イスタンブル
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イスタンブル、あるいはイスタンブール(トルコ語 : İstanbul)は、トルコ共和国西部に位置し、ボスポラス海峡をはさんでアジアとヨーロッパの2大陸にまたがる都市。首都アンカラを上回る同国最大の都市で、イスタンブル県の県都でもある。2000年の人口は約880万人で、イスタンブル県全体では1000万人を越える。北緯41度1分7秒、東経28度57分53秒。
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[編集] 名称
日本語表記は、カタカナではしばしば「イスタンブール」とされるが、標準トルコ語の発音では最後の音節は長母音化されないので、発音により忠実に「イスタンブル」と表記されることも多い。もっとも、トルコ語の口語では母音調和化して日本語母語話者の耳には「ウスタンブル」と聞き取れるような発音になることも多いようである。
イスタンブルは、古代のビュザンティオン(ビザンティオン)、コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)と同じ町である。
イスタンブルの名は、東ローマ帝国時代からスラブ人らが旧市街を指して呼んでいたスタンブルという地名がトルコ人にも取り入れられたものと考えられる。この名前は、一説にはギリシャ語の "(eis) stin poli" (「都市に」)から取られ、ギリシャ人がコンスタンティノポリスを「都市の中の都市」と呼んだことに由来するという。あるいは、Constantinopolisがつづまったstanpolという形を語源に想定する説もある。
トルコ人に先立ってコンスタンティノポリスに接触したイスラム教徒たちの書いた史料では、9世紀にはこの町の名称として、アラビア語で「クスタンティン(コンスタンティノス)の町」を意味する「クスタンティニーヤ قسطنطنية (Qusṭanṭiniyya)」あるいは「クスタンティーナ قسطنطينه (Qusṭanṭīna)」が一般化されていた。「スタンブル」「イスタンブル」という名称がイスラム教圏でいつ頃から広く用いられるようになったかは定かではない。しかし、アナトリアのトルコ化がかなり進んでいた14世紀初頭に編纂されたペルシア語の歴史書では、コンスタティノポリスについては「クスタンティーナ」が一般的に使用されている一方で、「イスタンブール (استنبول Istanbūl)」がその異称として用いられている例が見られ、少なくとも当時のアナトリア方面の人々の間では「コンスタンティノポリス」の異称として「イスタンブル」という名称が使用されていたことが伺える。
日本の歴史叙述では、オスマン朝がこの町を征服した1453年を境にして「コンスタンティノープル」から「イスタンブル」と言い換えるのが通例である。しかし当のオスマン朝の人々が用いた文章語であるオスマン語の上では、この町の名前は「イスラームが広まった」を意味する اسلامبول İslâmbol と綴られたり、Āstāne-ye Sa‘ādat/Asitane-i Saadet(「幸福の宮居」)、Ummu 'd-Dunyā/Ümm-i Dünya(「世界の母」)、Dāru s-Salṭanat/Darü’s-Saltanat (「王権の館」)などとペルシア語・アラビア語で様々に美称されており、また貨幣の刻印などでは正式な都市の名称としてコスタンティニーヤのオスマン語・トルコ語形である「コスタンティニエ (قسطنطنية Kostantiniyye)」が長く使われ続けていた。
この都市の正式名称がイスタンブルに改められ、国際的にもコンスタンティノープルではなくイスタンブールと呼ばれるようになるのは、トルコ革命後の1930年のことである。なお、ギリシア語では現在でも未だにコンスタンティノポリスと呼ばれている。
[編集] 歴史
古代、中世のイスタンブルはそれぞれビュザンティオン、コンスタンティノポリスも参照。
現在「旧市街」と呼ばれる、マルマラ海と金角湾に囲まれた、ヨーロッパ大陸から突き出した半島の先端に設けられた古代ギリシアの植民都市ビュザンティオンが、イスタンブルの起源である。ローマ帝国末期330年にコンスタンティヌス1世がここに遷都、ビュザンティオンをコンスタンティノポリスと改名した。以来1000年以上に渡り、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都として、1453年のコンスタンティノポリス陥落までキリスト教徒の都であった。
1453年にこの町を征服したオスマン帝国のメフメト2世はただちにエディルネから遷都し、イスタンブルは引き続き東地中海を支配する帝国の首都となった。町の支配的な宗教はイスラムに改められ、聖ソフィア大聖堂(アヤソフィア)をはじめとする多くのキリスト教の教会がモスクに転用された。
メフメト2世はモスクと病院、学校などをくみあわせた複合施設群を設立し、ローマ帝国の引いた水道(ローマ水道)を補修し、後のグランドバザールの前身となる屋根付きバザールを始めとする商業施設を建設して都市インフラを再興した。さらに、被征服者のキリスト教徒にズィンミー(庇護民)としての保護を与えて新都にそのまま住まわせる一方、アナトリア半島の諸都市からムスリム(イスラム教徒)の富裕者を強制的に移住させる政策をとったので、15世紀後半の50年間にイスタンブールはビザンツ帝国の末期には激減していた人口を大きく上回る大都市となった。
各街区には君主や大臣などの有力者が設立したモスクがつくられ、イスラム都市の伝統にのっとったモスクと公共施設が整備された。また、東方正教やアルメニア正教の教会、ユダヤ教のシナゴーグも数多く維持され、ムスリムのトルコ人のみならず、ギリシャ人、アルメニア人、ユダヤ人、そして西ヨーロッパ諸国からやってきた商人・使節など、様々な人々が住む多文化都市、東西交易の中心都市でもあった。
近代には旧市街のみならず、新市街と呼ばれるガラタ地区、ベイオール地区やアジア側のウスクダルなどを取り込んで大都市へと発展する。とくに、ベイオール地区ではペラ大通り(現在のイスティクラル通り)に沿ってヨーロッパ各国の大使館や多国籍のホテル、レストラン、商店が立ち並び、ヨーロッパから移植された西欧文化のショーウインドウとなった。
1923年、前年にスルタンを廃止してオスマン帝国を消滅させ、首都機能をアンカラに移したアンカラのトルコ大国民議会は、トルコ共和国の建国を宣言。これによって、イスタンブルはコンスタンティヌス以来1000年以上続いた大帝国の首都としての地位を失った。しかし、共和国期も依然としてトルコの社会・経済・文化の中心都市として繁栄し、市域はさらに拡大を続けてボスポラス海峡の沿岸全域とマルマラ海沿岸の広い地域を含む大都市となった。
[編集] 交通
ヨーロッパ側とアジア側にそれぞれ国際特急の発着する鉄道駅、高速バスターミナル、国際空港があり、トルコ各地や諸外国と繋がっている。
それらの中でも、海外からの主要な玄関口となるのはヨーロッパ側のイェシルキョイ (Yeşilköy) にあるアタテュルク国際空港である。空港と市街地は空港バス (HAVAŞ) と、地下鉄 (Metro) で繋がっており、イスタンブル市路面電車・地下鉄運営局 (İETT) 経営の地下鉄は観光名所の多い旧市街中心部に乗り入れる路面電車 (Tramvay) と郊外のゼイティンブルヌ (Zeytinburnu) 駅で接続している。
新市街側ではイスティクラル通りの北の終点であるタクスィムから北の住宅街に向けて地下鉄が走っている。新市街と旧市街の地下鉄は将来的に金角湾を渡って接続することが計画されている。
鉄道以外ではバスや、ドルムシュ (Dolmuş) と呼ばれる乗合タクシーが広く市民の足として使われており、市内を細かくカバーする路線網がひかれている。また、海峡をまたいでアジアとヨーロッパに分かれた町であることから海上交通網も発達しており、大小数多くの定期船(公営)が、両岸に設置された多くの桟橋の間を行き交う。さらに現在、ボスポラス海峡を貫通する地下路線の工事が進行中である。この路線が開通すれば、国鉄 (TCDD) のヨーロッパ側路線とアジア側路線が相互乗り入れ可能となり、広大なイスタンブル市の東西が鈍行列車でも2時間で接続される見込みである。
[編集] 観光
- アヤソフィア
- トプカプ宮殿
- スルタンアフメト・モスク(ブルーモスク)
- アト・メイダヌ(ヒッポドローム)
- 地下宮殿(イェレバタン・サライ)
- スレイマニエ・モスク
- カーリエ博物館
- テオドシウスの城壁
これらはユネスコの世界文化遺産イスタンブール歴史地域を構成する歴史的建造物群である。
[編集] 姉妹都市
[編集] 関連項目
- ベイオール
- ガラタ
- ユスキュダル
- カドゥキョイ
[編集] 外部リンク
- トルコ共和国大使館トルコ政府観光局のイスタンブール紹介のページ(日本語)
- Istanbul Oficcial City Guide(英語)
- istanbul forever !
- Pictures of istanbul
- イスタンブル(日本語)
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