002年。
  • 『新イスラム事典』平凡社、2002年。
  • 大塚和夫『イスラーム主義とは何か』岩波書店、2004年。
  • 大塚和夫『イスラーム的 世界化時代の中で』日本放送出版協会、2000年。
  • 小杉泰『イスラームとは何か その宗教・社会・文化』講談社、1994年。
  • 後藤明『ビジュアル版 イスラーム歴史物語』講談社、2000年。
  • 桜井啓子『日本のムスリム社会』筑摩書房、2003年。(ISBN 4480061207)
  • 中村廣治郎『イスラム 思想と歴史』東京大学出版会、1977年。
  • 中村廣治郎『イスラームと近代』岩波書店、1997年。
  • 中村廣治郎『イスラム教入門』岩波書店、1998年。

[編集] 関連書籍

  • 『イスラムの建築文化』 アンリ・スチールラン著、神谷武夫訳 原書房 ISBN 4-562-02127-6
  • 『楽園のデザイン―イスラームの庭園文化』 ジョン・ブルックス著、神谷武夫訳 鹿島出版会 ISBN 4-306-09310-7

[編集] 外部リンク

<span class="FA" id="en" style="display:none;" /> <span class="FA" id="he" style="display:none;" /> <span class="FA" id="id" style="display:none;" /> <span class="FA" id="pt" style="display:none;" />

ことばこって?

「ことばこ」は、歴史の人物から最先端テクノロジーまで、なんでも調べられるオンライン百科事典です。ウィキペディア財団が運営を行なっているwikipedia.orgから引用をしています。

おススメサイト
トラブログ
アレどう?
アフィリエイトB